第25話

「……あっ」

小さな小石にラウラは躓いた。少しだけ残った雪がしゃくしゃくと音を立てる。


足はもういうことをきかない。腕が小道に打ち付けられて痛かったが、おかげで頭は守られた。ふと、胸の下に暖かいかたまりがあるのに気づいた。生ぬるく湿っていて、彼女の頬を舐めた。

「あなたなの」

我知らず微笑んだ口元に、滴る涙に、子羊の案外硬い口元が触れる。一生懸命に舐めてくれるのが嬉しく思うのに、疲れ切った肘がカクンと折れた。


子羊を庇うように倒れこむが、そこにはまだ水気を保った草むらがあってなんとか怪我をせずにすんだ。驚いたのだろう、子羊はめえめえ騒ぎ始める。しっぽがぴこぴこ揺れる。


「ああ、ごめんね。泣かないで」

力を振り絞ってラウラは小さな頭を撫でた。立ち上がる気力はしばらく湧いてきそうになかった。


ラウラは天を向いて仰向けに延びた。腹の上にしっかりと子羊を抱いたまま。鳴き声は小刻みに、小さくなり、やがてやんだ。


頭の中にいろいろなことが去来した。ラウラはため息をついた。細く長く続いたそれは荒野の空へ吸い込まれて消える。子羊がうとうとし始めて、ずっしりと腹にかかる重みが増した。


「喋らないの?」

ラウラはそっと囁いたが返事はなかった。あの夜……彼は確かに口をきいたと思ったのだが。夢だったかもしれない。幻想を見たのかもしれない。いつもと同じに。


空はくらやみに満ちていた。今は明け方だったか、夕方だったか。朝食をすませた後の気がするので昼日中なのかもしれない。ラウラはいまだに、ユルカイアの天気が読めない。


じわじわと心の中に過去が映し出されていった。彼女はだらんと投げ出した手のひらに絡む黒髪を見つめた。宮廷詩人はこれを夜明け前の暁色のブルネットと呼んだ。白い肌は雪花のよう、深い森の中の湖色の灰白色の目……。彼の役目は宮廷婦人の美しさと戦士たちの勇猛さを文字にすることだったから、当然第一皇女であったラウラのことも美辞麗句を並べて称賛した。


お世辞であることは明白だった。だって母はラウラの黒髪をつまらない鳥の巣と嘲笑した。どっちが真実だと思う? 当然、生みの母親のいうことの方だろう。


ラウラは母が実母ではなく、自分が父の隠し子だからこれほど恨まれているのだというファンタジーに傾倒したことがある。生まれる前から決められていた己の役割がそれほどいやだったのである。残念ながら母が母であり、父が父であることが真実らしいとわかったときにはがっかりしたものだ。彼女の本棚は天涯孤独の少女が運命を掴み取る物語でいっぱいだった。古代の小説や漫画、歌や詩やアニメが好きだった。再生機器なんてほとんど古びてしまい、紙の本とかろうじて見られる映像の断片くらいしかなかったけれど、それらにのめりこんだ。


全部見たくないものを見ないためだった。そうして逃げることは許されないのだということに気づくまで、長い年月を無駄にしてしまった。今も昔も、彼女がいなくなった方が都合がいい人なんて、いくらでもいるのだ。悲しいことに。


ラウラは身を起こした。ここで自分の運命を嘆いていても始まらない。本当に死んでしまう。


「ねえ? 私が死ぬのを待っている人たち、私が生きて戻ったらどう思うかしらね?」


子羊はつぶらな瞳で彼女を見上げる。ラウラは小さな身体を抱えて立ち上がった。


恐怖と不安はなくならない。それでも先に進むのだ。いつか戻ろう。グティエルの元に。だが今ではない。今はまだ……対抗できる力を身に着けるまで、戻ることはできない。


時間と方向を知るための感覚はちっとも治らなかった。曇り空はどんどん暗くなり、遠くで稲妻の音がする。風はより冷たく、強く吹き付ける。唸り声か地響きか、ゴロゴロと腹に響く音に嵐の訪れを知った。そしてそれに混じる、低い轟きも。


いくら真綿にくるまれて育った宮廷上がりといえど、その声の主が何なのかはわかった。

「狼……」


子羊もまた不安げに耳を立て、ラウラの腕の中で身を縮める。荒野の暗い不穏な空気は荒れ狂う生温い風に乱され、どこか甘酸っぱい味さえする。チリチリとした焦燥感が肌を焼くようだ。ラウラはあたりを見回した。


そして見つけた。


狼はなだらかな丘となった砂地の上にいた。真っ黒な個体だがあの城にいた喋る狼とは明らかに違う。視線に敵意が混じり、こちらを観察している。


「お前、あの狼から逃げていたの?」

とラウラは子羊の耳に囁く。マフラーにくるまれた子羊は彼女の胸に顔をすり寄せる。


狼はしなやかな巨躯を微動だにせず、鉄錆色の毛並みは風に吹かれて波打つ。耕されたばかりの畑のような色なのに、その牙、爪の大きさ、四肢のみごとなまでの太さ、背中の筋肉が盛り上がるところさえ克明に見えるのだから感心する暇もない。


