第70話



朝の黄色い光が窓から差し込んでいた。空気中の埃さえ停止してしまいそうなほどの静寂があった。しんしんと最後の雪が降っては消えた。みぞれと言うには重たく、けれど積もらない雪などユルカイアでは雪ではない……。


――宇宙船には三種類の生物が乗っていた。正式なホモサピエンスの搭乗員。遺伝子改変を受けたキメラ。そしてホモサピエンスでもキメラでもない、あるいは両者の混血児である不法乗船者たち。


宇宙船が墜落したとき、正式な搭乗員たちを船は庇った。年月が経つうちに船体に土と雪が堆積し、山と呼ばれるようになってもなお庇い続けている。その一番奥の奥、誰も踏み入ることを許されない冷凍ポッドの中で彼らは眠り続けている。彼らこそが王侯貴族になるはずだったのに、いまだ目覚めることさえできないままで。


キメラと不法乗船者は船外に投げ出され、一気に数を減らし、そして三百年の間に交配して増えていった。キメラの一種として生み出されエルフやワーウルフといった名称を与えられ、旧人類の友となった新人類たちは、どこの馬の骨とも知れない不法乗船者たちと番うことを選んだのだった。やがてキメラのもっとも偉大な特徴である魔力を多く発現した者たちが支配者階級となり社会が形成される。国を作り戦争をし、瞬く間に血は混じり合った。取返しのつかないほどに。


ラウラは今、自分が完璧なローデアリアの末裔でなくてよかったと思っている。ホモサピエンスの末裔であるとあれほど血統を誇っていた母方の実家でさえ、白い彼女に出自を悟られないほど混血が進んでいたことにほっとしている。もしラウラが山に搭乗員の末裔だと認められていたら、魔王と呼ばれていたのはラウラだったかもしれなかったのだ。


大聖堂から逃れてユルカイアへやってきた一派は定着し、北の辺境に新しい結界が築かれた。唯一の権威の源を簒奪された大聖堂はユルカイア辺境伯グティエルの破門を宣言、一派の身柄の引き渡しと引き換えでなければ宣言撤回はありえないという。


グティエルは大聖堂が高貴なるクォートの血筋を陰で操り宮廷を腐敗させたのだとして破門への抗議、撤回しない限りは武力行使もありうると宣言した。彼は今となっては軍閥の主である。ユルカイアへ逃げてきた大量の避難民、軍人、傭兵のうち約四割ほどがこのままこの土地に残ることを決め、その理由にユルカイアでは実力が認められるからだと言った。グティエルは身分の上下に構わずただ魔物と渡り合える人材を重用したからだった。


あれほど信仰し、寄進したにも関わらず魔物が溢れたときに都だけを守り他を見殺しにした大聖堂から、人々の信頼は離れつつある。その支配から離反する聖堂、僧や尼僧たちはこの先も続くだろう。


ゼウスは魔王の討伐を果たした勇者であると自ら名乗った。少なくはない自分に従う諸侯と傭兵を率い、母皇后メイはじめとする宮廷連合に正式に宣戦布告した。


戦乱の時代が始まる。魔物に与えられた打撃から人類がまだ立ち直ってもいないうちに、人と人の間にあったほころびが目に見えて破綻していく。


だがそれもまた、人々が自ら望んだ道のひとつである。




ラウラは丘の上に立っている。丘は緩やかに続き、それは魔物戦争と呼ばれた十年間で掘られた塹壕や城壁の名残りだった。丘の上にはヤグルマギクと下草が続き、遠く羊の群れが草を食むのが見える。


ぱっと足元を白いかたまりが跳ね飛んでいくのが見え、彼女は目を凝らした。それはただの幻覚だったが、確かに子羊の形をしていた。あんなに小さくふわふわしていたものがグティエルの一部だったことを、いまだにどう受け止めればいいのやら。

「何を見ている?」

静かな声がする。振り返らずとも夫だと分かる。


荒野の風が黒髪を撫で、くるくるとうねってあちこちに乱れた。髪を纏めず外に出ることなどかつては考えられもしなかったし、人々のうちぶつぶついう者もいるが、もう気にならなかった。少し肌寒かったので、外套代わりに髪を下して過ごすと決めた。ラウラは自分で決めた通りにするのだ。


