第24話



診療室にはいつでもラウラがいて、グティエルがちょくちょく訪れ、それからルイーズも訪れた。三人が輪を作った、と思ったのはラウラだけで、実際のところはグティエルのルイーズの間に元々あった絆に彼女がいれてもらったのだった。だがそれはこれまでになく幸福な時間だった。


ルイーズが我儘放題にラウラを憎むのだが、グティエルがいると自然とその敵意もなりを顰め、そうしてみるとまだ幼さの残る少女のそれは兄を女に取られた妹の嫉妬そのものだった。彼女は一般的な貴族令嬢の教育を受けていたが、ごく初歩の段階で学びは止まっていた。教本の用意はあったので、ラウラがそこから先を助けて簡単な授業じみたことをした。修飾文字で手紙を書くこと、正しい礼の角度、貴族特有の気取った言葉遣いからいつか貴婦人となったときに欠かせない経理の勉強まで。


ルイーズは地頭がよく、ぶつぶつ文句を言いながらもラウラの指示によく従った。

「これはあたしの将来に役立つからいうこと聞いてるんであって、奥様が好きだからじゃないんですからね⁉︎」

と凄む顔さえ、大きな目がとんがって唇がきゅっと弾き結ばれて、子猫の威嚇のようなのだった。


「ええ、わかってますよ。さ、お次」

「むうう……」

そんな具合の日々だった。


ユルカイアには若者が少なかった。彼ら三人と、それからごく貧しい家庭に何人かの痩せこけた子供。それだけ。領主が失踪して以来、未来を見なくてはならない若い世代は子供を連れ、金を出し合ってユルカイアから脱出したのだった。それは辺境伯の継承権を持つ家系すら例外ではなかったというから、本当にこの土地は見捨てられかけていたのだった。


ルイーズはおそらく同年代の女と何かをするのが初めてだったし、ラウラもまた、妹のような年齢の少女とこれほど親密にするのは知らない体験だった。嘘をついたりつかれたり、より権力を持った者、たとえばマヌエラに媚びるため互いの欠点や失敗を探す必要がないのが嬉しかった。弟妹とはよそよそしかったし、特に妹は母のお気に入りだったのでなんてことない挨拶でさえ探り合いになることもしばしばだったのに。


ユルカイアでラウラは息をしていられると感じていた。ルイーズと話すのは、彼女に憎まれることさえ楽しかった。何かことあるごとに揚げ足取られるのも可愛かったのだ。それはグティエルが鎧の手入れなどをしながら、


「なんでいつの間にか俺より仲良くなってるんだ、ふたり?」

などとぐちぐち言うほどだった。


だからすっかり忘れていたのだ、ルイーズが何かあれば当然、マヌエラの味方をするということを。ユルカイア人として振る舞うということを。自分の身を守るということを。そしてそれは何一つ悪いことではないということを。


きっかけはミネルバ老女が風邪を引いたことだった。すでに冬も終わりかけてだったが、この時期に流行る風邪が一番たちが悪く重いのだと言う。


その前日、グティエルは冬の最後となる加工魔石を人々に配ったところだった。本物の魔石とは異なり、呪符で誤魔化したクズ魔石は一、二回使えば摩耗して砕けてしまう。だから一度に何個も作り、何度も何度も作る必要がある。この製法が廃れたのも納得の手間暇である。


彼女はその魔石を使って風邪を治そうとした。石に封じられた魔力がふわふわと老女を取り囲み、ミネルバ付きのメイドはこれで治るだろうとほっとしたのだという。暖かい力の余波にミネルバは心地良さそうに目を細め、


「奥様に似ている力ね」

と言ったそうだ。彼女のいう奥様とはラウラのことではなく、グティエルの母親、遠い都からやってきた美しいその人のこと。

老女は穏やかに眠りにつき、メイドが翌朝起こしに行くとすでに息がなかった。


グティエルは山に出かけていた。春先に目覚めた魔物が寝ぼけて人との境界を犯すことがないよう、山全体の再確認を伴う長い遠征の予定だった。グティエルの最初の教師だという人にラウラは親近感を抱いていたから、その死を悲しみ、夫がどれほど落ち込むだろうと心配した。今度の葬式は参列してもいいのだろうか? 故人との親交はなかったが、少なくともラウラがユルカイアの女主人であり夫不在の今はその代理人である。文句を言われても最後まで残ろう……そう決めた、喪服の手入れをするため正妻の部屋に戻った。


時間は昼間で、暖炉の火は絶えていた。肌寒い思いをしながらクローゼットを開いた。窓の外でもはや雪が降っていないこと、訪れつつある春の気配を感じていた。


雪崩こんでくる人々が何を言っているか理解できず、何故腕を取られ部屋から引きずり出されたのか、なぜ大広間まで連行され取り囲まれているのかわからなかった。間抜けた顔をしていたに違いない。


彼らはラウラを古い丸いテーブルの上に立たせ、それはぎしぎしと今にも壊れそうだった。晒し者にされながら、彼女はまだ状況を把握できていなかった。


大広間の向こうから、マヌエラが走ってきた。罵声が止んだ。

「何をしているの! おやめなさい!」

「でもこいつがやったんです」


と男が答えた。当たり前だがラウラはまだここにやってきて半年、知らない顔の方が多い。それは髭面に丸い顔と頭をした老境に差し掛かった男だったが、彼が城で長年働いてきた管理人の一人であることを知らなかった。


城にゆかりのある者、魔物の襲撃が予想される村の住人は冬の間、城の地下と一階に身を寄せることが許される。春のきざしが訪れたのでそれらの人々は家に帰る準備をしていたが、その矢先にミネルバが死んだのである。彼らはこのように考えたーーこれは明らかにおかしな死であり、原因があるはずだと。


ユルカイアは何度も疫病に襲われ、それを潜り抜けてきた土地だったから、全員が病は恐ろしい魔女の悪意の呪いが引き起こすこと、病死した者を地中深くに埋葬し祈りを捧げ、呪いをかけた魔女の血を墓地に注がなくては止まらないことを知っていた。原因を破壊してからでなくては危なくて家には戻れない。ミネルバを殺した病を持ち帰ってしまうではないか!


