第69話


そして山の中のスイッチが切られた。精鋭部隊は帰還した。多くの犠牲者の遺体を伴って。


魔物たちは暴力性を失い、糸の切れた操り人形のようになった。そこからの反応はさまざまだった。その場に倒れ込んで動かなくなる個体、力なくユルカイアへ向かって行進し始めた群れ。大半が勢いを取り戻した人間たちに殺された。殺されることから逃げた魔物もいたが、山狩りや荒野巻きが行われほどなくして殲滅されるとされている。


(そんなことはないでしょう)

とラウラは思う。ユルカイアが多くの秘密をその中に隠し続けたように、山の秘密だってそれ以上に多いはず。ならばその秘密の一端である魔物もまた、白い彼女の言う通り大人しくなるばかりでないだろう。


「彼らには知性があるよ。ないと言われているけどね」

とグティエルが言ったのは、いつのことだったか。答えは思った以上に近いところにあったのだと思った……ずっと前から。


山の中のスイッチは人間たちを見ると変形し、人の形を取ったのだという。魔王、魔王だと人々は言ったという。そしてまだ幼いゼウスが進み出て、剣を抜いた。少年は選抜されていなかったのに、荷物の中に潜り込んでついていったのだ。大人たちが次々と倒れる中、彼はまるではじめから決まっていたことのように人影を守るため集まった魔物の爪や牙をかいくぐり、トドメを刺したのだそうだ。


そして人影は、あらかじめそこで倒されることを分かっていたかのように、どうと倒れた。


山の中で具体的にどんな戦闘があったのか、詳しくは誰も語らない。吟遊詩人たちの想像を踏まえた物語がどんどん人づてに伝わっていって、そのうちそれが真実になるのだろう。


ラウラは敗残処理に加わり、主に経理関係に口出しをしたので管財人や弁士に疎ましがられた。だがそうしなければ存在感を失ったユルカイアの権利はますます縮小しただろうから、とうのユルカイア人の使用人に出しゃばり女と陰口叩かれてもそこは譲れぬところだった。


避難民たちのうち、故郷に帰る者たちの手配が済んだ頃にはすでに季節がうつろっていた。春だった。いつの間にか、三年目の……十三年目の春を迎えていたのだった。


グティエルは倒れ込むようにラウラと眠る部屋に帰って来て、一晩死んだように寝入った。ラウラは飽きずにその寝顔を見つめていた。眠れないでいるうちに、夫の顔を見つめ寝息を聞いていると心の痛みが減ることに気づいたのだった。


「山は閉ざされても次がくるぞ」

とベッドの足の下からエトナの声がする。ラウラは頷く。にゅるりと姿を現した巨大な狼は疲れ切っていて、脇腹に大きな傷があった。


「あなたがたも戦ったのですね」

「当然だ。元々このために作られたのが我らなのだから」

「これからも山は人を食うのでしょうか」

「ああ。人を狼にしているのはアンサーチャットウィザートの防衛機能だからな。迷い込んできた人間が自我を持って動くようにして、事実上の白血球に仕立て上げているのさ。姑息だが正しいやり方だよ。人間が人間の意思でもっていいように動くのが、一番良い結果を生むのがわかっているのだから」


ラウラは唇を噛む。――あの、女!

「彼女、やっぱり自分で考えて行動していますよね……」

「ああ。そして我々にそれに抗うすべはない。彼女の思考はここにいる人間全員が束になってなお敵わないほど膨大で複雑だ。魔物の制御システムを失っても彼女がこの山の支配者のひとりであることに変わりはない」


グティエルが呻き声を上げて寝返りを打った。目の前にころんと転がってきた若い子孫の顔にエトナは鼻先を寄せ、フンフンと嗅いだ。


「血の匂いしかしない。もう取れないだろうな」

「たとえ芯が血でも何かしら上書きされるものはありますとも。私がつけて差し上げます」


彼は狼の顔で器用に片方の眉だけを上げた。

「それは言うものだ。楽しみに見ているよ」

「ええ」

ゆるゆると輪郭がとろけて、エトナの姿は闇に溶ける。これが最後の会話だろうということはお互い熟知していた。ラウラは二度と山の中に呼ばれることはないだろう。狼たちに受け入れられることはない。


