おまけ2

第48話 皇帝補佐官の憂鬱(1)

「ギルベルト、いる?」


 友人を訪ねるような気安さで――実際ご本人はそのおつもりなのだろう――その青年が現れたとき、執務室にいた部下たちはぎょっとしたように腰を浮かせ、新人の見習い補佐官は手にしていた書類を取り落とした。


「ノア様」


 ため息を呑みこんで、私は足元の紙を拾い上げた。見習い補佐官はいまだ硬直したまま、虚空から現れた青年を凝視している。


 まあ無理はない。私とて、初めてこの方の術を目の当たりにしたときは、心臓が止まる思いをしたものだ。


「お越しになる際は扉からと、以前お願いしたはずですが」

「あーごめん、オレグさん」


 決まり悪そうに頭をかくこの青年は、我らが皇帝陛下の悪友……ではなくご愛人にして、西方の魔族を束ねる王陛下でいらっしゃる。もっとも、いま私の前で身を縮めているこの青年は、そのどちらにも見えないが。


「俺、不器用でさあ、細かい調整がきかないんだよ。皆さんも、驚かせてすみませんでした」


 謙虚に頭を下げられて、部下たちは「いえ、そんな!」と逆に慌てふためく。やれやれ、この方はご自身の立場というものをまるで理解されていないらしい。


「顔をお上げください。ノア様にそのような真似をされては、我らの立つ瀬がありません」

「そう?」


 銀の髪をさらりと揺らして青年は顔を上げる。


「もう怒ってない?」


 失礼ながら、あなた様はおいくつですか。


「はじめから怒ってなどおりませんよ。それより本日はどうされました。あいにく陛下は視察に出ておられますが」

「そうなんだ。じゃあエリックは?」

「エリック殿下も陛下とご一緒に。お戻りは明日のご予定です」

「あちゃあ」


 失敗したな、と魔王陛下は天を仰いだ。


「何か火急のご用事でも?」

「いや、ちょっと時間ができたからエリックの様子を見にきただけ。ついでに、ギルベルトのとこにも寄ってみるかなって」


 ついでの順番が逆だろう……とは、私だけでなく部下一同に共通した思いだったに違いない。


 愛人という立場にありながら、この方の主君への態度は非常につれない……どころか、はっきり言って雑である。例えるなら、加減を知らない飼い主に構い倒されて毛を逆立てている猫のよう――などとは口が裂けても言えないが。


「ま、急ぎってわけでもないし、また今度にするわ。じゃ、皆さん、お騒がせしまし……」

「お待ちください!」


 私が青年の腕をつかむのと同時に、部下の一人が扉をふさぐように立ち位置を変えた。いい動きだ。さすがは次席補佐官。


「せっかくいらしてくださったのです。陛下がお戻りになるまでゆっくりなさっていってください」

「ええ、だってあいつが帰ってくるの明日なんだろ? そんなに邪魔するわけにも……」

「いえいえいえいえ、ちっとも邪魔ではありません」


 断言すると、部下たちも一斉にうなずいた。そう、いま我らの心は一つである。なんとしても、絶対に、この方を帰してはならない。少なくとも、加減を知らない飼い主――もとい、陛下が帰ってくるまでは!


 あれはひと月ほど前のこと。やはり主君の不在時にふらりと現れたこの青年、「ギルベルトいる? あ、いないの。じゃあいいや」とあっさり姿を消し、のちに訪問の件を知った陛下の機嫌を急降下させるとともに、我ら補佐官の胃をきりきりと痛めつけてくれたものである。


「ノア様がいらしたことは、すぐに陛下に遣いを出してお知らせしますので」

「そこまでしてもらわなくても……」

「させてください。お願いします」


 青年の腕をつかんだまま、私は深く頭を下げた。


「オレグ殿の言うとおりです」

「どうかノア様、そのままで!」

「そうだ、大公妃殿下の館でお待ちになっては?」


 あ、馬鹿者。援護はありがたいが、最後のそれは逆効果だ。


「アデルの……」


 案の定、青年の顔がわずかに引きつる。


 皇帝陛下のご愛人と元皇妃陛下という、一般的には何かと軋轢が生じそうな間柄にありながら、お二人の仲はすこぶる良好である。


 良好……なのだが、やはり加減というものをご存知ない大公妃殿下は、この方が訪問するたびに、館の女官たちとともに取り囲み、構い倒していらっしゃる。それが結果としてお気に入りの青年を遠ざけていることに、はたして大公妃殿下は気づいていらっしゃるだろうか。


「や、いいから。本当に、そんな大した用でもないし」


 いかん、このままでは逃げられる。どうしよう。どうしたら……いっそこの方がいらしたことは伏せておくか。しかし、さすがに主君に嘘は……


「……ノア様」


 追い詰められた私に残された手段は、相手の情に訴えることだけだった。


「ここに居ていただくわけにはまいりませんでしょうか……」


 紫闇の瞳が見開かれる。夜明けの空を思わせる瞳をわずかに曇らせ、青年は「もしかして」と誰もが予想しなかった台詞を口にした。


「人手が足りてねえの?」

「……は?」

「猫の手も借りたいってやつ? だったら最初からそう言ってくれよ。俺、なんでもするからさ」


 な、と人懐っこい笑みを浮かべて、魔王陛下は私の顔をのぞきこんだ。


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