第27話 馬鹿者と大馬鹿者
意識がもどると、あたりは仄暗かった。時刻は夜明けの一歩手前といったところか。
ぼんやりと視線をめぐらせれば、向かいの長椅子に横たわる人影が見えた。ギルベルトだ。
こいつ、まだ居たんだな。俺が遠見の術を始めたらさっさと帰れって、いつも言っているのに。そんなところで寝たら体痛めるぞ。
かくいう俺も、体がだいぶ強張っている。伸びをしようとしたところで、俺は手の中の重みに気づいた。
椅子の上に投げ出された俺の手が、抜き身の短剣の柄を握っている。ハロルドが打ち直したという、魔王エリアスのかつての愛剣を。
あの野郎、ずいぶん器用な真似してくれやがって。意識だけの相手に実物の短剣を握らせるなんて、いったいどうやったらできるんだか。
ひやりとした刃に指をすべらせると、皮が裂けて血がにじんだ。指を口にふくめば鉄錆の味が広がる。
本物の血、本物の痛み。間違いようのない、現実の味だ。
これで皇帝を殺せと、やつは言った。いや、命令した。さもなければ――
短剣を握った拳に額を押し当て、俺は目を閉じた。
わかっている。俺が本当にギルベルトを手にかけたとしても、俺の仲間は戻ってこない。あの下種野郎は、すぐに別の要求を持ち出してくるだろう。俺の大事なものを盾にして、次はこうしろ、その次はああしろと。やつが飽きるまで、それはきりなく繰り返される。
わかっている。わかっていても、俺はそれを拒めない。
のろのろと頭をもたげると、眠るギルベルトが視界に映った。薄闇にも鮮やかな赤毛が、顔の半分を隠している。
いいじゃないか。頭の中で、もう一人の俺がけしかける。
何をためらうことがある。ひと思いにやっちまえ。もともとそのつもりだったじゃないか、と。
左足をかばいながら、俺はギルベルトが眠る長椅子に移動した。肘掛けに腰を下ろして短剣を構える。
この男がいなくなれば、エリックは泣くだろう。アデルも悲しむだろう。俺だって少しは、ほんの少しは心が痛まないこともない。
でも、俺は皆を助けないと。皆を守らないといけないんだ。だって、それが王様ってものだろう?
それとも、偽者の王様なんてもう要らないだろうか。もう誰も、俺を必要としてくれないだろうか。
わからない。何が正解なのかわからない。バラーシュ、教えてくれよ。いつもみたいに呆れ顔でいいからさ。本当に、俺はどうしたら――
「どうした」
低い声で我に返った。耳に馴染んだ、落ち着いた声音だ。
「やらないのか」
赤い髪の間から、深緑の瞳が俺を見上げていた。
「……ギルベルト」
ああまったく、嫌になるな。こいつときたら、いつもこうだ。涼しい顔で、何もかもお見通しって目をしやがって。
ギルベルトは身を起こし、長椅子の隣を空けた。ここに座れと促すように。
「とにかく、少し落ち着け」
うるさい。これが落ち着いていられるか。俺の仲間の命がかかっているんだぞ。だから俺は、
「ノア」
ギルベルトが俺の腕に手を伸ばす。反射的に身をよじったところで、がくんと体勢が崩れた。
「わっ……」
まずい、と思った次の瞬間、俺はギルベルトに抱き止められていた。短剣が床に転がる鈍い音が耳に届く。
「……この」
ほっとした気持ちをそのまま怒りに変えて、俺はギルベルトを怒鳴りつけた。
「馬鹿野郎が! 危ないだろうが!」
間近で深緑の瞳が見開かれる。のんきに驚いてんじゃねえよ。刃物もった相手に不用意に手を伸ばすな。俺が倒れた拍子に刺さりでもしたらどうする……て、おいこら、
「なに笑ってんだよ」
「いや」
長椅子に倒れこんだ俺を抱きかかえたまま、にやけ面の皇帝は首をかしげた。
「おまえは私を殺そうとしてたんじゃないのか?」
「…………あ」
あー……うん、そうだった。なんてことだ。馬鹿は俺のほうじゃないか。馬鹿も大馬鹿、救いようのない間抜け野郎だ。
「……離せ」
「だめだ」
身を起こそうとしたところを、逆に引き寄せられた。背中に回された腕に力がこもる。
「危ないからな」
吐息がかかるほどの近さで、低い声がささやいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます