第29話

漆黒の狼は立ち去り、塔の中は綺麗で静かで、美しかった。ラウラは足元に擦り寄る子羊を見たが、血統魔法はその血統だけの秘中の秘、彼にどこまでグティエルとしての自我があるのか、ひとりと一匹は繋がっているのかいないのか、何一つわからないままである。


「グティエル」


と呼び掛けてみると嬉しそうにする。果たしてそこに愛はあるのだろうか? 彼の意識は? ラウラは薄ら笑いを浮かべた。それでも懐いてくる小さな生き物は愛おしく、この荒野にひとりぼっちでないのが嬉しく、そしてこの子がグティエルであると考えれば所有欲が満たされたのである。そんな自分がおかしかった。汚らわしいとさえ思った。


「嵐がくるわ。扉を閉めましょう」

それでそのようになった。


季節は過ぎた。ラウラは塔で誰かを待っていた。グティエルか、あるいはマヌエラが現れて、さあもう大丈夫、城は安全になったから、あなたを嫌っていた人はみんな消えてしまったから、戻っておいでと言ってくれるとでも思っていたのだろうか? そうならないことは知っていたのに、希望を捨てきれないでいる。


静かだった。何もすることがない。考える時間はたっぷりあったので、ラウラは驚くべき真実を認めざるを得なかった。――たったひとつの季節を一緒に過ごしただけでラウラはグティエルに首ったけになっていた。キスひとつ済ませていないくせに呆れたことだった。乙女なら誰もが夢見る豪華絢爛な結婚式もなければ花嫁行列もドレスもなかったのに。


夜、眠る前にラウラは彼とキスし損ねたときの夢を見る。足元には子羊が丸まっていて、そのビロードのような毛並みが暗闇の中に浮き上がる。


彼の顎にはいつも歯を食いしばっているだろうと思われる線が残っていた。なのに唇は子供のようにふっくらとしていた。触れておけばよかった、指先ででもいいから、無理やりででもいいから感触を知っておきたかった。そのキスはどんな感じだったろう。


ラウラは男とキスしたことがある。酔った母が寝ているラウラに同じく酔った男をけしかけたのである。酒臭い息と唇を割って入り込んできた汚れた舌、他人の涎が顎を滴ったこと、ざらついた無精髭の感触を覚えている。さすがに侍従が止めに入ったので純潔は保たれたし、男の顔も名前も覚えていない。まだ十二歳だったからそんな大ごとにもならなかった。母が笑いすぎて壁に肩をぶつけたのをみんなが心配した。その程度の記憶だ。


それよりもラウラはグティエルの息が冷たいことや、坑道に潜りすぎたためか白すぎるほどの肌の色や、指先が固くて剣だこまみれの手、笑うと顔が幼くなること、ルイーズと一緒にいるときは少年じみていて、ラウラを見るときは少し気取っていることなどの方を覚えていたかった。


おそらく、彼女は彼に触れてもらう必要があったのだろう。覚えなくてもいいくせに覚えて持ってきてしまった、あれや、それや、これなんかの記憶の代わりに、彼の体温と皮膚の感触の思い出をもらえばよかった。色々なものをそれで上書きしてもらわなければならなかったのだ。


チャンスを全部ふいにしたのはラウラの怠慢である。いくら目が小さいとはいえ、勇気を出して迫ってみせれば慈悲の心で思い出をもらえたかもしれないのに、そうしない選択肢を選んだのは彼女である。


一線を越えたら雪崩を打って母のような女になりそうで怖かった。

母のようになりたくなかったのだ。決して、母のようには。


「もう会えないのかしら?」

と呟くと、胃液が逆流してきて喉の奥が焼けた。


月日は過ぎた。夏が近づくと昼の塔の中は蒸し暑くなり、すべての窓を開けて荒野の風を取り込まなくてはならなかった。反対に朝と夜は凍えるほど寒く、毛布が手放せない。


さすが魔法の塔というべきか、裏の資材保管庫にはいつでも薪がたっぷりあり、一階の竈の脇の棚は閉めてから開けると再びパンで満たされた。あとは野草を摘んで、たまにベリーを見つけて食べた。子羊はいつでも彼女と同じものを食べ、満足そうだった。


ラウラはただ食べて寝て、子羊と一緒に荒野を散策して過ごした。荒野は面白かった。小さな穴にモグラやリスが住んでいたし、一面に広がる草にも種類があり、生えるところ生えないところがある。一度か二度、羊飼いが羊の群れを連れて草を食ませに近くまでやってきたことがあるのだが、どうやら塔周辺まで向こうから見えなくする魔法で防御されているらしく、ラウラたちのことは見えないようだった。


それを見つけたのは尼僧の部屋にいた頃を思い出して繕い物をしているときだった。クローゼットがある部屋の棚の中、針と糸を入れた木箱の奥にあった。日記帳だった。他人の書いたものを読むなんて失礼千万もいいところである、見なかったことにしようと思ったのだが、


「もういない方のものなら構わないかしら」

と思わず子羊に聞いてしまうくらい、ラウラは活字に飢えていた。

子羊がぴるぴるしっぽを振って膝に乗ってくる。ラウラは誘惑に負け、寝台に腰掛けて日記を開いた。


すぐにそれが魔法の研究書を兼ねていることに気付いた。書き手は相当に教養のある女性らしかった。メモ書きのような考察と、実験の過程や結果が散文的に散りばめられ、その中に彼女の日常があった。


――彼女はクィントゥスの息子たちの血統魔法の研究をしていた。


ラウラは子羊と顔を見合わせる。彼は何もわかっていなさそうである。頭を撫でてやりながら急いでページをめくった。もはや遠慮は残っていなかった。女性が恋人と喧嘩した話、和解した話の間に求めていた情報があった。無意識にラウラはそこを音読した。


「『カランカと話す。彼女の分身体は鳥。やはり深層心理の願望がそれに見合った動物の形をとるよう。ならエトナの狼はユルカイアに相応しい頭領になりたいという願望の現れなのかしら? 山の主は狼だもの……』、山のあるじ? 山の、中? それとも外?」


魔物が湧き出る鉱脈の方、不毛と雪に覆われた地表の方?