魔女がいるはずだった。それは誰か? 彼らはみんな知っていた。ユルカイアを憎み、彼らの愛するルイーズ嬢を羨み、奇妙なことばかりする余所者がひとり、いることを知っていた。


知らなかったのはラウラばかりである。


最初の男の大声に鼓舞されて、人々は次々に叫び始めた。毒を盛った、クォートの娘、ミネルバ様はまだお元気だった、急に死ぬはずはない、クォートの女が殺した、殺した、殺したーー


ラウラはぼうっとなった。頬は上気して手足とみぞおちが冷えた。脳が茹って思考が止まった。クォートの竜はユルカイアの狼に殺された、だから我々もこの女を殺していい。そのようなことを人々は叫んだ。


マヌエラはテーブルに乗せられたラウラになんとか近づこうと人々をかき分け、肩を掴み、あるいは殴ったが効果はない。華奢な中年女性は輪から弾き出されて石畳の上に転がった。彼女の顔が奇妙に歪んでいるのをラウラはぼんやり眺めた。かなり距離があったのに、まるで目の前にあるかのように見えたのだった。マヌエラはこう吐き捨てていた、愚か者ども、と。


まるで前も経験したことがあるようだ、と思った。やがて激昂する人々に引き出されてきたのは、ルイーズだった。ラウラほどではないが乱雑に扱われて半分泣きべそかいている。ルイーズはえぐえぐ啜り泣きながらか細い声を出した。


「そ、そうよ。あたし見たもんーー」

「お前が見たと言い出したからみんなこうしているんだろうが! 早く言え、言え!」


丸い顔の男が怒鳴った。人々は、老若男女、城に仕える者もそうでない者も、耕作地を持つ者もそうでない者も、山に入ったことのある者もそうでない者も、一様に血走った目でラウラを睨み、ルイーズに迫った。証言を。それさえあれば彼らは憎いクォートの女を袋叩きにできるから……。


宮廷でラウラはこれを見たことがある。政治闘争に負けた昨日の寵臣が今日には逆賊となり、昨日までの部下に吊し上げられ、宮廷から去っていく。


ラウラの番が来たのだった。彼女はふらふらして、誰かの手が足首を掴むのに気づけなかった。ルイーズは顔みしりだろう老人に肩を小突かれ、泣きながらラウラを見上げて大声を張り上げた。


「み、見たもん! 見たもん! この人が呪文を書いてるとこ、見たもん。ぐ、グティエル様を利用したんだわ。ヘンな呪文でユルカイアを支配しようとしてーーグティエルは悪くない! あたし悪くないもん!」


わああっと少女は泣き出し、ラウラはテーブルから落ちた。落とされたのだった。たくさんの手が彼女を触り、つつき回し、殴りつけ、髪の毛と服の裾を掴んで四方八方に引っ張った。どさくさに紛れてお尻を掴まれた気もする。ラウラは薄笑いした。母はお前なんか強姦される以外で男と寝れないと言って笑ったが、それが真実だったかもしれないと思ったのだ。


早めにグティエルを押し倒して妊娠でもしていたら、この状況は違ったのだろうか?


ラウラは目を閉じかけ、ああでも最後にーー一目、会えたらと思った。目を開いた。拳を握った。頭の中でタラが絶叫していたが、よく聞くとそれは彼女ではなくラウラ自身の声だった。


マヌエラの金切り声が群衆のひとつになった憎しみを突き抜けて響く。

「行って! 逃げるのよ! 早く‼︎」


彼女は丸い顔の男に組みついて、ひたすら大門へと手を振った。人々は誰も、マヌエラに手出しできないようだった。涙を鼻水にまみれた顔を拭きもせず、ルイーズはラウラの腕を掴んだ料理女の背中に飛びつき、太い白い腕を殴った。二人の女が飛び込んだことで狂騒が少しだけ、冷めた。ラウラはその隙を突いて必死に足を動かした。


「逃げた!」

「逃げた!」

「逃げた!」

と異なる声が千々に割れて彼女の背中を殴る。


「荒野に行って、山に逃げてはダメ! あそこはダメ!」


と聞こえたマヌエラの声に心の中に頷いて、ラウラは転げながらユルカイアの城から駆け出した。ドレスは裾から破れ、結った髪の毛はほどけて黒髪がぶわりとうねる。それは竜の首筋を守るたてがみの名残りだった。竜も狼もみんな地球から人々が連れてきたファンタジーの末裔だ。ならば群れになった人間が愚かであるのもまた、何十万年ごしに血液の中を流れてきた歴史の末路だった。


ラウラは大門を抜け、跳ね橋を渡り、まだ凍った道を失踪する。彼女の姿を見た者はいたし、声を聞いた者もいた。城の中で何が行われているかわかって、あえて加わらなかった者たちだった。厩番や掃除係や下足番や、もっとも下級の水汲みメイドに鳥小屋の番人娘。彼らは彼らだけで目を見交わし、ふっと吹き出した者もいればなんの反応も示さない者もいる。彼らは傍観者であるから、なんの罪もない。グティエルに何か聞かれても、何も見ていないので知らないと答えるだろう。それはまったく間違いではない。彼らは目の端で走るラウラを見送り、おのおのの仕事に戻った。

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