第42話 お痛いのがお好き
言うんじゃなかった。やるんじゃなかった。
そんな思いを抱えることは誰だってあるだろう。それこそ数えきれないくらい。
かく言う俺とて、これまでの人生後悔だらけだ。まだ人生語れるほど長く生きてないけど。
そんな短くも悔いだらけの人生でも、これは最低最大の失態だろう。
「きみのこと、好きにしていいんでしょう?」
毒がしたたるような声が降ってくる。
くそ、本当に最悪だな。いくら追い詰められていたとはいえ、こんな話の通じない相手に交渉をもちかけるなんて。
「前にも言ったよね。ぼくはさ、きみの傷つく顔がすごおく見たいんだよねえ」
「てめえ……」
首が折れそうな圧に
「それそれ。その泣き顔、たまんないよねえ」
「……泣いてねえよ」
まだ、な。頬を濡らすこれは、ただの血だ。あとは額から流れる脂汗。誰かさんに全身の骨を締め上げられて、さっきから痛いどころの騒ぎじゃないんだよ。
「強がる顔もいいねえ。ぞくぞくするよ。ね、ノア、ここでその人やっちゃったら、次はどんな顔見せてくれる?」
「やれるものならやってみろ」
低い声で応じたのはギルベルトだった。全身から殺気を立ち昇らせ、腰の剣に手をかける。
「その前に貴様の首を落としてやる」
「わあ、強気。口だけは頼もしい騎士様だねえ、ノア」
そこの下種は黙ってろ。いい加減聞き飽きたんだよ、おまえの汚いその声は。
そっちの騎士様も、安い挑発に乗せられてんじゃねえよ。おまえじゃ、というか、一介の人間がそいつに敵うわけないだろう。そんなこともわからないのか……て、わかってるよな。わかってるからって、はいそうですかって回れ右できるわけないよなあ。
それこそ俺もわかっている。わかってるけど、やめてくれ。本当に、頼むから。
頬を流れる雫があごを伝って床に染みをつくる。目の奥が熱い。鼻と喉がつまる。
やっぱり泣いてんのか、俺。クソったれが。のんきに泣いてる場合かよ。
そんなことより、どうやってこの場を切り抜けるかを考えろ。もうたくさんなんだよ。俺の大事なものがめちゃくちゃにされるのは。
ぼやけた視界に、剣をかまえたギルベルトの背中が映る。その肩越しに見えるのは、壁にもたれて腕を組むハロルドの姿。
きらめく金髪とは真逆の、どす黒い笑みをたたえたそいつは、ゆっくりと手を上げ――動きを止めた。
「え……」
こぼれた吐息は俺のものだったのか。それともハロルドの驚きの声だったのか。それを追求する暇は、俺にはなかった。
ハロルドが掲げた左の手首を、がっちりとつかむ別の手が見える。大きく、ごつごつしたその手の持ち主は――
「……トール」
今度こそ、俺ははっきりと声をあげた。壁画の中で地に伏す巨人。いかつい見た目のわりに鈍くさい、馬鹿みたいに忠実で心優しい、俺の護衛役。
そのたくましい右腕が、平板な壁を突き破ってハロルドの左手を捕らえている。
「……っの」
舌打ちをしてトールの手をふりほどこうとしたハロルドの頭を、別の手がつかんで壁に押しつけた。
「ゲイル!」
陰になって顔は見えないが、間違いない。小指が欠けたあの手はゲイルのものだ。四本指の狂戦士と聞けば、どんな凶暴な魔族だって青ざめる、最高に頼もしい軍団長。
その周りで力を貸すように手を差しのべる、軍団のみんな。いつか一緒に焚火を囲んだ、俺の大切な仲間たち。
おいおい、そこでハロルドの足をつかんでるのはフィル坊か? おまえはあんまり無理すんな。まだちっこいんだから、怪我さえしなけりゃそれで上出来だぞ。
「なんだよ、これ!」
ハロルドが叫ぶ。やつの取り乱した声は初めて聞くな。なかなか気分がいい……とはいかないもんだ。やっぱりどこまでいっても耳障りだぜ、おまえの声は。
一度だけ、機会をつくろう。
エリアスの声が頭によみがえる。そういうことか、先代様。
もがくハロルドの背後に広がる絵を眺めわたした俺は、うっと息を呑んだ。
隅のほうで頭を抱えている背の高い一人が、上げた両腕の下からじっと俺を見つめている。心臓まで凍りつきそうな、その冷たい眼差しの持ち主は――
「……バラーシュ」
わかった。わかったから、そんな目をしてくれるな。絵の中では悲鳴をあげているように開かれた口からは、声なき罵声があふれている。
何をぐずぐずしているんです。いつまでそうやって這いつくばっているつもりですか。まあ、あなたにはお似合いのお姿ですが……とか何とか。聞こえないけど、たぶん、絶対そう言ってる。
「ギルベルト」
参謀閣下の氷の視線から目をそらし、俺は皇帝陛下の背中に声をかけた。突然の形勢逆転にひどく戸惑った顔をしているギルベルトに片手を差し出す。
「悪い、手え貸してくれ」
背中にかかる圧は消えていたが、それでも一人で立ち上がれそうになかった。こりゃ骨の二、三本はいってるな。せっかくエリアスが治してくれたのに。
まあいいや。あと少し、ほんの少しだけ動くことができれば。この仕事さえ終えられれば、全身の骨が砕けたってかまわない。
ギルベルトの腕にすがって立ち上がりざま、床に転がっていた銀の短剣をつかむ。笑ってしまうくらい握力が失せた俺の手を、もう一つの手がしっかりと包んでくれた。
「ありがとな」
深い緑の瞳を見上げて、俺は礼を言った。
ありがとう。俺を支えてくれて。ここまでついてきてくれて。最後まで一緒にいてくれて。
壁の向こうで踏ん張ってくれている皆も、ついでに先代魔王様も。ありがとう、本当に。
あと、ごめんな。こんなに無様な王様で。もっと格好良く、一人でちゃちゃっと片付けられたらよかったんだけど。
けどまあ、諦めてくれ。これが俺だ。無様で格好悪くて、全身ぼろぼろで、皆がいなけりゃ何もできない、ただの人間。
「ハロルド」
一歩一歩、足をひきずるようにして、俺は壁に近づいた。いまや四肢をしっかりと拘束されている鍛冶師の息子に。
「よかったなあ、おまえ」
最後まで真の名を明かさなかったその男に、俺は初めて笑いかけた。
「こういうの、好きなんだろ?」
振りかぶった短剣をそいつの胸に突き立てたとき、聞こえた絶叫は俺のものだったのかもしれない。
右手に走った鋭い衝撃が全身を貫き、視界いっぱいに白くはじけた。落雷に打たれたように倒れこむ俺の体を、誰かの腕が抱きとめてくれる。
ああ、これは悪くない。この上ない安堵感に包まれて、俺は意識を手放した。
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