第27話


「お話していただけます?」


無反応である。視線さえくれてくれやしない。ここがどこで私はどうすればいいのか知りたかったが、荒野に一人彷徨い続けて死ぬことを思えば今が天国のように恵まれているのは確かである。魔法の塔、魔法の狼と子羊、美しい住居。余計なことはしない方が良さそうだった。


彼女は棚の奥から油紙に包まれたパンのかたまりを見つけ出した。飢え死にする可能性が遠ざかって嬉しかった。同じ棚に錆びかけたナイフがあったので、パンを二切れ切り出した。


竈の火で炙ってガタガタの古びた陶器の器に乗せたそれを机に運ぶと、狼はきちんと椅子の上に上りおすわりの体勢で待っていた。ラウラは笑い出した。子羊はもがいて布から抜け出そうとする。さっきまで眠りかけていたのに現金なものである。


一切れのパンの皿を狼に、残りを二つに割ってラウラと子羊で分けた。どこからも文句は出なかった。満腹とは程遠い量だったが、心は満ちた。竈の火は魔法で保たれているようで、はいつまでも温かい。


上階の暖炉と同じに、この塔に満ちる魔力はまだ尽きる心配はないようだった。おそらくは大聖堂の結界魔法と同じ、土地の気脈を流れる魔力を吸い上げて利用する術式が建物に組み込まれているのだ。


ラウラは椅子に座ってぼんやりと炎を見つめた。安らかな雰囲気と温かさ、外の雷雨から守られているということがこれほど嬉しいものだとは思わなかった。飢えないこと、温かいこと、濡れていないこと、について考えた。自分が恵まれていたということにまた気づき、ようやく、追い出されたということについて意識が向いた。


「お城に帰っちゃ迷惑よね? このままここに住んではダメかしら?」


狼は不可思議な薄氷色の目で彼女を見つめるばかりである。黒い目の子羊はミャウミャウ呻いて何かを伝えようとするものの、言葉が通じないのだからわからない。彼の目は――彼らの目は誰かに似ている気がした。


ラウラははっと目覚めた。立て続けに座ったまま眠ったものだから首がガクガクしていた。


嵐が過ぎ去ったあとの静けさがそこにあった。しんしんと雪が降り積もる冬の朝に似ている。竈では熾火がとろとろと燃え、塔の丸い一階の空間はうっとりするほど暖かい。身じろぎした拍子に肩からブランケットが滑り落ちた。


竈の傍、昨日は気づかなかった窓があり、ガラスがぴったりと嵌っていた。気泡のひとつもない美しいもので、一筋の汚れもついておらず光を通す。そのため塔の中は驚くほど明るかった。


拾って畳んでと慌ただしくしていると、塔の出入口でガタンと音が聞こえた。彼女は扉を見つめた、脛にぬくもりがあって、見下ろすと子羊だった。戸惑いつつ狼を探したが彼はどこにもいない――仕方ない。


ラウラは覚悟を決め、竈を背中に扉を開いた。


風で飛んできた枝が扉をゴンゴン叩いていた。自分で自分に呆れ返ったラウラは、へなへなと崩れおちた。朝日がさして荒野が照らされる。雪が吹き飛ばされ、その下に残っていた枯草もうつろな枯れ枝も岩もなにもかも、銀色に輝くばかり。岩はひっくり返り、根っこごと元いた場所から引きちぎられた木が散乱する。今も強い風が縦横無尽に吹き荒れ、飛ぶたくさんの草切れやなにかもわからない塵。荒野にとって嵐はよくあることだ。自然は太陽を浴び、やがて生き返るだろう。


ラウラは景色の中に鉄錆色を探し、代わりとばかりに漆黒の狼の影を見つけた。かなり遠く、小指の爪くらいの大きさに見えるところに立っている。彼もまた幻覚ではなく実在の狼だったのか? 建物やラウラに触れることができ、ものを食べることができる肉体を持った存在?