やがてエトナの姿が完全に消え、気配までも消え、最初から夢だったように何もなくなると、グティエルはぽつりと呟いた。


「俺はお前を利用した、ラウラ。気づいていたか?」


夫がいつから目覚めていたのかさえわからなかったラウラには、初耳のことである。ただ彼の黒い目が何重にも群青色を透かしてちかちかと不安に瞬いていたから、ただほのかに微笑んで額にキスし、

「ええ。最初からわかってましたとも。全部許してましたとも」

と囁き返す。叱られると思っていたのにそうではなかった子供のように、彼は目に見えてほっとした。


「山とユルカイアを結ぶためには誰かしらの犠牲が必要だった。身を持って鎹になってくれる者が。――お前はうってつけだった、ラウラ。魔力がなく、しかし魔法の知識はあり、魔法の塔に入ることが許され、死んだ人間たちの思念の受け皿となってくれた。今のお前はここに来た当初のお前ではない。ユルカイアに漂ういくつかの怨念の影響を受けて、きっと前のお前とは違っているはずだ」

彼は身を起こし、ラウラの手を握る。


「俺を恨むか、ラウラ? 恨んでくれていい。マヌエラが死んで、何人かの使用人がお前を山に追放しろと言った。問い詰めてみてわかった。俺もルイーズも、ミネルバもマヌエラ本人でさえ、山に捧げられる予定のものどもだった。お前が鎹となってくれなかったら、山へ行っていたのは俺だったろう」

「そして私はマヌエラ様やアンティーヌ様の手記でそれを知ったから、あなたをそうさせたくなかったのです。ユルカイアのためだけに生きていた頃のあなたでしたら、死んだら狼になっていたことでしょう。けれどあなたはもう違う。ユルカイアのためだけの人ではなくなりました」


山は己の存在を保とうとする。巨大な宇宙船には、白い彼女とはまた別の意思が存在する。それと無意識のうちに交信し、遺伝子改変を受けた新人類たちがまだ生きていることを知らせる役目を誰かが背負わなければならなかった。


「あなたが最初から最後までユルカイアのためだけの人にならなくて、よかったと思います」

「ラウラ……」

それは誰でもよかった。家系や、立場や、性別や年齢や信条なんて山にとって関係ないことだった。宇宙船が真の目的地である外宇宙に運びたいと願うのは遺伝子改変を受けなかった旧人類たちであり、グティエルたち魔力を得た新人類ではない。


彼の手がラウラの冷たい頬に触れた。大きくて暖かく、硬いかすれた手だった。こんなに心地よい体温が彼女にふさわしいなんて、本当だろうか? 彼女がこれに値すると認めてもらえただなんて、騙されているんじゃないだろうか?


「けれどお前は俺の代わりにユルカイアに縛り付けられた」

「あら、私はここが好きですよ。故郷だと思っています。宮廷は私の家ではありませんでした。ここにいる大義名分ができて光栄ですわ」


グティエルはユルカイアの運命から逃げ出した。ひそやかに機敏に、ラウラ本人も気づかないうちにふたりの役目は交代されていた。彼はいつ自分が欺瞞を働いたことに気づいて、それに苦悶したのだろう。ラウラは夫の頭をかき抱いて、大丈夫と囁く。


「やっと自分の役割が持てて、嬉しいんです、ほんとに」

お互いを抱きしめると重なった皮膚から自分がほどけていく感じがした。ラウラは目を閉じてグティエルの抱擁に身を任せる。このままユルカイアに溶けて消えたいと願ったがその願いが叶うのはずいぶん先になりそうだった。

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