第23話



グティエルは彼女の灰白色の目から視線を外し、少しぶっきらぼうに続ける。


「お前はユルカイアでいいのか?」

「いい、ですって?」

「つまり、初夜を迎えてしまえばこんな貧しい北の果ての地に根付くことになるんだぞ。本当にそれでいいのか、よく考えてくれ」


本当は彼はこう聞きたかったのだった――俺でいいのか? と言いたかった。だが答えを聞くために彼は何も準備していなかった。そのことに気づいた瞬間、魔物と対峙したときさえ感じなかった冷たさが背筋を滑っていった。


ラウラはきょとんとした。黒髪のほつれたところがするすると彼女のまろやかな頬の線を辿って落ちた。


「それを決める権利が自分にあるとは思ってもいませんでした。それに、そもそも帰るところもない身ですから」

「そ、うだったな……」


グティエルは目を細めた。胸に浮かんだままを言った。


「かわいそうに」


ラウラは少し笑ったようだったが、それは彼の知らない温度の笑い方だった。グティエルは与えられたすべてを受け入れ、言われるがまま魔物を狩り、先祖たちとともに死んだ鉱脈のあとを駆けて生きてきた。ただそこにあるものを愛するのが彼のやり方だった。それが目の前にやってきた理由を考えたことはなかった。


「ええ。私かわいそうなんですの」


と俯くラウラの額の白さに彼は何も言えなかった。ただ何かを間違えたことはわかり、同時に何かが始まった予感がした。


翌日、彼はクズ魔石の調達のため再び山に潜った。


ラウラは彼を待って診療室と自室を行き来する三日間を過ごした。


「最近ちょっと楽しそうじゃない? 浮気でもしてるんですか?」

と丸めたリネンを腕に抱えたルイーズが眉をひそめたのは一日目のことである。


「そうかしら? そう見えるの?」

「このへんってほとんど若い男はいないはずですけどねえ。いてもヒョロヒョロの病気がちのか頭が悪いかなんですもの。フウン? じじいが好きなの?」


ラウラは柔らかく微笑む。ルイーズは愛らしいピンク色の唇をつんと尖らせると、

「そうやって黙ってればしてないことになるとでも思うの? ふーん。マヌエラに言っちゃうからね!」

ぷりぷり怒って部屋を出ていった。ちゃんとリネンを抱えて。


ラウラは久しぶりに心から微笑ましくて笑った。自分からまだ笑い声が出ること、フォルテの嗜める声が頭の中に響かず、タラの復讐をけしかける涙も見えないことが不思議だった。


マヌエラは相変わらず優しく、上品で慎ましく、おっとりした声で話す中年のメイド以外の何者でもなかった。それ以外の面を見せるほど、彼女はラウラに興味もなかったのだろう。


「ルイーズが何やら言っておりましたけれど。奥様、おわかりでしょうね? もうお次はないんですよ」


と廊下で行き会ったとき、わざわざ忠告してくれた。目には侮りがあり、半分本気でラウラの正気と頭の出来を心配していた。だが気遣いは本物だった。ラウラがスカートをつまんで一礼してみせたくなるほどに。


「心配させてごめんなさい。不安になるようなことは何もないわ。安心してくださいな」

「そう? ならいいですけれど。田舎のことですから噂の回りが早いですからね……」


はー忙しい、と呟いて彼女は足早に去っていく。そのしっかりした足取り。すぐに幾人かから声がかかって、頼られていることがわかる。ユルカイアの城でマヌエラはなくてはならない人なのだ。


(ちょっと羨ましい)

ラウラの離宮にもああいう使用人がいてくれたらよかったのに。


グティエルが帰ってきて、大広間が騒がしくなる。お帰りなさい、お帰りなさいと人々は唱和する。グティエルの帰還を喜び――彼が持ち帰ったちょっとした魔石や魔物の鱗や爪を受け取る。彼らはそれらを加工して、隊商に売るのだ。羊毛と加工品の代金と、ささやかな耕作地で作った芋や大麦。荒涼とした荒野が広がるユルカイアで生きるための命綱はそれだけだった。


税金がなければもう少し楽なはずである。ラウラがまだ皇女の肩書を持っていたら、いくらかの減税措置がとられたはずである。生活の内情が見えるほど人々と自分の距離が近くなったことは、ラウラに別の悩みを与えていた。自分がどれほど恵まれていたかというのをまざまざと見せつけられ、十分慎ましいと思っていた大聖堂での尼僧見習いとしての暮らしでさえ豪華だったと理解して、苦悩しているのに何も打つ手がない。


