第一客車の戦い

『ポォォォォオオオオオッッ』。


 火急を告げるような汽笛の音。


 トンネルに入る合図だ。この区間は山岳地帯がつづいているため、列車はたびたびトンネルに入る。



 仄暗ほのぐらい車内で、巨大なシルエットが蠢いた。


 オークの拳が、少女に向かって振るわれる。


 まるで重い鉄球が振るわれたかのようだ。

 ぶおぉん、と空を切る音が、間近で聞こえた。耳の獣毛が風にあおられてなびく。

 かがむのがもう少し遅れていたら、少女の首が飛んでいた。


 すんでのところで拳を躱し、シィナはすぐさま後退する。



 列車がトンネルを抜けた。

 窓から外光が差し、オークの下卑げびた笑みが照らされる。




 最前列車両の中で対峙するオークと猫。


 この車両に乗っていた乗客たちは二両目以降に避難していて、彼らの旅の荷物だけが残されていた。


 シィナがまた一歩後ずさろうとしたら、かかとに大きな旅行鞄があたる。


「まったく、逃げるんなら荷物もってけよにゃあ。おかげで動きづらいったらない!」


 シィナは、狭い通路に散乱する荷物を憎らしげに睨みつける。



「ハッ。なんだ小娘。さっきまでの威勢のよさはどうした⁉」


 オークの巨体により、車両の通路幅はみっちりと塞がれている。

 さらに通路には荷物が散乱。

 狭いし足場が悪い。

 シィナの自慢の機敏さはすっかり封殺されてしまっていた。


 俊足で敵を翻弄し、隙をついたり、後ろをとったりするのがシィナの得意とする戦法だが、ここではそれが活かせない。

 狭くて荷物だらけの車内では動き回ることができないし、敵の後ろにまわりこむこともできない。

 とはいえ、正面からオークに飛びかかっていっても、反撃をくらうのは目に見えている。


 シィナは手も足も出ず、さっきからオークの拳をギリギリ躱すので精いっぱいだった。



 オークが一歩、足を踏み出す。

 列車の床板がミシリときしんだ。


 シィナはまた後退する。すでに車両のドアが近い。


 戦闘を二両目までもつれこませるわけにはいかない。

 向こうは逃げていった乗客ですし詰め状態だ。そんな中でこの男が拳を一振りすれば、一体何人の頭が吹き飛ぶだろうか。


 でもこのまま追い込まれると、自分の頭が吹き飛ばされる。



 ……どうしよう。

 打開策が思いつかない。

 頭の中で思考がかき乱れている。

 冷静にならなくちゃと思うが、そう思うほどかえって焦りが加速してしまう。


 こんなときに列車の揺れが激しい。

 ぐらぐらと視界が左右に揺れて定まらない。


 ……いや、これは列車の揺れじゃない。

 いろいろ考えすぎてめまいを起こしているのだ。

 まずい。前がよく見えない。

 目の前からなにかが飛んできている気がするけど、それがなにか分からない。


 ……次の瞬間、それがオークの拳であることに気付く。


 呆然と立ち尽くしていた少女に向かって、オークが容赦なく殴りかかっていた。


 このままオークの拳が顔面に直撃すれば頭がカチ割れる。


 この瞬間、シィナは死を覚悟した……。




「――ひにゃっ⁉」


 体に鋭い痛みが走り、短い悲鳴をあげるシィナ。


 ただし、痛みを感じたのは顔面ではなかった。尻尾だ。

 だれかに尻尾を思いっきり引っ張られた。

 そのまま後ろに転んで、激しく尻もちをつく。



「大丈夫か、シィナ⁉」


 レオンだ。

 尻もちをついたままのシィナの横に膝をつき、ぽんと肩に手を置く。



「とっさだったから尻尾を引っ張ってしまったけど……痛くなかったか」


「い、いたいよっ。おしりがびりびりする! 獣人の尻尾はデリケートなんだから、乱暴しないでほしいにゃあ‼」


「頭が吹っ飛ぶよりマシだろ」


 レオンが尻尾を引っ張らなければ、オークの拳をモロに受けていた。

 もしそうなっていれば、今ごろ少女の頭部は床に転がっていたことだろう。



「……で、この状況はなんだ?」


「あのオークの野郎は、エッジズニックスの客だったんだ。エルフどもがいなくなったから、自分で仕入れ元まで行って、クスリを買い付けるつもりなんだ」


「やっぱりか。お前……ゴードンだな?」


「……なぜ俺の名を知っている」

「えっなに、レオン、コイツと知り合いなわけ⁉」


「エッジズニックスの顧客情報にその名前があった。組織の一番の太客だ。……それだけ魔法薬を使い込んで、力を得ているということだ」


 レオンは、あらためてオークの体をじっと観察する。 


 ちみちと音を立てながら膨張している筋肉。

 肌に浮かぶ血管は魔法草の葉脈のような紫色で、瞳孔は開いている。

 かなり危険な状態だ。



「なるほど、お前もマトリだな。……なんだ、ガキばっかりとは、魔法薬取締局は人手不足なのか?」


 オーク――ゴードンは余裕の笑みのまま。

 子供がもう一人増えたところで、優位は変わらない。



「シィナ、ずいぶん苦戦してるみたいだな。エルフどもはあっさり蹴散らしてたけど、オーク相手はさすがにきついのか?」


「べつにオークが相手でも戦えるよ。後ろにまわって首根っこを思いっきり蹴りつけてやればいい。

脳みそ揺らしてやれば、さすがにぶっ倒れるはずだ。たとえオークだろうと、脳みそまで筋肉でできちゃいないからね。だけど……」


「だけど?」


「こんな狭くて足場の悪い場所じゃあ、まともに動き回れないよ。

それにあいつ、隙を作らないように、じりじり距離を詰めてくるんだ。考えなしに殴りかかってくれれば、カウンターで顔面蹴っ飛ばしてやれるんだけど。

あいつ、なかなか賢明だにゃ。オークのくせに脳筋じゃないなんてね」



「なにをコソコソ話してるんだ。作戦でも練っているのか?

