第33話 ただ純粋な好意
自分で言うのも何だけど、俺は自分がわりと辛抱強い性格だと思っていた。なんてことを口にしたら、バラーシュあたりは鼻で笑うだろうけど。
そりゃあ、変態にからまれたりすれば、いくら温厚な俺でも速やかに実力行使に訴えるものの、それ以外のことについては気が長いというか、我慢強いほうだと思っていたのだ。
そうでなければ、バラーシュの果てしない小言やセルマの明けない夜語りに耐えられたはずがないと。
だけど、皇都の大神殿にあった「それ」を前にして、俺の甘っちょろい自己評価は瞬時に砕け散った。
「……なんだ、これ」
自分の声が震えているのがわかる。頭にかっと血が昇り、逆に手足が冷たくなる。
「ノア」
耳元で低い声がした。聞きなれたその声に、沸騰した頭が少しだけ冷める。
「落ち着け。ただの絵だ」
「……わかってるよ」
何度か息を吸って吐いて、俺は千切れかけた自制心をたぐりよせた。
聖堂に入って正面、信徒たちが
剣や槍をふりあげ、誇らしげに旗を掲げる騎士たちと、その足元に倒れ伏す――
「……はっ」
俺の口から乾いた笑いがこぼれた。
「よく描けてるなあ。あれ、きっとゲイルだぜ。あっちはトールで……」
「ノア」
「わかってるって」
心配するな。俺はちゃんと落ち着いている。だから、これくらいは勘弁してくれ。こんな趣味の悪い絵を前にしたら、多少の毒は吐きたくなるってものだろう?
俺の仲間が、騎士団の連中に踏みつけにされている絵なんぞ見せられた日には。
「どうかされましたか」
入り口で突っ立ったままの俺たちに、神官服の男が声をかけてきた。小柄で年若い、いかにも人が好さそうな丸顔の神官だ。
「ああ、すみません」
俺は恐縮した
「ちょっと、びっくりして……すごいですね。特にあの絵……」
俺の視線の先を追った神官は、ぱっと顔を輝かせた。
「あれですか。ええ、素晴らしいでしょう? 先日の魔族討伐を記念して描かれたものでしてね」
「魔族討伐って、つい最近じゃないですか」
そんな短期間で、これだけの大作を仕上げられるものだろうか。
驚く俺に、神官は「じつは」と楽しい秘密を打ち明けるように顔を寄せてくる。
「描かれ始めたのはずっと前なんですよ。討伐軍を送り出すと決まった際に、教団長が制作をお命じになりまして」
「それはまた、用意周到というか、気が早いというか……」
「いえいえ」
丸っこい顔に敬虔さと誇らしさを同居させて、神官は胸の前で手を組んだ。
「気が早いなどということはありません。我らの勝利は、はじめから約束されていたのですから。悪辣な魔族を根絶やしにすることは、全能の神が我らに下された崇高な使命なのです」
背中にそっと手が添えられる。
大丈夫だって、ギルベルト。この程度で逆上するほど、俺の気は短くない。
「それでも、勝利の報を受けてから仕上げるまでは大変でしたよ。十人以上の絵師が昼夜を問わず……おや、どうなさいました」
調子づいた神官の説明を聞きながら、俺は左足を固めていた術をゆるめた。途端に平衡を失って崩れる体を、背中に回された腕が抱きとめる。
「失礼、弟の具合が……おい、大丈夫か」
あれ、兄弟設定まだ続いてんの? まあいいけど。
「兄ちゃん……気持ち悪い」
広い胸にすがって弱々しくつぶやけば、ギルベルトも「だから無理はするなと言ったのに」と調子を合わせる。
「弟さん、大丈夫ですか。よろしければ医務室にご案内しますよ」
「それはありがたい。お心遣いに感謝いたします」
ギルベルトは俺を抱きかかえ、親切な神官の後について歩きだした。
参拝客たちの視線を浴びながら聖堂を後にし、人気のない廊下に出たところで、俺はギルベルトの腕から抜けだした。同時にギルベルトが神官に飛びかかる。
「えっ……」
ギルベルトの手刀が首筋に決まった。素っ頓狂な声をもらした神官は、ぽかんとした顔のまま白目をむいて床に倒れ伏す。
「お見事」
賛辞を送ると、ギルベルトはかすかに笑った。
「次は俺にやらせてくれよ」
「できるのか?」
馬鹿にすんな。これでも俺はゲイルの一番弟子だぞ?
それから俺とギルベルトは気絶した神官を近くの物置に運びこみ、神官服を脱がせにかかった。神殿内をうろつきまわるために、まずは神官なり騎士なりに扮しようという作戦だ。
あらかじめギルベルトが――実際は有能なオレグさんが用意してくれた神殿の見取り図を頭にたたきこみ、ギルベルトと簡単な打ち合わせをしただけの雑な作戦だったが、今のところは上手くいっている。
「どっちが着る?」
「おまえだろう。私には丈が足りなっ……」
失言をもらしたギルベルトの背中を蹴飛ばして、俺は上着を脱ぎ捨てた。
「おい、本当のことだろう」
「本当のことなら何でも口にしていいって教わったのかよ、おまえは」
若干だぶつく神官のローブに袖を通し、代わりに脱いだ服で神官の口元と手足を縛る。
手荒なことをして申し訳ない。けど、あんたには全能の神様がついているから大丈夫だよな。
「ノア」
ローブの襟を整えている俺に、ギルベルトが声をかける。振り向くと、珍しく真剣な顔ををしたギルベルトと目が合った。
「私の名にかけて約束しよう。あの絵は必ず破壊してやる。二度とおまえの目に触れさせるものか」
「……へえ」
なんだろうな、こいつ。ちょいちょい俺を苛立たせるくせに、不意打ちみたいに俺が欲しい言葉をくれたりもする。こんなふうに、心の柔らかいところを突いてくる。
「ありがたい申し出だな。で? 代わりに俺は何をすればいい」
「何も。この件でおまえと取引するつもりはない。純粋な好意……いや、せめてもの詫びだ」
苦い笑みをたたえる顔には、普段の打算めいた影もなく、ただ自らを嘲るような、途方に暮れたような、そんな気弱な感情が見え隠れしていた。
「そっか」
純粋な好意とやらを示す皇帝の前で、俺は腕を上げた。
殴打を受け入れるように目を閉じるやつの頭を、思いっきりかき回してやる。いつもエリックやバルトにそうしているように。
「ノア?」
目を丸くする皇帝の頭を、仕上げとばかりにぽんとたたく。
らしくない面さらしてんじゃねえよ。おまえはいつだって、ふてぶてしいくらい自信たっぷりな態度がお似合いだ。そっちのほうが、俺も叩き潰しき甲斐があるってものだし。
「次はおまえの分だな。なるべく図体のでかい薄ら馬鹿を捕まえようぜ」
「……発言に悪意があるな」
なんとも言えない顔で髪をなでるギルベルトに笑みを放り、俺は次なる獲物を求めて回廊に足を踏み出した。
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