第66話

ラウラがユルカイアの城にやってきて、一年が過ぎていた。夢のように速い一年だった。その密度もこれまでの人生と同じくらい濃かった。ラウラは貴婦人として物資の手配や金銭の配分に奔走し、元皇女として人脈を駆使してグティエルを助け、魔法陣や術式の筆記を手首に湿布が必要となるまでひたすら続けた。己に魔力がないことが、悔しいなんて言葉で言い表せられないくらいに悔しかった。


グティエルとその軍にとって事態は良くないこと続きだった。内部対立は激しく、草原から逃げてきた一団が離反して都へ向かっていった。彼らの無事を祈るしかないことに項垂れているうちに感染症が発生し、その対処のため魔法使いたちを呼び戻して浄化魔法をかけて回ってもらわなければならなかった。そしてつい先日、よりにもよって皇后メイの故郷ラムネシアから亡命者がやってきた。メイの実家と反目した貴族に率いられた一族郎党であり、つまりユルカイアに再び新しい魔法使いと新しい貴族家が加わったのだった。


すでにユルカイアは小さな国の様相を呈している。グティエルは名目上は支配者だが、実際は大家のように土地と住居を人々に提供する立場だった。借家人たる別の土地の人々の方が武力も魔力も大きいのだった。


グティエルはだが、その状況に苛立った様子もなかった。


「欲しいならくれてやるがいいさ。入りたいというなら入れてやればいい。この土地は……そうでもしなければ変わらない」


と言う。ラウラとしても言いたいことはわかる。長年に渡る閉鎖した空間が人々の心まで凍らせ、魔物の活性化が追い打ちをかけた。


山が生きたいと思う限り、魔物どもの狂乱は終わらない。そして山が諦めることは決してない。魔物という備品を、端末を用いて人の命を吸い取り続けるだろう。この状況が滅多なことでは終わらないことを、ラウラたちユルカイアの中枢に触れたごく少数の人間だけが知っていた。


ゆえにグティエルは、


「この土地の呪いをあらゆる人々が分かち合ってくれるというなら、それはとんでもなく幸運なことだ」


と言い、姿を見せないエトナを懐かしがる。


「あの人は御しきれない魔物の暴走を止めるため、あえて魔王としてラベリアス・クォートに討たれたのだ。クィントゥスの息子の末裔の血は、少なくとも平民何人分かの価値があったに違いない。山は百年、留まってくれたのだから」


素晴らしい犠牲だったのだ、と言う。ラウラは黙って夫の首に腕を絡ませる他ない。ヴァダー・エンバレクはこんな気持ちだったのだろうか? なすすべもなく山の暴走に巻き込まれ、波に揉まれるようにして生きるしかない身内を見ているしかない。当事者ですらないのだ。魔王エトナを殺したのがラベリアス・クォートで、ヴァダー・エンバレクは英雄ラベリアスの血路を開いた頼れる仲間だが、それでもエトナを見殺しにするしかなかった。


百年前の人々が実際に何を考えどう行動したのか、先祖返りのエルフたるマヌエラはすでにいないので想像するしかない。そこにあったのは吟遊詩人が歌う耳に心地よい歌のように煌びやかな感情ばかりではなかったのだろう。


「山の呪いが大陸に拡散していく。ユルカイアだけが抱え込んできた祝福と表裏一体の呪い……」


と呟くグティエルの横顔を眺めながらラウラは、この人はユルカイアのために生まれたのだという思いを新たにする。そろそろ解放されても、いい頃合いだ。そうだろう?


ユルカイアの寒気は容赦なく人々を襲い、魔物の襲撃は絶え間なく、兵士たちの士気は低下するばかりである。彼らを支える家族たちも首や腕や足だけになって戻ってくる男に耐えきれなくなりかけている。傷は癒える。目の下のクマは眠れば消える。だが心の傷は消え難い。脱走者が続発し、しかし彼らは魔物の出現する荒野と街道を通って逃げるしかないのだった。食い殺された死体が、連日ひそかに埋葬されていた。


(でもこれまではグティエルがただひとりでその重圧を背負っていた)


と思ってしまうのは、ラウラの頭がおかしいからだろうか?


