第26話


嵐の中、一人と一匹の視界はむちゃくちゃだった。その塔を見つけられたのは、狼が立ち止まり子羊がヒンヒン騒いだからだ。それに気づけただけでもラウラにしては上出来だった。


荒野のさなかにそびえ立つ、それは立派な塔だった。白いレンガづくりの廃墟、だがまだどっしりと建っている。かつて立派な門扉があっただろう外側の塀は崩れていたが、塔自体の扉はそっくり残っていた。


狼は扉の前でお座りし、腰だめにオンッと鳴いた。


ラウラは意を決して金のドアノブに手をかけ、扉を押した。魔法の封印の気配があったが、手を焼かれることはなかった。狼が率先して先に立ち、のしのしと中へ入っていく。ラウラはその鉄錆色の尻尾へ続いた。


中は意外なほど温かく、清潔だった。瓦礫の山もなければ割れたガラスが散乱していることもない。まるでちょっと住人が留守にしているだけというような雰囲気だ。


ラウラは大きなくしゃみをした。狼が耳をぴょこりとさせ、塔の上階へ続く階段を上り始める。


「あっ、ちょっと」


と声をかけても止まらない。どころか、早くついてこいと言わんばかりにせわしなく吠える。


「ま、待ってよ。勝手に上がって、いいものなの?」


と言ったところで通じた様子はないのだった。


ラウラは濡れたブーツが滑らないように気を付けながら、階段へ足をかけた。石造りの塔の、石造りの螺旋階段である。丸い形の塔の外壁に沿うような形で、無骨な段がどこまでも上へ続く。手摺なんて気の利いたものはなく、雨の湿気でズルズル滑るから危ない。


やがてたどり着いた二階の、踊り場にある扉の前で狼は立ち止まった。


「ここ?」


と聞く。狼は――彼はまるで人間のように頷いた。


疲労と寒さでラウラはまともな判断ができないでいた。なにもかもが夢の中のよう。彼女は狼が前脚で示すままに、扉に手をかけ押し開いた。


小さく暖かい部屋だった。暖炉には薪が焚かれ火が燃えている。こうこうと燃える火の温かさにほっとした。石の床には毛足の長い絨毯が隙間なくひかれ、泥だらけの足で上がるのは気後れする。


しかし狼はそんなラウラの事情など知ったことではないようだった。ラウラの緩慢な動きにじれた狼は硬い頭でどすんと頭突きして、彼女を部屋の奥へと追いやった。


安楽椅子と分厚い絨毯、フットマン。いずれも繻子張りでつやつやと輝いて見える。乾いて張り付いた頬の涙のあとの上に、もう一回新しいのが滴った……。


ラウラはよろめきながら椅子へ向かった。ふかふかの手触り、よく日に当てた布地の清潔な匂い。どすんと腰を下ろすともう止まらなく、ひじ掛けのところに頭を置いて眠りに落ちた。服は濡れたまま、髪はほどけたまま、もし尼僧仲間の誰かに見つけられたら怒られただろう。だがここに彼女の知る人は誰もいない。


ラウラはこんこんと眠り続けた。


目を覚ましてもまだ嵐は続いていた。春の荒野の嵐である。何日も続くこともあるとグティエルは言っていた。いつ止むか誰にもわからない神の気まぐれの証だと。


手足が重く頭に霧がかかったようで全身がだるかった。幸いにも体調を崩した様子はなかったが、それは燃え盛る暖炉と身体にかけられた毛布のおかげらしかった。


(誰がかけてくれたの)


といっても、選択肢は狼か子羊かしかない。彼らが? 爪かひづめのついた前脚で?


ユルカイアに来てから不思議なことばかりだった。夜の庭で会った子羊と、荒野で腕の中にいた子羊は同じ個体らしい。だが喋る黒い狼と塔に案内してくれた鉄錆色の狼は明らかに違う個体だ。


宮廷では魔法をかけて喋ったり歩いたりできるようにしたキメラが宴の余興に出されることがあり、大聖堂ではさんざん見世物にされたあと捨てられたそれらを保護することがあった。だからわかるのだが、これほど賢くまるきり人間のような言動をする彼らはキメラではない。もっと別の何か、もっと別の法則に則って生きている生き物たちだ。


(私の頭がおかしくなったんなら話は早かったのに)


実際、夜に出会った彼らのことは半分幻覚だろうと思い込んでいた。それが今になって子羊に触れ、体温を感じ、狼に至っては扉を器用に開いてみせた。どうやらラウラが一人で勝手に震えているだけというわけでもないらしい。


「はあ」


ため息をついたのは気合を入れるためだった。彼女は立ち上がり、部屋をぐるりと見渡す。


こぢんまりした趣味のいい部屋だった。石づくりの壁、がっしりした暖炉、クローゼット、天蓋のかかった寝台、それから美しい分厚い絨毯。柄は魔王戦役の前の時代の恋物語だ……なんといったか、有名な話だったはず。夫の護衛騎士に恋した妻の話。


ラウラが動くとぱらぱらと乾いた泥や汚れが落ちた。自分を調べてみると、まだじっとり濡れているしいやな臭いまでする。彼女はなるべく自分を身綺麗にしたが、どうにも不器用な手つきにしかならない。あちこちの小さな傷が動きを阻害するせいだった。苦笑が浮かんだ。


(前もこんなことがあった気がする)


鉱脈に迷いこみ、ほとんどはじめて夫と個人的な話をしたあのときから半年も経っていないとは驚きだった。


階下では何か音楽がしていた。楽しそうで賑やかだった。立派な観音開きの窓があって、その向こうは変わらず曇天である。きっとまたすぐに吹雪じみた嵐が来る。春の嵐はなかなか立ち去らずユルカイアを覆う。それはしつこい男の求愛そのものだと聞く。


