第41話 謝罪と贖罪、それから断罪
目を開けたとき、視界に飛び込んできたのは赤だった。暗がりでも目に鮮やかな、それは――
「わっ」
反射的に蹴り上げた足が、俺に覆いかぶさっていた男の腹に決まる。くぐもった悲鳴をあげて床に転がったそいつは、畏れ多くも皇帝陛下だった。
「あー悪い、大丈夫か?」
「おまえは……」
片手で腹を押さえながら、ギルベルトは恨めしそうな目で俺を見た。
あれ、そんなに痛かった? 目尻に涙まで浮かべちゃって。あと、髪色戻ってんな。俺が気絶してる間に術が解けたか。
「いや、悪かったって。でも俺、前に言ったよな。意識がないときは絶対触るなって……」
「やかましい!」
鼓膜がびりびりするほどの大声で叫ぶと、ギルベルトは強い力で俺の両肩をつかんだ。
はずみで、俺の懐から何かがすとんと転がり落ちる。カン、と音をたてて石の床に跳ね返ったそれは、俺の胸に刺さったはずの短剣だった。
「体は! 無事なんだろうな!?」
「あっ、はい、大丈夫です。元気です」
思わず敬語で返すと、ギルベルトは大きく息を吐いてうつむいた。
「ギルベルト?」
「……よかった」
先ほどとは打って変わって、ギルベルトは蚊の鳴くような声でつぶやいた。
「おまえが……死んだんじゃないかと……」
あー……悪かった。それは本当に悪かった。心配かけたことは素直に謝る。
「ごめんな。本当に、大丈夫だから」
罪滅ぼしの気持ちを込めて、肩に押しつけられた頭をなでてやる。指の間をすべる柔らかな毛の感触に、エリックのことを思い出した。やっぱり似てるな。叔父と甥なだけある。
「お取り込み中のところ悪いんだけどさあ」
ほんわかした思いを、無遠慮な声がぶった切った。
「ぼくのこと忘れてなあい?」
ギルベルトの頭越しに、きらめく金の髪が見える。
「悪い悪い」
なんだか今日は謝ってばかりだなと思いつつ、俺はギルベルトの体を押し戻した。
「忘れるわけないじゃないか」
なあ、もう一人の魔王様? おまえに会いたくて、わざわざ戻ってきてやったんだから。
「ハロルド」
腰を浮かせた際に拾い上げた短剣を、俺は手の中でくるくると回した。
「おまえ、本当の名は何ていうんだ?」
ハロルドは虚を突かれたように目を見開いた。
へえ、こいつもこんな顔するんだな。
「……なんでそんなこと訊くの?」
「べつに」
俺は肩をすくめた。
実際、大した理由などなかった。ただ、ふと心に浮かんだ疑問を口にしただけだ。鍛冶師の息子の皮をかぶったこの男、こいつの本当の名は何というのだろう、と。
「名前がわからないと不便だなって思っただけだよ。ほら、おまえの墓碑銘彫るときとか?」
「……いいねえ」
さっきまでの珍しい表情を裏側にしまいこみ、ハロルドはにっと口の端をつりあげた。
「きみのそういうところは大好きだよ」
「どうも。意外と気が回るって、よく言われんだよな」
「余計な気が回るって意味だと思うよ!」
ひゅっと風が鳴った。とっさにギルベルトの肩をつかんで引き倒した俺の頬を、すぱんと見えない刃が切り裂いた。
「ノア!」
「かすり傷!」
それよりおまえはちょっと大人しくしててくれ。俺は今から一仕事片付けるから!
一度だけ。そう先代魔王は俺に告げた。先ほどの、夢のような世界の中で。
一度だけ、やつの足を止めてやる。その隙に、やつの胸にあの剣を突き立てろ。そうすれば、私がやつの息の根を止めてやろう。今度こそ、必ず、と。
安心しろ、とエリアスは肩をすくめてみせたものだ。始末するのはやつだけだ。あの人間には傷ひとつつけないさ。罪のない人間を手にかけるのは、きみも寝覚めが悪かろう――?
「エリアス!」
頼む、という気持ちをこめて、俺は叫んだ。治りたての足で助走をつけ、右手に握る短剣を振りかぶって投じる。ハロルドの胸の真ん中を目がけて。あとは頼んだ、魔王様。あんたの力でやつにとどめを――
――カァン!
「……っは」
甲高い音が聞こえた次の瞬間、俺の身体は冷たい床に叩きつけられた。
「ノア!」
「あのさあ、ノア」
ギルベルトの声に、ため息まじりのハロルドの声が重なる。
「あんまりぼくをがっかりさせないでほしいんだよねえ。あんな雑なやり方で、本当にぼくを殺せると思った?」
どうかな、とは返せなかった。開いた口から出てくるのは、ひゅうひゅうという掠れた吐息だけだ。見えない巨岩に押し潰されているように、背中に、手足に、すさまじい圧がかかる。
おいおい、話が違うじゃないかよ、魔王様。あんたを信じて突貫してやったってのに、この仕打ちは何なんだ。
「しっかりしろ、ノア」
駆け寄ってきたギルベルトが俺を助け起こそうとしたが、ハロルドの術に捕まった体はびくとも動かず、逆に骨がきしんで俺は情けない悲鳴をあげた。
「ノア!」
うー……こういうの、前にもあったな。こいつと初めて会ったときだ。行き倒れていた俺を、こいつは引っ張り上げようとしてくれたんだっけ。
いま思えば、あのときは悪いことをした。いくらありがた迷惑だったとはいえ、いきなり怒鳴りつけちまってさ。
「……ギル、ベルト」
食いしばった歯の隙間から、俺は声をしぼりだした。
「おまえは、逃げろ」
「断る」
はいはい、おまえがそう答えるだろうってことはわかっていたよ。でもさ、ここらで聞き分けてくれないかな。さすがにここから先は洒落にならないからさ。
「……ハロルド」
一縷の望みをかけて、今度はハロルドに呼びかける。
「俺のことは好きにしていい。かわりに、こいつは見逃してくれ」
「ノア!」
うるさいよ。おまえに何かあったらエリックが泣くだろうが。アデルだって悲しむし、あの出来た秘書官のオレグさんだって泣くぞ、きっと。
なんなら俺も泣いてやろうか。初めて会った日のように、胸にすがって声をあげて。その程度には、俺もおまえに情が移っているらしいからな。
「いいね、それ」
口笛混じりの声が降ってきた。空虚な陽気さとでも表現したくなるような、ハロルドの声が。
「じゃあ手始めに、そこの皇帝陛下に死んでもらおうか」
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