心変わり、そして変身

「長い話になっちゃったけど、あたしがマトリになった理由、わかってくれたかにゃ?」


「ああ……。よく、わかったよ」


「あたしが、どうしてレオンにこの話をしたのかも、わかってくれた?」


 その問いかけに、レオンは静かに頷いた。



 彼女がつらい過去をわざわざ打ち明けたのは、

 レオンに、自分自身のことを見つめ直してほしかったからだ。



「レオンは、人狼の能力は制御できないって言うけど。そんなの分かんないよ。

先祖が能力を制御できなかったから、自分もそう違いないなんて理屈は通らない。間違ってる。

……そんなの、マジックジャンキーどもが言ってることと同じじゃないか」



 魔法薬使用者たちは、〝能力を操った先祖〟の血を継ぐ者として、その再現を追求する。


 レオンは、〝能力を制御できなかった先祖〟の血を継ぐ者として、その再現を忌避きひする。


 真逆のようでいて、その本質は同じだ。

 種族の血を一括ひとくくりにして考えて、自分の在り方をそこに当てはめている。



「先祖がどうだったとか、そんなのは関係ないんだよ。

レオンの能力は、レオンだけのモノ。使ったこともないのに、能力を制御できないって決めつけるのはおかしいよ」


「……ああ。そうだな」



 舌を噛んで自死しようなどと、自分はなんとバカなことを考えていたのだろうか。

 レオンは、深く自分をいましめた。


 今なお、隣り合わせに縛られている少女から甘く暖かな匂いが香る。

 その芳香は少年の心を惑わせ、血をたぎらせていた。


 この血に宿る狂犬が、今にも目覚めて吠え出しそうだ。

 だが、もはやそこに恐怖はない。



「ここで狼になったら、まずあたしを襲うだって? そんなことするわけないでしょ。だってレオンは、一緒のベッドに寝てたって、手を出してこなかったヘタレだもん」


「あ、当たり前だろ! 相棒にそんなことするわけない!」


「……、大丈夫だよね。たとえ狼になっても、レオンがあたしを襲うはずがない」


 シィナはそう言って、痛快な笑みを浮かべた。


 それに応えるように、レオンもまた快い笑顔で頷いた。




 そして目を閉じて、意識を集中させる。


 今までずっと、遠ざけようとしていた必死になっていた〝それ〟を、むしろ自らの意思で手繰たぐり寄せた。


 今まで能力を発動したことはないし、発動方法を教わったこともない。

 だから、ひたすらに念じた。

 能力の発動、狼への変身を頭の中でつよくイメージする。



 視界を絶ったせいで、嗅覚がいっそう鋭くなった。


 鼻腔を満たし、脳まで溶け込んでくるシィナの匂い。


 初めて嗅いだときから、とにかく形容しがたい匂いだとレオンは思っていた。


 ときには甘く、ときに暖かく、ときに清らかに。

 心が安らぐような、それでいて体の芯を熱くさせられるような。

 ずっと一定しない、捉えどころのない匂いで、言葉で説明することがとても困難だと感じていた。



 それが、たった今思い浮かんだ。

 ――〝好きな匂い〟だ。


 難しく考える必要なんてなかった。

 既知きちのものでたとえようとすること自体、ズレていた。


 これは自分にとって好きな匂い。

 もちろん恋愛感情なんて俗的なものではなくて、心の奥底にそっと馴染むような、親しみ深い感覚だ。



 実に単純なことだった。

 これまで空いていたパズルのピースがようやく埋まったかのように、レオンは心がスッキリと落ち着くのを感じた。



 それと同時に、血があつく燃え上がるのを感じる。

 心臓が脈々と鼓動を打ち、血流が急速に運ばれる。


 ……もちろんそれは、紛れもなく、レオン・マクスヴェインという個人が生まれ持った、彼だけの血だ。




 ――――

 ――




「レ、レオン……っ」

 シィナは体を縛られているので、身動きはできない。

 相棒の少年が変わりゆく様を、間近で見つけることしかできなかった。


 レオンは俯きながら、『グウゥゥゥゥ……』という、低く唸るような声を上げている。

 人の口から聞くことのない声だ。


 室内だから風なんて吹いていないはずなのに、少年の髪がざわざわとなびいている。

 やがてミシミシと、なにかがきしむ音がしはじめる。

 縄が軋んでいるのか、それとも彼の骨肉が軋んでいるのか……。


 次第に体の形が変わってゆく。



「……っ」


 シィナは固唾かたずをのむ。

 レオンを信じてはいるが、どうしても恐ろしく思ってしまう。


 仕方ないことだった。なにせ、人間が狼に変身する様子なんて、現代人ではとうてい目の当たりにすることのない異様な光景である。



 パンッ、となにかが破裂する音が響いた。

「ひにゃっ」と小さな悲鳴をあげるシィナ。


 まさか彼の体内で内臓でも破裂したのかと思ったが、ちがう。

 縄が解けたのだ。

 一つ、二つと、次々に結び目が弾けていく。


 体格が変わればするっと抜けられるだろう、と思っていたのだが。


 狼化の変身過程は思っていたよりも力強いものだった。

 縄を抜けるのではなく、縄の縛りを強引に破っていく。

 シィナは、勢いよく弾け飛んでくる縄を避けるために、できるかぎり縮こまって、目を閉じた。




 ……十数秒後、ようやく静かになる。

 シィナはゆっくりと目を開けた。



 ぼやけた視界に映ったのは、巨大な黒い塊だ。


 すぐにピントがあって、その正体が分かった。

 狼である。


 黒い毛並みに覆われたイヌ科の生物。

 とても大きい。少年の身長が、ほぼそのまま、狼の体長に変わったようだ。


 そいつはまっすぐ、少女を睨んでいた。

 鋭い牙を見せながら、『ぐるぅううう……』と唸りを上げている。



「……え、えっと、あのぉ……」


 蛇に睨まれた蛙、ならぬ、狼に睨まれた猫。


 次の瞬間、がばっと大口が開かれる。

「うにゃあっ!?」と叫び声をあげるシィナの胸元に、狼の頭が覆いかぶさる。


 そのままの勢いで噛みつけば、少女の胸部はごっそりなくなるだろう。


 だが、狼の牙がとらえたのは、少女の体を縛り付ける荒い縄だ。

 縄目に牙を刺し、顎を振り抜く。


 すさまじい咬合力こうごうりょくをもって、固い縄を一気にかみちぎった。



「…………っ」

 喰い殺されるかと思った。


 はらはらと縄が落ちるなか、腰が抜けたように立ち上がれない。



 縄をほどいてくれたということは、レオンは能力を制御できているのか?

 彼の意思は残っているのか?

 言葉は発せるのか?


 いろんな疑問が一挙に湧くが、それらをどうやって確認すればいいのか分からない。


 迷った挙句、シィナはとっさに右手を差し出した。



「おっ、――――お手‼」

 ぷるぷると手を震わせながら、まっすぐ狼の目を見つめる少女。



 狼は、しばらくその顔をじっと睨み返すが、やがて顔を伏せて……そっと手を出した。

 少女の小さな手の上に、狼の前足が置かれる。


 鋭い爪や、少し硬い肉球、柔らかな獣毛の感触。

 人間の手の感触とはまるでちがう。


 だけど、そこにはちゃんとレオンの意思が感じられた。



「…………、は、あはは……」

 シィナは、息が詰まるような緊張から解放されて、へたりこむ。


「レオン、ほんとに狼に変身しちゃった。……はは、すげーや。ファンタジーかよ」

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