第68話

さて、そんな次第でグティエルとともにラウラは白い彼女を訪れた。ふわふわと浮いたままの彼女のホログラムは今日も真っ白である。美しさの極地と言える美貌をひらめかせ、彼女は白い袖を振った。


「また来てくれて嬉しいです。何を聞きたいですか?」

「こんな話を聞きました。私たちが山と呼んでいるものの中にスイッチがあって、それをいじれば魔物を支配し、撤退を要求できるそうですね」

「まあ、物知りですね、その通りです。スイッチと呼ばれるのは備品たちの統合装置です。産みの母と言ってもいいかもしれません。キメラ生産のための巨大なひとつの人口子宮なのです。一時的に備品の脳波をジャックして強制的に意識をシャットダウンさせ、命令に従わせることができます」

「なぜ、」


ラウラは怒鳴った。つるつる滑る丸い卵の殻のような椅子は相変わらず座り心地が悪く、隣に立って静かにウィザートを観察するグティエルの顔色は冴えなかった。ラウラは何もかもが気に入らない。


「なぜそのことを隠していたの? 聞かれなかったから答えなかったとでも? あなたは自分の頭で考えることができるはずよ。この巨大な宇宙船を統括するほどのスペックを持ったAIが、そこに気を回せないとは考えられないわ!」

「すみません、よくわかりませんでした。もう一度入力してください」

白い彼女は微笑むばかりである。ラウラはぐったりした。


「わかっているくせに、今を生きる人類のために働く気はないってこと?」

「ラウラ、呑まれるな」

グティエルは妻の手を握り、つむじに囁きかけた。


「お前の言う通りこれに自我があるのなら、おそらく計算のうちだ」

ふうっとため息をひとつ。ラウラは腰の骨が軋むのを感じる。

「スイッチを起動するための方法と、それがある場所を教えて」

白い彼女はにこにこ笑いながら簡潔に教えてくれた。その場所なら知っている、とグティエルは言った。


先遣隊が組まれ、山の中の詳細な地図が共有されていった。これまでユルカイア人しか、もといクィントゥスの息子たちの末裔しか知らなかった情報が余所者に知られていくことについて、ラウラは直談判のようにユルカイア人から詰られたし、泣かれたりもした。彼女としてはむしろこんなつまらないことで夫の時間を削らせることなく、盾の役割ができてよかったと思った。

グティエルは粘り強く作戦を立案し、あらゆる方面に気を回し、たんたんと仕事をこなした。

スイッチの存在が上層部に受け入れられる頃になると、兵士やその家族にも希望の火が行き渡りつつあった。


そして当然、彼は山の中への突入作戦の指揮を取る立場に立候補する。ユルカイアの山を一番よく知っているのはグティエルだったし、何より自分の土地で他人が手柄を立てるのを指をくわえて見ているだけ、というわけにはいかない。……ということを夫の口から直接説明されて、ラウラは谷底に落ちた気がした。


魔物相手の戦争で彼が負けるはずはないと知っていたから、小競り合いのたび心配しつつも心のどこかで安心していたのだと思う。だが人間とは騙し合いをするものである。見知った山の中、周りの人間は果たして本当に心から信じられる人物だろうか? だがラウラに口を出す権利はないのだった。


彼女は今でも自分の失われた魔力が突然蘇って夫と共に働ける日が来た夢を見ているが、しかしながらそれはありえない。一度失われたものは戻らないのだ。


スイッチの場所についての調査隊が戻り、喧々諤々の会議が行われていたその日。ラウラはかつて診療室だった部屋の外の菜園で薬草を採っていた。磨り潰してクズ魔石と一緒に煮込み、魔力の素材にするのだ。


足音は軽く、その子は驚くほど美しかった。くるくるとうねる黒髪、大きな零れ落ちんばかりの目は古いコインの金色。肌は抜けるように白かったが、頬にそばかすがあった。にっこり笑うとさぞかし愛らしく庇護欲をくすぐるだろう――メイのように。