ラウラは壁に縋るようにして螺旋階段を降りた。狼は一階の広い大きな机の下に身を伏せじっとしていた。彼女の足音に気づいて耳はピクリと動いたが、こちらを見ることはない。


代わりにそのかたわらで落ち着かなげに耳を回していた仔羊が嬉しそうに跳ねた。彼はやはり普通の羊ではなかった。ラウラを礼儀正しく迎えると、トコトコ寄ってきて彼女の様子を確認している。


「あの、ありがとうございました。おかげ様で命拾いいたしました」


瞬間、突風に飛ばされた木の枝が塔の外壁に叩きつけられ、砕けて落ちた。塔の分厚い壁ごしにも轟音がする。ラウラはぎょっとして身をすくめたが、ここは安全だった。


子羊が木の床を踏み鳴らし、クワァ……ン……と、旋律のような音がする。聞こえていた音はこれだったのだ。この板張りの下は空洞なのだろうか?


狼は反応を見せない。ラウラはスカートを摘んで礼をした。


「ラウラニアと申します。ラウラニア・ローゼ・クォート。クォートの血を引く者で、元々は皇族でしたがユルカイアに嫁ぎました。夫はエンバレク家の若領主です」


具体的な血筋は示さなかった。母がローデアリア王国の末裔であり、つまり地球からやってきたオリジナルのホモサピエンスの血を継ぐ最後のエルフが私たちきょうだいだったのだ、などということは、今となっては些細な与太話である。狼はちらりと彼女を見、それから重ねた前脚の上に顎を乗せた。くつろぎの大きなあくびをすると、鋭い牙が剥き出しになる。


子羊が癇癪を起こしたようにびょんびょん飛んで、再び床が木琴に似た旋律を奏でた。ラウラは目を細めた。


そのうちに彼は大きなくしゃみをした。自分で自分の立てた声に驚いたようで、四つ足を踏ん張って弓形になり固まってしまう。


「あら……」


ラウラは狼を見た。薄氷色の目がちらりと彼女の灰白色の目と見合う。静電気じみた感触が眼窩から、脳まで駆け巡るようだった。ラウラは生まれて初めて今、豪華絢爛なドレス姿でありたいと願った。それなら少しは堂々としていられただろうから。


「そこの竈、使っていいかしら?」


子羊が震え始めたのをきっかけに、ラウラは返事を待たずに動き始める。


一階は丸い塔の空間そのものが応接間兼食卓になっていた。どでんと王様然に控える一枚板のテーブルと、四つの木の椅子。うちいくつかが邪魔そうにのけられ、テーブルの下に狼が陣取っている。


出入口の扉の正反対の壁にレンガの竈があって、鉄の扉がついていた。暖炉兼オーブンなのだった。この形のものなら大聖堂でつかったことがある。


ラウラは取り急ぎ竈の壁に引っ掛けられていたヤカンを掴み取り、すぐ壁際の水瓶から水を汲んだ。子羊を抱き上げ、椅子の背中にかかっていた覆い布でくるむ。薄い布は埃除けの意味があったのだろう、子羊はますますくしゃみしたが仕方ない。彼を火の前に安置してお湯が沸くのを待つ間、部屋を散策することにする。


「すまないけれど引っ掻きまわすわよ。触れてはいけないところがあったら教えてください」


とだけ言い捨てて、巨大な鉄錆色の毛皮のすぐ真ん前で働き出せたのはやはり労働の記憶の賜物だろう。患者が怒鳴り散らすからといって放っておけば他に害が及ぶし、その人ばかりかまっていたら他が手遅れになる。いつだって目の前のことを順序立ててやっていくしかないのだ。


螺旋階段の始まりがない方の壁に沿って、薬草やら簡単な魔法式の紙、食材などが乱雑に詰め込まれた棚があった。見る者が見れば乱雑さの中に巧妙に隠された地下の魔法研究室への入り口を見抜いただろうが、ラウラが気づけるはずもない。


彼女は走り回り、棚を引っかき回し、その裏に隠されていた大きなブリキのタライを見つける。その中に折り畳まれた大判の布が見つかったので、子羊の身体をさらに何重にも覆う。


みるみるうちに布式の雪だるまにされた彼は不平の声で鳴いたが、ラウラは一顧だにしなかった。ラウラは狼に近寄り、残りの布を狼の身体に被せるとごしごし拭い始めた。鉄錆色の毛並みが子供のらくがきのように乱れに乱れ、布はあっという間に重く湿気る。


狼は重ねた前脚の上に顎を乗せて無視をする。子羊が呆れたようにベエベエ鳴く。時々、ヒャウンとくしゃみも混じる。


ラウラは棚から薬草を取り出して小鍋で煎じた。知っているものがあって助かった。それから子羊をひっ捕まえて、悲鳴をあげるのも構わず口の中に薬を流し込んだ。


「はい、いい子。次もあるから少し待っていなさい」

子羊はだらんと舌を出し、恨みがましげに彼女を見上げる。文字通り手も足も出ない姿で大した勇気である。


お湯が沸いたのでお茶を淹れた。中くらいのスープ皿にそれを注ぎ入れ狼に差し出す。狼のしっぽがぱたんと振られ、一定のテンポで床を叩き出した。大人しく音を立てず茶を飲み始めた様子に、彼女は顔をほころばせる。


使った布だの小さな測り皿や匙を洗い終えてしまうと、なんとか部屋も暖まり湿気も出ていい具合だった。様子見した子羊は白目を剥いて死んだふりをしていた。ラウラはぺちんとその白い頭を叩いて狼を振り向いた。

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