鎖骨の下、心臓の横、失われた魔力嚢の残骸が鈍く痛む。じくじくと、まるで蘇ろうとしているかのようだった。もしそうならぜひとも復活してほしい。


グティエルは夜中に戻って来てラウラの隣で束の間、眠る。あれを眠りと言ってもいいものか……ほとんどうつらうつらしているだけだった。人々は次々と死んでいった。


「なぜだろう、悲しくない。悔しくもない」


「もう少しお眠りになって。まだ夜明け前です」


「会議がある。行かないといけない。眠る暇はないし、寝ていてはいけないのだと思う、俺は……」


そんな会話を夢心地で交わすのが、夫婦の会話らしい会話といえばそうだった。


ラウラは自分なりに働いているつもりだが、人々からしてみればポッと出てきた謎の女である。本当にグティエルの正式な妻なのだろうか? どうやらそうらしいが、と噂されているレベルで信用されていなかったが、それはこのツギハギの連合軍の中、お互いそうだった。ユルカイアの人々とそれ以外の人々。逃げてきた人々のうちでも家族に被害が出た者と出なかった者、村ぐるみで避難してきた者たちとそうでない単体の家族で断絶がある。


ここが基本的にクォートに見捨てられた人々の行きつく先であるという事実もまずかった。ラウラがクォートの元皇女であることを、人々は話半分の出自捏造だろうくらいに思っているが、もし本当だと知れたらどうなるかわからない。自分一人が火炙りにされてすむくらいならそれでよかったが、きっとそうなったらグティエルはもたないだろう。


そう――十年経ったのだから当然、妾の一人や二人くらいいると思ったのにグティエルはそうした女性を持たなかった。困ったことに、ラウラだけでいいのだと、お前のために頑張るよと言う。おそらく彼は戦争に次ぐ戦争に疲弊しきって、まだ三十前の男に当然の欲望をどこかに忘れてしまったのだろう。ラウラはため息をついて、とりあえずは与えられるすべてを夫に与えた。それ以上のものがさかさに振っても出なくなるまで全部。


それは思った以上に幸せなことだった、ひとりの男、最初は違っていてもしまいには自分でこれと決めた男に何もかも捧げて尽くすのは。ユルカイアが滅びてもいいとさえ思った。グティエルが無事でいてくれるなら。恋愛に浮かれていたのだ、と思う。思う人が思い返してくれるのが嬉しかったのだった。




別れが刻一刻と近づいてきているのをラウラはわかっていた。物語は収束に向かいつつあり、新しい時代はちっとも見えやしないが確かにそのときを生きる子供たちが育ちつつあった。ユルカイアに蓄積された憎悪と愛とあらゆる怨嗟が、そろそろ解消されつつあるときだった。まっさらな大地が子供たちに残されるだろう。ラウラはそのときその場所に自分がいないことを願っている。その大地で生きるグティエルにふさわしいのは自分のように汚れた女ではないことを知っているから。


時間の進み方が速くなったようにラウラは思う。自分を傷つけてくる人が、少なくとも表立ってはいなくなったからだろう。やっぱりユルカイアに来て当初、みんなヒマしていたのだ。停滞と閉鎖に膿んでいたのだ。こんなにも忙しない日々においては誰もラウラに注意を払わない。日々は大聖堂で尼僧見習いをしていたあの頃に戻ったようだった。すべきことがあり、気に掛けるべき人がおり、周りには敵も味方もいない。――幸せだ、と言えば決して本当にはならないが、それに限りなく近い気持ち。


明け方にフラフラと身を起こすグティエルが心配すぎて、それも感じる暇がなくなってきたけれど。


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