第49話 皇帝補佐官の憂鬱(2)
「オレグさん、これ確認終わったぶん」
「ああ、ありがとうございます。ノア様」
綺麗に整えられた書類を受け取りながら、私は今更ながらにこう思った。おかしい、どうしてこうなった、と。
午後も遅い執務室には、いつもどおりの静けさと適度なざわめきが同居している。
部下たちの控えめな話し声。紙をめくる音。ペンの走る音。いつもどおり、仕事に追われる者たちが発するぴりりとした緊張感に満ちた部屋。
「あと、これ。お茶いれたから、オレグさんも少し休憩しなよ。その間に俺こっち片づけておくから」
「……ありがとうございます、ノア様」
いつもどおりの執務室の空気が、今日は少しばかり和らいでいるように思えるのは、私の気のせいではないだろう。
なんでもする、という言葉どおり、この魔王陛下はくるくると実によく働いてくれていた。
さすがに他の補佐官と同じ仕事は任せられないが、簡単な書類の整理と数字の確認、執務室の掃除からお茶くみまで、ありとあらゆる雑用を嫌な顔ひとつせずにこなしていくさまは、見ていて気持ちが良いほどだ。
たかが雑用、されど雑用。読み書き算盤がひととおりできるのは当たり前として、飲み込みが早く勘も良く、細かいところまで気が回る……素晴らしすぎる。この逸材を手放してなるものか。じっくり仕込んで、いずれは一人前の補佐官に……いやいや、私ときたら何を馬鹿なことを。
頭をふってカップに口をつけた私は、思わずほうと声をあげた。
「これは美味しいですね」
「よかった」
お茶くみ青年……ではなく魔王陛下はくすぐったそうに笑った。
「気に入ってもらえて。皆の好みがわからなかったから、ちょっと心配だったんだけど」
……不意打ちの笑顔は心臓に悪いのでお控えください。私の部下を根こそぎたらしこむおつもりですか。そこの新人も、「なにあれ可愛い」と胸を押さえている暇があるなら仕事しろ。
「あのさあ、オレグさん」
重ねた書類の角をそろえながら、魔王陛下は遠慮がちに声をかけてきた。
「あいつ……ギルベルトって、いっつもこんなに忙しいの?」
さて、とカップを持ったまま私は首をかしげた。はぐらかしているわけではなく、真剣にわからなかったのだ。どの程度を「忙しい」と評するのか、私の感覚はすでに一般のそれと乖離して久しいので。
答えあぐねている私の前で、魔王陛下は「いやさあ」と銀の髪をかき回した。
「あいつ、最近いないこと多いじゃん? 俺が来ても空振りばっかだし……なんか、そんなに大変なのかなー……って」
……ほほう、これはこれは。よろしゅうございましたな、陛下。なんだかんだつれない素振りを見せつつも、この魔王陛下はそれなりにあなた様のことを気にかけていらっしゃるようですよ。
「ノア様が心配なさるほどではございませんよ」
たぶん、と心の中だけで付け加える。
「ご視察が多いのは、ひとえに陛下のご希望によるものです。なにぶん、じっとしているのが苦手なお方ですから」
「はは、それわかる。俺も書類仕事より体動かすほうが性に合っててさ」
「そのわりに、本日は大変なご活躍で。できることならずっとお手伝いをお願いしたいくらいですよ」
「ほんと?」
心の底から嬉しそうに、そして少し照れくさそうに、魔王陛下は首をすくめた。
「オレグさんにそう言ってもらえると、すげえ嬉しい」
なにこれ可愛い――ではなくて! 落ち着け、私。筆頭補佐官の名にかけて、私だけは陥落してなるものか。ああ、そこの新人、鼻血は外でふいてこい。書類が汚れる。
普段より若干ふわふわとした、しかし決して不快ではない空気につつまれながら、その後の業務も滞りなく進み、あっという間に終業時刻となった。
いつもならこの後も居残って仕事をするのだが、今日ばかりはそんな気にもなれなかった。主君の不在ということを抜きにしても、今日は身も心も軽い気がする。それが誰のおかげかは、皆もわかっていたことだろう。
「オレグさん、オレグさん」
肩をつつかれて振り向けば、本日限定の雑用係がにこりと笑いかけてきた。
「これから皆で飲みに行こうって話してたんだけど、オレグさんも来るよな?」
「……はい?」
さて、珍しいこともあるものだ。この私が、日に二度も言葉につまるなど。
「あ、もしかして用事とかあった?」
「いえ、特にありませんが」
用事も、なんなら帰りを待つ家族もいないが、若者の飲み会に上司が同席しては何かと都合が悪かろう。古今東西、職場の飲み会での一番の肴は上司の悪口と相場が決まっているのだから。
戸惑う私の前で、魔王陛下は「じゃあいいじゃん」と笑った。
「俺、オレグさんとはいっぺん飲んでみたかったんだ」
あの、大変恐縮ですが、なぜに私はそこまであなた様に懐かれているのでしょうか?
などという疑問に答えてくれる者は誰もおらず、私は畏れ多くも皇帝陛下のご愛人に腕を引かれ肩を抱かれ、あれよあれよという間に城下の酒場に連れ出されたのだった。
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