「荒野の先を見ていました。そこがユルカイアの名前を冠する日を夢見ていたのです」

彼は黙った。絹と金糸をふんだんに使った立派な一揃いの装束姿の夫は素敵だったが、黒い目ははじめて見たときと変わらずきらきらと光り、山猫じみて疑り深かった。


死んでいった人たちの顔がラウラの脳裏をさあっとよぎり、消えていった。すべてが集約され、拡散され、そのうち忘却に飲み込まれる。自分が死んだあとも同じようにされる。地球から続く人類の営みだ。


「じゃあ俺はもっと頑張って、その日が早く来るように努力しよう」

グティエルはからから笑ってラウラの髪を撫でる。彼女はくすくす笑って背伸びをし、夫にキスを捧げた。ふたりを遠巻きにして侍女や侍従、そして武官たちがいたが気にも留めないままである。


早朝の荒野をいく風は身を切るほどに冷たく、ラウラの身体はカッカと熱くてちょうどいいくらいだった。今日この日の昼日中にユルカイアの軍勢はクォートと最初の合戦の先端を開く予定だった。場所はこの荒野をはるかに行った先、ちょうど両者の境界線に定められた付近の予定で――そこはタラと家族の死体が山積みにされていた森が見える場所だった。


グティエルはこれからも多くの戦争を戦うだろう。戦争では人が死ぬ。彼も死ぬかもしれない。ラウラは泣かないだろう。彼の死を悼み、そして苦しみを背負いながらユルカイアを繋げていく。最後までユルカイアに属する者として死にたい。グティエルと同じように。


「ご武運を祈っております」

「ああ。お前がここにいてくれるなら、俺は頑張れるよ」

別れの挨拶は静かだった。互いの心の中に互いがいた。


グティエルの装束の下、シャツと素肌の間にはラウラが送ったネックレスが輝いている。彼女の黒髪と金の鎖を編み込んで作られた細く重たい鎖に、懐中時計が下げられたものだ。時計の蓋の内側には子羊の形の焼き彫りがされていた。彼と彼女を繋ぐもの。やがて忘れられるべき労わりの時間の記憶だ。


出立する軍勢を見送ったあともラウラはずっと荒野に立ちすくんでいた。風が強くなり、雲が出て、変わりやすい荒野の天気がどんどん悪くなり、侍女の一人がおずおずと戻りましょうと声をかけるまでずっと。


「――ええ、戻りましょう。ユルカイアに」と答えた声はうつろだった。灰白色の目に荒野の暗さはどこまでも見通せた。グティエルの背中まで目線だけでもついていきたいと思ったが、ユルカイアの人々を間近に見守らなければならなかった。




かつて北の辺境の一地方でしかなかったユルカイア辺境伯領は魔石の産地を抱え、唯一無二の加工技術を有する工業都市として有名である。


大聖堂が文字通り崩壊し、宗教的基盤を失った魔法使い貴族が独自の小国を打ち立てて互いに殺し合った戦乱の時代、魔石の需要の急増とともに飛躍的な発展を遂げ、経済的軍事的優位を背景に確固とした独立を誇った。


中興の祖として知られるグティエル・エンバレクは有能な軍人だったが、山の中の魔石採掘にをごく一部のギルドにしか許さず、特権階級化したそれらの技術集団が新しい格差を生んだことを非難されることも少なくない。あえて階級を作り出し互いに支配させる貴族的なやり方を取った背景には、その妻ラウラニアの入れ知恵があったともされる。


数々の戦争を一度も敗北することなく勝ち抜いた常勝の将であるグティエルは、どんなにボロボロになっても最後には必ず妻の元へ帰って共に過ごした。彼女が産んだたくさんの子供たちはそれぞれ家を持って独立することなく、全員がエンバレク一族として結束したこともまた有名である。


グティエルの革新的な技術改革や軍略にラウラの前時代的だが効果的な支配のやり方が合わさって、未曽有の大繁栄が生まれた。夫婦亡き後に表に出てきたたくさんの弊害の元は確かにあれど、それは誰もが共存できた時代だった。


いい時代だった、とそのときを知る者は回想する。余所者を排斥する必要もなく、互いにいがみ合いつつも決定的に対立することもない、もしそういう兆しがあれば奥様が飛んできて𠮟りつけられてしまうから。そういう日々だった。


豊かで牧歌的で血生臭い、騎士と貴婦人の誇りが生き生きと輝く、いい時代だった。


【完】


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竜と恋と石の花 重田いの @omitani

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