見つめていると、黒い狼はたっと駆け出し、駆け寄ってきた。この塔が今はじめて見えたと言わんばかりの突然さ、勢いだった。ラウラは逡巡したが、彼は少なくとも敵ではないはずである。それに、狼の駆ける姿は優美だったから、彼女は黙って彼の到着を待つことにした。


だが子羊はそれが許せないらしかった。メエエエ、と高らかに雄たけびをあげると、勇んで飛び出していく。


「えっ……およしなさい、食べられるわよ!」


ラウラは慌ててその小さな背中を追った。こちらへ走ってきた狼は子羊を見つけてつんのめって止まり、白いふわふわした毛並みの子羊はそのまま自分の六倍はある黒い毛皮へ飛びかかった。


「ちょ……っ」

一番泣きたいのはおそらく黒い狼の方だったろう。


「おあーっ、嘘だろーなんでいるのー! ちょ、いでででやめろ噛むな噛むな」


と七転八倒、ごろごろ下草の上を転がり砂まみれになりながら首を振り、子羊を振り落とそうとする。こんな小さい身体のどこにそんな力があったのか、彼は決して決して黒い狼のたてがみから口を離そうとしなかった。


「噛むための歯じゃないでしょう、お前の歯は」

「そうだぞ⁉ お前はそういう目的の子じゃないよねっ? あでででで」


最後の方では前脚のひづめでポカポカ狼を殴り続ける子羊を、さんざん苦労して引き離したラウラは疲労困憊していた。


目の前の黒い狼から神秘性と不気味さは失われた。ぐったりして地面に倒れ込む様子は疲れきった中年男性のよう。


ラウラは赤ん坊にするように子羊を胸に抱えてあやした。彼はまだいきり立っており、ラウラの胸を痛くない程度に蹴って黒髪を口に含んだ。遠い過去で生まれたばかりのきょうだいにそうされたことがあった気がする。


「ひどい目にあった……」

「反撃しなかったのは偉いと思うわ」

「うう、お嬢ちゃんの口調から俺への敬意が消えている」


子羊はハッと鼻を鳴らし狼を睥睨する。


ラウラはため息をついて立ち上がった。一晩を温かいところで過ごしたおかげですっかり乾いた衣服が、また濡れてしまった。目にかかる黒髪をかき上げ、彼女は狼に手招きする。


「とりあえず屋根のあるところへ行きましょう。私はあの塔の主でもなんでもないのだから、招くのもおかしいけれど」


狼は人間のような憧憬の瞳で魔法の塔を振り仰ぐ。それは幼い少年が決して手の届かない姫君を眺めるよりなお憧れに満ちた視線だった。まっすぐで、混じりけのないただひたすらそれだけのもの。


「いいのかい」


とそっと髭をそよがせて言うので、ラウラは何故だかどきまぎした。子羊はもう一回口を開け直して彼女の髪の毛をひっぱった。


塔に戻り、勝手知ったる竈の火を操り、テーブルにお茶を出す。今回はなかなか香り高く仕上がって満足だった。


黒い喋る狼は鉄錆色の喋らない狼のように椅子に座ったりしなかった、彼は窓辺にとぐろを巻いて横たわり、螺旋階段の終点である塔の尖塔を内側から眺めている。そのうちお腹を出して寝転ぶんじゃないかと思うほどくつろいだ様子だった。


ラウラは迷いながら彼の前、床の上に座った。お茶のカップを見た狼は、

「や、失敬」

と紳士の口調で頭を下げる。


テーブルの下、子羊はうろうろオロオロしていたかと思うと、意を決した様子でラウラの膝に飛び乗ってくる。全身の毛が逆立って耳はヌエラの方に向いていた。やはり怖いのだろうかと思って顎の下をかいてやると、違う! とばかりに睨まれた。


「グティエル」


深い愛情のこもった声音だった。ラウラは白い子羊を撫でる手を止めた。

「ともあれ、元気そうで嬉しいよ」

子羊は歯を剥き出しにした。

「そうか、山から遠いから喋れないのか……うん……」


狼はちろちろとお茶を舐め、笑った。黒い目と、黒い毛並みと。

「あ、」

ラウラは間抜けに口を開けた。どうして気づかなかったのだろう? 彼らはみんな同じ黒い目をしている。狼と子羊と夫は。


「タイリー・エンバレク。エンバレク家の先代当主で、ユルカイア辺境伯の称号を戴いていたよ。俺が逃げたせいで苦労かけてすまなかったね」

子羊はまったくだと吠えた。狼は上体を起こした。

「それでは、説明しようか。最初から……何もわからないままではいられないだろうから」

長い話がはじまった。


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