無駄だ。対面でオークに勝てるわけがないんだ。この強靭な肉体を前になすすべはないぞ‼」


 オークの高笑いが、車両内に響きわたる。

 少年少女を追い詰めているこの状況を愉しんですらいる。

 魔の薬効がすでに頭までまわっているのか、それとも生来の嗜好か。


「もっと、もっとだ。魔法薬の煙を吸って、さらに強靭な肉体になるのだ……! その邪魔するやつは全員ぶっ殺してやるぞ‼」




『ポォォォォオオオオオッッ』


 ――そのとき、甲高い汽笛の音が鳴る。



「またトンネルか。気を付けてレオン、あいつ、暗がりに乗じて殴りかかってくるかも」


「……トンネルか」

 ふと、思案するレオン。


「シィナ。あいつはどうしてもモクを吸いたいらしい」

「え? ああ、うん。もうすっかりマジックジャンキーってカンジだにゃ」


「だったら目いっぱい吸わせてやろうか」

「んにゃ? レオン、何言って……」


「田舎者の知恵も、役に立つもんだ」


 レオンが不敵に笑っている。

 生真面目な少年が、こんな表情をするのは珍しい。



「ふうん……おもしろいにゃ」

 彼の意図を汲んだらしい。シィナもつられて笑った。



 二人はコクと頷きあわせると、同時に駆け出した。


 オークに向かってではない。

 彼らは、通路に散乱している旅行鞄を拾い上げると、それを列車の窓に向かって投げはじめた。



 がしゃああん、と激しい音を立ててガラスが割れる。

 旅行鞄は外に投げ出されていく。


 レオンは持ち主に申し訳なさを感じつつも、次の鞄を手に取って、また窓に向かって投げる。

 シィナの方はむしろ嬉々として投げているようである。



「なんだ? 追い詰められて、ついにヤケになったか?」


 一心不乱に窓を割りつづける二人。

 オーク・ゴードンは、好機とばかりに一気に距離を詰めた。列車の床板をきしませながら、ずんずんと歩み寄っていく。



 ついに目前の距離。

 もう一歩近づけば腕が届く。

 少年と少女、それぞれ頭をかるく小突くだけで良い。

 オークの腕力ならそれで充分だ。

 それだけで彼らの頭蓋骨は割れて、脳漿がまきちらされる。

 簡単だ。ゴードンはにやりと口角を吊り上げた。



 しかし。

 同時に、少女もにやりと笑っていた。


 ついに死に際まで追い詰められたというのに、こちらにしたり顔を向けているのだ。




「さあ、欲しがってだろ、モクだぞ。たっぷり吸えにゃ‼」

 シィナは気味良く言い放つ。


 直後、周囲が暗闇に包まれる。

 列車がトンネルに入ったのだ。



「ぶはっっっ」


 割れた窓から大量の黒煙が入ってきて、一気に車両の中を黒く染めていく。

 トンネル内に滞留する蒸気機関の煙だ。


 ゴードンは煤だらけの煙を顔面に浴び、むせかえる。


 シィナは両手足を床につき、低い姿勢をとっていた。

 本物の猫のような姿勢だ。目の前に、よろけるオークの足が見える。


 レオンも、座席のそばに屈んで煙を避けていた。


 彼と目が合う。

「やってやれ」と目で言っていた。



 シィナは力強く頷くとすぐに駆け出す。

 オークの足元を潜り抜けて、背後にまわった。


 風に巻かれた煙が列車内に充満しはじめ、シィナもまっくろな煤を浴びるが、気に留めない。

 素早く飛び上がると、煙の中、野太い首を視界にとらえる。



 弾丸のような足刀が、オークのうなじを射抜いた。


 魔力によって密度を増した分厚い筋肉は、まるで強固な鎧である。


 だがシィナの蹴りも、当然、持ち前の魔力によって威力が底上げされているのだ。

 その衝撃は分厚い筋肉を貫き、頭蓋のなかにまでびりびりと駆け巡った。

 脳漿のうしょうが波打ち、脳が揺さぶられる。



 ただでさえ煤煙すすけむりに巻かれていた視界が、さらに捻じ曲がる。


 なにをされたのか理解できないまま、ゴードンはその巨体を床板に沈めていた。


 座席の陰で屈みこんでいたレオンには、その様子は見えていない。

 すでに彼の目の前も煤だらけ。


 だが状況は理解していた。

 シィナの鈴の音で、彼女がオークの背後にまわりこみ、飛び蹴りをかましたことがはっきりとわかったのだ。


 彼女とバディを組んで以来、毎日聴いている音だ。

 その鳴り方で、彼女がどんな動き方をしたのかおおよそ読み取れた。




 列車がトンネルを潜り抜けて、風が煙を追い払ってくれた。


 レオンはケホケホとせき込みながら立ち上がる。

 オークの巨体が床に倒れていた。

 あれだけ威張っていたのに、少女の飛び蹴りひとつで伸びてしまうなんて情けないものである。


 そんな情けない男の向こう、通路の真ん中にシィナが立っていた。



 二人は、お互いの姿を見て吹き出してしまう。

 全身煤だらけで、ひどい格好だったからだ。

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