「こんにちは、姉上様」

と言う声さえ鈴を振ったようなのだった。


「こんにちは。あなたは皇后メイの子供ね? そして父親はゴドリア・クォート?」

「そうだよ。少なくともそう言われているよ。でも失敗作だけれどね」

「そんな」

ラウラは笑った。自分でそうしようと思ったよりも晴れやかな笑いになった。

「それを言うなら一番の失敗は私だわ」

子供はにこやかに笑うだけだった。

「ゼウス・クォート。今の姓はギリア」


と差し出された小さな冷たい白い手をラウラは握った。陶器の人形のようだわ、と思った。

「フォルテの養子に入ったの?」

「そうだよ。彼が父親だなんてどっちも願い下げだけれど、これが一番安全だろうから」

ゼウスはくすくす笑い、こてんを小首を傾げた。


「姉上様は魔力嚢を潰され魔法が使えない。僕は皇族なのに魔力嚢が元からない。くすくすっ、どっちも一族の恥さらしだ。悲しいことにね!――生まれてこなきゃよかったと思ったこと、ある?」

「かつては。今はもう思わないわ」

「ほんとに? まるっきり? 心から?」

「ええ。夫に……グティエルに会えたもの」

「へえ、この世で最も尊い血と古い血をどっちも持っているのに、それでいいの?」


古い数多の人間の手垢にまみれてくすんだコインの金色が、ぴかぴかと魔石のように光って深く大人びたまなざしを作る。ラウラはその目に見つめられてくらくらした。ゼウスはあらゆる人に愛されるだろう。あらゆる人が彼の歓心を買うためになんでもするだろう。


「ええ。これで十分」

「――ウソついてたら永遠に黙っててもらおうと思ったんだけど、そうじゃないみたいだね」

「ええ」

少なくとも子供の目ではない、目だった。ラウラはそれをまっすぐに見つめて頷いた。魅惑という言葉が人の形をとったらこんな感じだろう。りんごの香りがぱっと弾け、頭がくらくらした。


ラウラは自分たちが彼らのような世代を生み出すための踏み台だったことを知る。


「わかった。最後のホモサピエンスの血筋に敬意を示して、何もしないなら放っておいてあげる」

「あ、待って」

菜園から室内へ続くごく軽い引き戸のガラス越しに、ゼウスはラウラを振り返る。


「夫にも何もしないで」

「いいよ。本当に首ったけなんだね」

面映ゆい気持ちでラウラは笑った。ゼウスは神様のように綺麗な大きな目を持っていた。彼に見つめられるとすべて見透かされる気がする。

そのようにしてふたりは邂逅し、別れた。それが生涯にただ一度だけの会話だった。


山の中への突入作戦が完成し、最後の戦支度をするグティエルをラウラは手伝った。彼が剣を磨いて彼女が鎧を磨いた。


「一番先頭を行くのはゼウスですか?」

「そうだ。彼に会ったのか?――どう思った」

「彼はクォート神聖帝国が守り伝えた血統の完成形だと思います。クォートはたくさんの特別な家系の女性を嫁がせて血をより濃く、強くしていこうとしましたが、まさかラムネシアのメイが最後のピースになるとは誰も思いもよらなかったでしょう」


ラウラは鹿の皮で作られた磨き布をぴたりと止めて、何もない空中をぼんやり見つめる。綺麗な女だとグティエルは見惚れたが、彼女はそれを知る由もない。白い指で顎を摘まんでは思い出したように膝の上の籠手を撫でるばかりである。

「旧人類が帰ってくるのかもしれません……」

「ラウラ?」


彼女は応えなかった。妻が何を予期したのかグティエルにはわからなかったが、それでもいいと思った。彼らは夫婦であるので、互いのことがわからずとも最後まで共にいる。たとえどちらかが先に死んでもふたりがこのときまで一緒にいたことは変わらない。ならばそれで、それだけでいい。


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