もはや恐怖で息もできなかった。はぐれ狼だろうか、こんな荒野に一匹きりなんて。いいや、一匹しか見えないからといって油断してはならない。群れの狼が今にも忍び寄ってきているのかもしれない。


ラウラは身を守るすべを持たない。魔力はない。ナイフ一本も持っていない。


死を覚悟すべきかもしれなかった。あの大きな牙! ラウラは引き裂かれて死ぬ自分の未来を思い、子羊を抱く手に力を込めた。自分が食われているうちに、この子はきちんと逃げ出せるだろうか。


しかしそうはならなかった。狼はしばらくじいっと彼女らを見下ろしていたが、やがて興味をなくしたようにフイと鼻づらを横に向け、トッと丘から飛び降りる。身軽な動きで枯草の中へ走り出した狼は、瞬く間に荒野の彼方へ駆けて行った。


その姿が視界から消えると、身体から一気に力が抜けた。子羊がぴょこっと顔を出して彼女の顎を舐める。


「あはは、は……っはー……」

ラウラの心臓の鼓動は、今となっては子羊に負けず劣らず早い。


子羊が小さく鳴き声をあげた。彼女は酸欠の人がもがくように彼女は片手で目元をやみくもにこする。がさがさした皮膚の感触は知らない人、知らない使用人のもののよう。


とにかく、一刻も早く荒野を抜けたかった。雲は厚く、光はますます失われていく。


その後も彼女と子羊は荒野を彷徨ったが、人間が通った小道、羊飼いが建てた目印の石でさえ見つけることはできなかった。激しい焦りが心臓を貫き、平常な判断と思考能力を失わせる。


彼女はやみくもにまっすぐ進み、進路を右に左に変えた。同じところをぐるぐる回っている気がする。今歩いているのが前も通った場所なのか、それともこれは初めて見る岩? 盆地? それすらわからないのだった。


「いつも、こう! いつも……いつも、逃げ出してはまた追い出されて。どうして、いつも、こうなるの!」

とうとう彼女は泣き声を漏らして立ち止まる。腕の中の子羊が震えながら彼女を見上げる。


「グティエルは……助けに来てはくれないわね。私が勝手に逃げたと聞かされるかもね」

キャンと子羊は鳴いた。その横長の瞳孔と立派な前歯は不気味だったが、ふわふわの毛並みを手放すことはできなかった。


泣きながらラウラは歯を食いしばり、こめかみに青筋が浮いた。悲しさに怒りが混じり、そのうち頭の中は白く白熱してすべてを吹き飛ばすほどの嵐になる。同情されたいなら、味方が欲しいなら、怒りと嘆きを混同すべきではなかった。もっとしくしくと可憐に泣き、逞しい騎士に見つめてもらえるよう努力すべきだ。だがラウラはそうできないのだった。


室内用の白いウールのドレス、バラ色の室内履きは片方が脱げてもう片方も泥まみれでひどい有様だ。ほつれかけたスカートの裾が翻り、素足の脛を打った。足の裏の皮膚が擦り剝け、左足中指の爪の根本がぐらぐらする。


とうとう雷鳴とともに雨が降り始めた。次第に大降りに、雨粒も大きくなる。中には細かな雹が混じる。荒野の天気は変わりやすい。


彼女は泣きながら歩を進め、少し歩いては立ち止まって泣いた。せめてどこかの枯れ木か岩の陰で雨をしのがなければ、死は目前にあった。


吐き出す息は白い。長いうねる黒髪に雨が染み込んでいく。肩が凍える。足がすくむ。マヌエラはどうして荒野に行けと言ったのだろう? ひょっとして信じたラウラがばかだったのだろうか? これまでと同じように。


子羊が跳ねるようにもがき、大声を上げた。


「えっ?」


風が荒野に轟く中、数多の雨の線の向こう、黒く湿った大地に仁王立ちして狼がいた。驚くほど近くに、ぬうっと音もなく立っていた。四つ足が、鋭く大きな爪が、地面を踏みしめる。


驚きすぎると人は悲鳴を上げられないものである。雷鳴がとどろき、稲光が雲の中を暴れ回る。残った雪と氷が宙を舞い、鉄錆色の狼はそれは美しかった。


ラウラは固まったままポカンと狼と見つめ合った。彼の目は薄氷色だった。冬の空の色だ。


やがて狼は呆れたようなため息をつき、身を翻した。大きく太いキツネのような尻尾がぱたぱたと揺れる。腕の中、子羊は彼女を見上げ鼻先で顎をつついた。早くついていけと言っているかのように。


「信じていいの……」


とラウラは逡巡し、肌に直接刺さるかのような冷気に我に返る。子羊はひづめで彼女の腕を踏む。躊躇っている暇はなかった。彼らは死にかけているのだ。


食われるかもしれない――食われても、いい。もう、なんでもいい。今、ここで死ななければ、いい。


ラウラはやけくそに狼のあとに続いた。狼の歩き方は一定でゆったりと遅く、ラウラが追いつける速度を保ってくれている。毛皮がしとどに濡れるのも構わないようだった。まさか、本当に彼女のために狼はその行動をとっているのだろうか?


ラウラは信じられない思いで狼を追いかける。荒野の嵐は荒れ狂うがまま、大地は雨を貪り続ける。


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