第28話
「ユルカイアの貴族たちは皆、開祖クィントゥスの八人の息子たちから成る。いくつかの家系は断絶し、また統合されたので多くは残っていない。エンバレク、ロビツ、メディア、ヴィヴェット、カランカ」
と、狼ことタイリーは言う。ラウラは息を詰める。子羊はふてくされて彼女の膝の上で丸くなる。
クォート貴族社会で育った者ならば、他人の血統は誰だって気になるものだ。その血統が自分と関係あった場合、行き場をなくした子供を保護したり戦争に参加する義務が生じるからだ。
「純血のクィントゥスの子孫は魂魄を切り離し、分身を作って自由に行動する魔法が使える。魔法には二種類あって、血統に特有の血統魔法と魔力があって勉強すれば誰でも使える普遍魔法――まあ、このあたりはあんたには説明不要か」
ラウラは頷いた。
「ユルカイアは閉鎖的な環境なので、クィントゥスとその息子たちのこの能力は便利だった。誰かが何かを企んでいればすぐにスパイできるから。誰も分身体がどんな姿をしているか言わなかった。相互相食む闘争が起こった。誰もが次の領主になりたかったのさ。ユルカイアの成立当初、魔石は莫大な富を生んだし鉱脈はまだまだ含有量が多かった」
ふう、とタイリーは息をついた。
「時代が変わり、中央は我らを見捨て、民までもここを出ていった。だがまだ残った者たちがいるのなら、貴族が逃げるわけにもいくまいよ。民には服従の義務が、我らには彼らを保護する義務があるからな」
タイリーは子羊のふわふわの毛並み、そこにかかるラウラの黒髪のコントラストに目を細めたようだった。黒い目には何が映っているのだろう、彼が本当に父親だとして、幼い頃のグティエルだろうか?
「我らは我らの義務を果たし続ける。だからよそ者は永遠にユルカイアの一員にはなれない」
子羊を撫でるラウラの手が止まった。自分が嫁ぐ先の血統魔法の詳細さえ知らせてもらえていないことには気づいていたが、いずれ教えてもらえるだろうと楽観視していた。今はまだそうではなくても、グティエルと正式に結婚できたら、子供が生まれたら、いつか人々に受け入れてもらえたら、きっと。
タイリーは目を細める。子羊が顔を上げ、ラウラの顔を見上げ、狼にもう一度飛びかかるべきか逡巡する。
「ここは血統魔法に疑心暗鬼にされ、それでいいと納得した者だけが住み続けられた魔境だ。魔石に魅入られ、山に魅了され、荒野に散らばったわずかな糧で凌ぐことを恥と思わない代わり、それらを持たないでも生きていられる土地の人間を受け入れることは決してない。だからラウラニア、あなたがグティエルの本当の花嫁になれる日は決してこないだろう――我が妻がそうされたように」
囁き声は優しかった。ラウラは灰白色の目の端に白い何かがよぎるのを見たが、それは涙になる前のくらくらする意識の破片だった。
(泣くもんか)
と拳を握る、子羊の腹の下で。彼はラウラの手首を舐めた。ざらざらして、痛かった。
「我らは何百年も同じことを繰り返してきた。雁字搦めになることが誇りだった。山と魔石のため、荒野を越えて入ってくるものから土地を守り民を守るのが我らの役目だった。その役目も終わりに近づいているようだが、なあに、決して本質は変わるまいよ。百年前にも似たようなことはあったのだから」
「え?」
ラウラは顔を上げ、子羊は警告するようにヒャンと鳴いた。
「百年前に魔物を先導して人の世界に反旗を翻した魔王は、エンバレク家の者だった。当主争いに負けた本家の若者がすべてを逆転するためそうしたのだ。当主の名はヴァダー・エンバレク。暴れ竜のクォート卿、ラベリアスを一度殺した狼騎士。――こいつが、グティエルが狼の血を受け継いでくれていればすべて解決したのだが」
子羊ははっと身を強張らせた。ラウラは彼を抱き寄せた。これが本当に夫の分身体なのだとしても、あまりにか弱く素直すぎる。グティエルはもっと辛辣な仮面を見に着けた、体格のいい堂々とした若者だった――だがこれが彼の本心なのだろうか? 小さく白く、牙も爪も持たず、羊小屋と親羊と羊飼いがいなければすぐ死んでしまう生き物が?
「見ての通り彼は血統魔法を正しく受け継ぐことに失敗した。ユルカイアはもたないかもしれない、無能な息子のせいで」
「ならあなたはなんだというのです!」
反射的にラウラは声を荒げた。
「お役目も果たさず失踪してしまったあなたのせいで、グティエルがこんな若くして重役を背負う必要が出たのではありませんか」
狼は微笑んだ。ひときわ大きな牙が剥き出しになる、獰猛さとそれを押さえる冷静さを合わせもった獣の笑みだった。
「その通り。原因は俺だ。俺は山に呼ばれてしまった。妻の声がしたものだから」
「奥様の……」
「この塔は彼女の所有物だった。ユルカイアの城に馴染めない彼女に俺が与えたのだよ。好きに使っていいよ。息子の嫁なら使う権利はある」
彼は音を立てずに立ち上がる。ラウラもつられて立ち上がり、腕の中の温かい子羊の心拍の速さが腕に響いた。
「俺の言いたいことはこれくらいかな。あんたがうまくマヌエラを殺してくれていたら話はもっと早かった。たぶん、この塔の眠りを妨げずにすんだのだが」
「あ、待って」
タイリーは懐かしそうに塔をぐるりと見渡すと、扉へ向かって歩いていく。よたよたと疲れ切った老狼の足取りで、だが確かに堂々とした姿だった。
「ま、マヌエラがどう関係するの? 彼女は私を逃がしてくれたわ」
「まだ気づいていないのか?」
オオカミは振り返る。外には再び、嵐の気配が漂っていた。ゴロゴロと低い雷鳴、曇りつつある空、強くなる風。
「民をそそのかしてあんたを襲わせたのはマヌエラだよ。でなかったらああも都合よく、冬が終わる日に若嫁を追い出せるものか。春が来たらクォートの使者も隊商も訪れよう。対策をしたのさ、悪だくみがばれないうちにね」
ラウラは棒立ちになった。子羊が額を腹に擦り付けるので、落とさないよう腕に力を籠める。
「全部信用してはならないんだ、ユルカイアにあるものは全部。俺も早いうちにそれに気づけていたらよかったんだがなあ!」
そうして黒い狼は駆け出した。あっという間に砂粒ほどに小さくなる背中をラウラはただただ茫然と見守る。
謎はますます深まり、一つも解明されていない気がした。一番知りたかったことも、知りたくなかったこともわからなくなった。取り残された、気がした。ユルカイアから。元々仲間なんかじゃなかったことは知っていたけれど。
ラウラは子羊の毛並みに顔をうずめ、大きく深呼吸する。彼からは鉱脈と宝石と、暖炉の火の匂いがした。石の花と同じ清廉な美しさ。
嵐がやってくるまで彼女はそうしていた。子羊はうねる黒髪を食み、ひづめで彼女を叩いて慰める。その手つきが夫に似ているだなんて、どうしてわかるのだろう? 一緒に過ごしたのはひとつの冬の間だけだ。本当に少ない時間だけだ。
ラウラは塔の扉を閉め、荒野に春一番の暴風雨の予兆が吹き荒れた。恵みと芽吹きを告げる神の息吹だった。
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