第13話 きらきらの夜の
「ノア、うごいちゃだめー」
絵筆をもったエリックが口をとがらせる。
「おー悪い悪い」
「バルトもだめー」
うーん、それは無理じゃないかな。
案の定、名前を呼ばれて興奮したのか、バルトは尻尾をふってエリックに飛びつこうとする。
こら馬鹿犬、おとなしくしてろ。画伯のご命令だぞ。
勉強が終わったら遊ぶ、という約束どおり、俺は午後のひとときをエリックと過ごしていた。
とはいえ、俺の足のせいで外遊びは難しく、だったらとエリックが提案してきたのがお絵描きだった。
もともと絵を描くことが好きらしいエリックは、子どもの玩具にしては立派な絵描き道具を持ち出して、俺とバルトの肖像画作製に夢中になっている。
やわらかな午後の陽射しのもと、幼い少年が熱心に絵筆を動かすさまは、それ自体が一枚の絵のような光景だ。
「ねえ、ノア」
「んー?」
「ノアは何色が好き?」
あらためて聞かれると難しいな。
なんでも好き、とか、なんでもいい、という答えではエリックが満足しないことはわかっていたので、とりあえずぱっと頭に浮かんだ色を口にする。
「緑かなあ」
ふうん、と首をかしげてエリックは緑の絵の具に手をのばす。
背景でも塗ってくれるのかと思いきや、エリックは難しい顔で描きかけの絵と俺を見比べた。
「……青も好き?」
緑では画伯の審美眼にかなわなかったらしい。大好きだと答えてやると、エリックは嬉しそうに青い絵の具を筆にとった。
「エリックは青が好きなんだな」
俺がそう声をかけると、エリックは手を動かしながら「うん」とうなずいた。
「でも、ノアの色がいちばん好き。いちばんきれい」
俺の色? なんだろ、それ。銀? それとも紫? どっちにしろ渋いな、エリック。
「できた!」
得意げにエリックが裏返した紙を見て、俺はへえと目を見張った。
「いい絵だなあ」
お世辞抜きで良い絵だった。そりゃあ五歳児が描いたものだから、バルトは犬というより白い団子のかたまりみたいだったし、俺にいたっては錬成に失敗した魔獣を思わせる輪郭だったけど、のびのびとした筆致は見ていて気持ちがいいくらいだ。
なにより色遣いがとてもよかった。ことに背景を彩る紫と青の具合がすばらしい。
まるで夜の静寂を描いたような、深くて神秘的な色の重なりに、俺は目を奪われた。
「すごいじゃないか。上手上手」
頭をわしゃわしゃとなでてやると、エリックはくすぐったそうに首をすくめて「でも」と言った。
「ほんとのノアとはちがうよ?」
「違う?」
ここ、とエリックは絵の背景を指さす。
「きらきらがないの。ノアのまわり、たまにぴかぴかしてるのに」
俺は髪をなでる手をとめてエリックの顔を見た。
午後の陽射しに透ける、若草色の瞳。その瞳に映る俺の顔は、たぶん少し強張っていたと思う。
「……あのさ、エリック。エリックには俺がきらきらに見えるんだ?」
「うん」
うなずいてから、エリックはあっと目を見開いた。
澄んだ瞳をみるみる翳らせたものには見覚えがある。今朝のアデルの顔にも同じ感情が透けていた。その正体はおそらく、怯えだ。
「……ノア」
「大丈夫」
エリックが何か言う前に、俺は笑ってまたエリックの髪をかき回した。
「誰にも言わねえよ。俺とおまえの秘密、な?」
わふっ、と折よくバルトがほえたので、「あとこいつも」と馬鹿犬の頭をたたく。
「三人の秘密だ」
正確には二人と一匹だけど、細かいことはこの際どうでもいい。
「母上にも言わない?」
「言わない」
俺が即答すると、エリックはようやく表情をゆるめてくれた。
「よかった」
ほっとしたようにつぶやくと、エリックはバルトの首にしがみついた。白い大型犬はエリックに抱きつかれたまま大人しく舌を出している。
馬鹿なりに気が利くやつだ。もうちょっとそのままでいてやれよ。エリックが、すっかり落ち着くまで。
紫と青。澄んだ夜の色。
見れば見るほど綺麗な色だ。光栄だな。この上さらに「きらきら」まで足してくれるなんて。
「エリックはすごいな」
心からの尊敬をこめて、俺は言った。
たとえば、常人には見えない光を捉える目。あるいは、木々を揺らす風の歌を感じとる耳。
そんな特性をもって生まれる人間はそう多くない。その稀有な素質をさらに磨くため、彼らはひとところに集められる。
最果ての“塔”へ。かつては俺も暮らしていた、魔術師たちの棲家へ。
間違いない。次期皇帝の座が約束されているこの少年には、魔術師の資質がある。それも俺の見立てが正しければ、かなり大きな才が。
「すごくない」
エリックはすねたようにバルトの首に顔をうずめた。
「母上は怒るもん。いけないことだって。だから、誰にも言っちゃだめなの。だめじゃないのは叔父上だけで……」
「ギルベルトも知ってるのか」
「うん。母上と叔父上だけ。あのね、叔父上もきれいだよ。とってもきらきらなの」
なんだろ。あいつはどっちかと言うと「ぎらぎら」なんじゃないだろうか。なんかこう、すごく鬱陶しくて押しつけがましい、目に刺さるようなやつ。見えないけど、なんかそんな気がする。
「でも、ノアのがいちばん好き。いちばんきれい」
くうっ、なんて叔父に似てない良い子なんだ。おまえの笑顔が一番まぶしいぞ、エリック。
「ありがとな」
エリックの頭をなでながら、さて、と俺は考えた。
とりあえず、真っ先にやるべきことは決まっていた。
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