第20話 そこに傷は見えなくとも

「すまない」


 静かな一室に運びこまれた俺は、ギルベルトに頭を下げた。


「俺のせいだ。俺のせいでエリックが……」

「ちょっと待て、ノア」


 困惑顔のギルベルトが俺の謝罪をさえぎった。


 静かな一室の長椅子で、俺はギルベルトと並んで腰かけている。二人とも上着は脱いでシャツ一枚という格好だ。とにかく血で汚れた服を洗濯へまわしてくれ、と俺が頼みこんだ結果である。


 最初、ギルベルトは「そんなことは気にするな」と相手にしてくれなかったのだが「染み抜きは時間との勝負なんだよ!」と叫んだらようやく応じてくれた。


 ちなみに、部屋に連れこまれて開口一番「服を脱げ」と俺が言ったとき、ギルベルトが挙動不審になった理由については、深く考えないようにしている。

 まあでも、いつかのバラーシュも俺と同じ気持ちだったんだろう。相手のアホ面がゴミに見えるっていう……再会したらとりあえず土下座しておこう。


「なぜきみが謝るんだ。そもそも何が起こったのか、私には理解できていないのだが」


 ああそうか。こいつは俺やエリックと違って、ごく一般的な感覚の持ち主だしな。

 話を端折はしょって悪かったよ。だいぶ落ち着いたつもりでも、まだ動揺から抜け出しきれていないらしい。


「前に言ってたよな。エリックが魔術師を見てひきつけを起こしたことがあるって。あれと同じだよ」


 正確に言えば、それより格段にひどい状況だが。


「あいつ……ハロルドに拒否反応を起こしたんだ。嫌なものに近寄られて、身を守るために力を放出したんだよ。考えてやったことじゃない。木の上から蛇が落ちてきて、とっさに振り払うような感じと言ったらわかるか?」

「まあ、それなら」


 わかる、とギルベルトはうなずいたが、当惑顔はそのままだった。


「だが、あの男の何がそこまでエリックの気にさわったのだ? まさか、あの者も魔術師なのか?」

「わからない」


 それが一番問題なのだ。あの男は何者だ? 俺も何よりそれが知りたい。


「だけど、たぶん“塔”とは関係ないだろうな」


 ハロルドからは“塔”の住人に共通する、ひそやかな影のようなものが感じられなかった。

 やつがまとっているのはもっと暗く、もっと深い、底なし沼のようなどろりとした闇だ。


「とにかく、エリックの力が暴走したのは俺のせいだ。本当にすまない」

「いや、きみはエリックを止めてくれたんだろう? きみが謝ることはないじゃないか」

「俺のせいなんだよ」


 馬鹿で間抜けな師匠のせいだ。いや、そもそも偉そうに師を名乗る資格もなかったんだよな。


「俺が、最近ずっとエリックの力を開くようにしてたから。だからエリックもあんな反応しちまったんだ。俺が余計なことをしなければ、こんなことにはならなかった」


 まったく、なにが暴走しないように導いてやるだよ。むしろ俺が暴走のきっかけを作ったようなものじゃないか。

 もっと慎重に、段階を踏んでエリックに力の扱い方を教えるべきだった。なのに、考えなしに川の堤を切るような真似をして。


「ノア」


 静かな声に顔を上げると、深い緑の瞳と目が合った。


「ひとつ教えてくれ。きみにとって、あの男は憎むべき敵だろう? そんな相手をなぜ庇った」

「あいつを庇ったわけじゃない」


 頭の奥がうずく。深いところに押しこめたはずの記憶が浮上する。


「エリックに、誰かを傷つけさせるわけにはいかないだろ。いくら無意識だったからって……いや、無意識だからこそ、かな。そういうのはさ、傷になるんだよ」


 他の誰かのではなく、エリック自身の。取り返しのつかないことをしてしまったという、見えない傷だ。


 血は止まっても、乾いても、ひとたび刻み込まれたそれが消えることはない。

 どんなに忘れようとしたところで、ふとした折に浮かび上がっては、その存在を主張するのだ。


「エリックには、そんな傷ないほうがいいだろ」


 自嘲気味に笑って、俺は目を伏せた。故郷の森の色から逃げるように。


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