ただ彼女にできるのは呪符を書くことだけだった。


ばたんと音を立ててグティエルは診療室に入ってきた。


「おかえりなさい」

「うん。ちょっと……」

「え?」


と思ったときには彼女は抱きしめられていた。体温と、匂いがした。冬の山の中の冷ややかで締め付けられるように冷たい匂い、それから雪の香り。彼の黒髪は湿っていた。まだ雪の粒が頭のてっぺんに残っており、暖炉の熱で徐々に解け始めていた。


ラウラは自分が寂しかったことを知った。この三日間だけではない、ずっと長い間そうだったことを思い知った。


決してそうはなりたくなかった女に自分がなりかけているのに、怒るでもなくその変化を受け入れようとさえ思った。


「妻が――家族が両手を広げて家で迎えてくれる生活に憧れてた、から。急にすまなかった」

「いいえ、いいえ」


首を激しく横に振り、耳の後ろで黒髪を留めていたピンがグティエルの耳朶を掠める。


「離れたくなかったみたいだ、俺」


彼はそう言って彼女をさらに引き寄せる。どくどくと心臓が鳴っているのが、どちらのものかわからない。チュニックごしの体温は熱く、雪だけでなく汗の湿り気もあったが不快ではなかった。


灰白色の目と黒い目の視線が絡み合って、こういう状況でキスするなら構わないと思った、心を奪われても。


だが唇が重なる前にどだんと扉が開いて、盛大な咳払いとともにルイーズが入室した。


「お茶ですっ! マヌエラ様からですグティエル様のことを心配してましたよ! ホラ、はい! 奥様気が利かないですねえ、なんで暖炉を強めとかないんですかぁっ?」


ラウラは笑い出した。ルイーズは本当に妹のようだったが、妹にはあった宮廷式の悪意がまるきりなく、ラウラは彼女を……そこまで嫌うほどでもない。


グティエルは盛大なため息をついて妻の身体を離した。わなわな震えるルイーズに向き直り、彼女の捧げる盆からカップを取り上げる。


「はいはい、飲むよ。生姜入りのやつな。まずいんだけどなこれ」

「はー? 飲まなきゃいけませんよっ。冷えてるんですからねっ!」

「はあい」


ラウラは火かき棒で炎を燃え立たせる。目の端に涙を貯めたルイーズの大きな瞳はきらきら光り、ますます彼女は愛らしかった。窓の外ではタイミング悪く雪が止み、弱弱しい陽光が分厚い雲の向こうから顔を覗かせていた。


「ホントに気が利かない奥様ですねえ。あたしがやった方が早いわ」


と、得意満面、ルイーズはラウラをお尻で押しのけようとして、机の上の書きかけ呪符に気づいた。少女は首を傾げた。


「なあに、呪文?」

「ああ――ちょっとした、情報伝達をね」

「は? グティエルに?」

「ええ。彼は正式な魔法の訓練を受けていないでしょう。私の知る限りのことをお伝えしていました」

「そうそう、そういうこと。あと切り傷があるから見てもらおうと思って」


――そういうことにしておこう、と打ち合わせたわけでもないのに夫婦はこっそり目配せしあう。本人たちに自覚なく、それは怖い正妻の目を盗んで愛の視線を送り合う主人とメイドに似ていた。


ラウラはユルカイアにとって盗っ人だった。そのことをもっと自覚すべきだった。それから起こったことを考えれば、彼女は考えが足りなかったと言わざるを得ない。閉ざされた辺境の閉ざされた人間関係の中に、ひょっこりと入り込んだ異分子。気を付けるにこしたことはなかった。持ち物は全部、周囲に分配するくらいの気持ちでちょうどよかった。持っている知識や技術に関してもそれは同じで、実質的に彼女はグティエルを通じてそうしていたけれど、やはりもっと他にやりようがあったのだ。


彼らは若く、やり方を知らなかった。原因を突き詰めて言えばそういうことだった。


「フウン……」

とルイーズは疑わし気に小さな鼻に皺を寄せた。


「余計なことしない方がいいわよ。奥様、嫌われてるんだし」

「そうよねえ」

「コラ、失礼なことを言うな。俺の妻なんだから」


ふん、とルイーズは腰に手を当てる。きらきらと髪の毛が腰まで滑り落ち、勝ち気な小さな顎をつんと当てた姿は少女神の彫像のようだった。


「どこで何してようが必ずばれるわ。ユルカイアってそういう土地柄だわ。あたし、忠告はしたからね!」


不吉な言い方だ、とラウラは思った。

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