第50話 皇帝補佐官の憂鬱(3)

「それでさあっ! バラーシュってば……ねえ、聞いてる!? オレグさん!」

「はいはい、聞いておりますよ」


 杯に形ばかり口をつけながら、私は隣の酔っぱらいに調子を合わせた。


「せっかくノア様が苦心してお書きになった文書が、添削されて返ってきたのですよね」

「そう! あれ見たとき俺、バラーシュ血い吐いた!? って思っちゃったんだからね!? そんくらい真っ赤だったの!」

「真っ先に部下の体調を案じられるとは、さすがノア様」

「いやあ、そんな……じゃないっ! あーもう、今日あれ持ってくればよかった。みんなに見せてあげたい、ほんと」


 いえ、べつに見たいとは思いませんが。


 城下のとある酒場の隅で、我ら補佐官はささやかな宴の真っ最中だった。


 部下の行きつけだというその店は、たしかに酒も料理もそこそこ旨く、給仕の対応も申し分なかった。私の好みからするといささか騒がしすぎるくらいだが、今日のような集まりにはこのくらいが丁度よいのだろう。


「もうさ、そんなに気に食わないなら、最初から自分で書けばいいじゃん!? それをいちいち俺にやらせて、あとでネチネチネチネチと……!」


 特に仲間うちに騒がしいのが混ざっているときは。


 やかましい店で本当によかった。落ち着いた雰囲気を売りにしている店だったら、我々はまず間違いなく放り出されていただろう。


 酒はお好きだが、どうやらさほど強くはないらしいこの魔王陛下、勧められるままに杯を重ね、気がつけば絵に描いたような酔っ払いぶりを披露なさってくれていた。さきほどから私の肩をばしばし叩きながら、尽きることのない参謀殿への愚痴を垂れ流していらっしゃる。


「参謀殿はノア様に期待されているのですよ。だからこそ、あえて厳しく接しておられるのでしょう」

「違うね」


 一瞬だけ素面にもどったように、魔王陛下は据わった目でつぶやいた。


「やつは、楽しんでる」


 そんな快楽殺人者をなじるように仰らずとも。


「バラーシュ、俺にだけ態度ちがうもん。他のやつにはけっこう当たりいいのにさ……あいつ、俺のこと嫌いなんだ……絶対そうだ……」

「ノア様」


 私は好きです! と叫ぶ新人を黙らせるよう次席補佐官に目配せしながら、私は魔王陛下に水の杯を押しやった。


「冗談でもいけませんよ、それは」

「……なんだ、それ」


 不貞腐れたように、しかし素直に水を飲む魔王陛下に、私はかるく酒杯をかかげてみせた。


「おわかりでしょう?」


 くだんの参謀どのが、どれだけあなたを気にかけておられるか。参謀どのだけでなく、あなたがどれだけ好かれていらっしゃるか。


 それはもう、誰もが放っておけず手やら口やら出してしまうほどに。私の主君のように。そこで次席補佐官に首を絞められている見習い補佐官のように。


「……わかってるけどさあ」


 頭をかかえる青年は、あまたの魔族を従える王にも、皇帝陛下の寵を受ける愛人にも見えなかった。


 そこにいるのはありふれた、年相応の青年だった。口うるさい上司(正確には部下)への不平不満をこぼしつつ、同時に自身の未熟さに苛立っている、どこにでもいる一人の若者。


「でもさ……もうちょっと……たまには、ほめてくれてもいいじゃん? 俺だって頑張ってんのに……」

「わかっておりますよ」


 くしゃりと顔をゆがめる青年の頭に、私はつい手を伸ばしてしまう。


「ノア様は大変よく頑張っておられます」


 分をわきまえない行為だということは重々承知しているが、この場合は仕方ない。息子のような歳の青年が酔っ払って落ち込んで、泣きそうな顔までさらしているのだ。頭をなでて差し上げるくらいは、年長者の責務というものだろう。


「それから、大変優秀でいらっしゃいます」

「……ほんと?」


 うるんだ紫の瞳に向かって、私は大きくうなずいて見せた。久しく使っていなかった表情筋を最大限持ち上げて、どうにか笑顔を形づくる。


「こと仕事に関して嘘は申しません。どうぞ自信をお持ちください」

「オレグさんっ……!」


 魔王陛下は感極まったように両手で私の手をつつんだ。


「大好き!」

「ありがとうございます。私もノア様が……」


 ぞくりと、身に悪寒が走ったのはその時だった。


 ついぞ感じたことのない、剣呑きわまりない気配。これは、もしや――


「あれ」


 私の手を握ったまま、魔王陛下は素っ頓狂な声をあげた。同時に、卓を囲んでいた部下たちが一斉に立ち上がる。


「なんでいんの? ギルベルト」

「――いてはまずかったか?」


 ……ええ、大変。たいっっっへん! まずうございます、両陛下!


「いや、おまえ帰りは明日だって聞いてたから」

「おまえが来ていると報せをうけて、予定を切り上げてきたんだが」


 ぎくしゃくと振り向いた私の視線の先で、地味な外套をまとった赤毛の主君が物騒きわまりない笑みをたたえていた。


「まさか留守中に間男をつくられているとはな」

「間男って」


 すっかりできあがっている魔王陛下は、卓をたたいて笑いころげた。


「おまえもそんな面白いこと言うんだな。あー笑いすぎて腹痛え」


 ははははは、本当に面白うございますねー……面白すぎて私の胃もきりきりと痛んでまいりましたよ。おや、視界もかすんでまいりました。目にしみるこれは汗でしょうか。それとも涙でしょうか?


「おまえが帰ってきたってことは、エリックも?」

「いや、エリックは明日もどる」

「ええ、置いてきたの? ひどい叔父さんだな」

「子どもに夜の強行軍をさせるほうがひどいだろう」

「だから、おまえも明日一緒に帰ってくればよかったのに。あ、じゃあ俺が迎えにいってやろっか。今からひとっ飛びして明日一緒に……」


 立ち上がった魔王陛下の腕を、皇帝陛下がすかさずつかむ。数刻前の我らと同じ、逃がすまじという気迫がひしひしと伝わってくる。


「それはやめてくれ。おまえには大事な話がある」

「話? 今から?」

「そうだ」


 うなずいて歩き出した我らが主君に、魔王陛下は「ちょっと待った!」と焦ったように声をかける。


「俺、ここの支払いがまだ……」


 そんなことはどうでもよろしいのですよ!! という我らの心の叫びに、だん! と重い音が重なった。


 魔王陛下の腕をとらえたまま、懐から取り出した財布を卓に置いた――というより、ほとんど叩きつけた皇帝陛下は、薄い笑みを顔にはりつけて我らを見わたした。


「足りるな?」


 こくこくと首を上下にふる我々に、さらに追い打ちをかけるような笑みが迫る。


「明日は休みをとる。なに、明日はどうせ半日つぶれる予定だったのだ。半日が一日になったとて、特に問題なかろう」


 あります。大ありです。それは大変困ります……


?」


 ……が、何とかします! しますから、これ以上我々の胃を痛めつけないでください。そこの新人が今にも吐きそうな顔をしているのがご覧になれないのですか!?


「そうか。では、おまえたちは引き続き楽しんでくれ」

「あーオレグさん、皆さんもごめん! でも今日すっげえ楽しかった! また一緒に……って、引っ張んじゃねえよ、ギルベルト! なんかおまえ感じ悪いぞ……」


 騒々しく退場したお二方を見送ったあとも、我々はしばらく卓のまわりに立ちつくしていた。周囲の客の怪訝そうな視線を浴びることしばしの後、


「……とりあえず、飲みますか」


 すべてを諦めたような顔つきで提案してきた次席補佐官に、私はうなずきを返した。


「飲もう」


 幸い、軍資金には事欠かない。飲んで騒いで、そして祈ろう。本日限定の雑用係と我らの、身の無事を。


 ……皇都のとある酒場。皇城勤めの官吏たちもしばしば訪れるその店が、近年まれに見る売り上げを叩き出したのはその晩のことだった。さらにその翌朝、皇帝補佐官がひどい二日酔いにより一人残らず欠勤したという事態は、皇帝ギルベルトの御代においてただ一度限りの椿事として永く語り継がれている……。


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魔王陛下は愛人契約を拒否したい 小林礼 @cobuta

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