さらにページをめくった。女性と恋人は結婚したらしい。めでたいことだ。そのページの下の浮かれた文字の走り書き。


「『カランカと再度分離実験。分身体を本体から切り離せれば、今のように無数の分身スパイが人々を嗅ぎ回る事態は防げるはず。貴族の魔力を弱体化させ、純粋な人倫と人徳による統治を呼び込むことができるはず』。――そんなわけないわ。魔力が弱ればその家系は傭兵を雇って暴力によって租税を回収して回るわ。一度得た地位を貴族が手放すものですか」


子羊がひづめで小さくラウラの膝を叩いた。猫背になった背中を彼女は直した。のめりこみすぎて眼球が乾いて痛い。

「『失敗した』だけ。そうでしょうとも。ええ、そうでしょうとも……」


ラウラはさらにパラパラとページをめくり、めくり、やがてそれを見つけた。か細いペンと薄いインクで、懺悔のようにそれは書き込まれていた。子供たちの成長記録のメモ書きの下に、隠すようにして。


「『分身体は本体の意思を離れて逃げ回り始めた。願望が消え、本体である彼は心を失ってしまった。ごめんなさい。私のせい。カランカは泣く。彼じゃなく私が実験に参加していればよかったと泣く。泣かないで』これじゃないわ、もっと、何があったか教えて。お願い……『分身体はその人間の魂だった。心に秘めた願望とは、その人の一番大事なもの、本質そのものだった。それを預かる人はよっぽど信頼できないとダメだったのに、私は彼女に彼の狼を預けてしまった。ごめんなさい。私のせい』」


ラウラはさらにページをめくるものの、もう続きはどこにも書かれていなかった。小さな文字で偏執的なまでに執拗に、四人の子供たちの成長記録が続くだけ。


ラウラは日記帳の分厚い背表紙を撫で、裏表紙をひっくり返した。そこに、見えないほど薄いインクで、丁寧に書き記されていた。


「『エトナが魔王と呼ばれたのは私のせいです。私はアンティーヌ。ヴァダーの妻アンティーヌ。ユルカイアの貴婦人にして魔法使い。ごめんなさい。ユルカイアの人々に、世界じゅうの人々にごめんなさい。これから生まれる私の子孫たちにも、ごめんなさい。私はエンバレクの血統魔法をいじりすぎました。次の次の子供たちにはきっと不都合が現れるでしょう。それは長く続く瑕疵となり家系を蝕むことでしょう。ごめんなさい。許してください。いつかきっとくる竜との邂逅において、この欠点が致命的な敗北をもたらしませんように』」


まだ掠れて読めない部分があったが、大半が謝罪に埋め尽くされたそこをこれ以上読む気はしなかった。ラウラは日記帳を閉じた。

子羊の顎の下をくすぐると、彼は心地よさげに目を細める。嬉しがっている。素直に。まるで彼そのものが感情のかたまりだとでもいうように。


「戻らないと」

呟いたのはそんなことだった。ざわざわする怒りと恐怖がラウラの全身を支配しつつあった。

「お前がグティエルの心なの?」

ラウラは子羊に囁きかける。彼は純粋で、素直で、無邪気だった。ラウラのことを好いてくれていた。


「そんなばかなことってある? 戻れるものなら戻りたいわ。でも。でも――道を忘れてしまったのよ」


嘘。ラウラは再びテーブルに押し上げられるのが怖いだけだった。宮廷でそうされたように、爪弾きと嘲笑が怖いだけ。避難所であった尼僧見習いの雑魚寝部屋だけが安全で、なのにあそこで寝ている夢を見ることはない。夢見るのは子供の頃の話ばかりだ。グティエルの夢を見たことがない。彼の夢を見たいと願っても、くるのは眠れない夜だけである。


子羊は彼女の回りを跳ねまわって元気づけようとし、それが無理だとわかると舐めたり小突いたりした。最後にはラウラにもたれかかった。彼が困っているのがわかり、ラウラも困っていた。日記はただの日記である、信じるのは危険だった。だがラウラは貴族生まれの女性の嗜みとして、夫の家系図を暗記していた。


エトナという名前はそこになかったが、狼騎士ヴァダーの妻アンティーヌは記されていた。四人の子供たちのうちひとりの名前はタイリー。アンティーヌはグティエルの祖母だ。


百年前と今が急速に繋がっていった。魔王の息遣いがすぐそこに聞こえるほどだった。


「ここから動けない」

ラウラは嘆いた。大したことは何もしていないのに疲れ果てていた。


子羊はぴったりと彼女に寄り添い、その疲弊を受け入れた。このままでいいよ、というように。心からの愛と労わりが体温ごとラウラに染み入るようだった。


それは彼女が命がけで探し求めていたすべてに違いなかった。

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