第46話 本当に欲しいもの(2)
「よせって、汚れるから」
凄惨な現場に突如あらわれた青年は、足元にうずくまる魔族の男の腕をとって立たせた。ギルベルトの位置からは後ろ姿しか見えなかったが、体格や声の調子から、自分とそう年は変わらないだろうと思われた。
「陛下こそ、このような場にお越しになるものではありません。おみ足が汚れますぞ」
「いや、それおまえのせいだからね? おまえが凄い勢いで飛び出していったから、俺が追いかけるしかなかったんだって。てか、遅かったかあ。みんな
やれやれと言いたげな様子で青年は頭をかいた。
「いろいろ訊きたいことがあるから、一人は残しとけってバラーシュに言われてんだけど」
「ご安心くだされ。命までは奪っておりません。ほれ、このとおり」
角を生やした魔族は、すぐ側に倒れていた巨漢のわき腹を蹴った。ぐぅ、とくぐもった悲鳴をあげて、巨躯の男が身をよじる。
「え、
「いえ、こやつも魔族の端くれです。我らの中にはこのような人間とあまり変わらぬ姿の者もおりまして。その容姿を活かし、こうして人間にまぎれて悪事をはたらくのです」
「なるほどねえ。確かにこのくらいだったら、あんまり警戒されずに潜り込めそうだな」
「まったく、魔族の面汚しどもでございます」
うなずき合う主従の足元で、くぐもった笑い声がした。
「……面汚しはどっちだ、ああ?」
巨漢の魔族がのろのろと首をもたげた。
「人間なんぞに尻尾ふりやがって、なあにが魔王……っ!」
言い終える前に、角の魔族の蹴りが脇腹に入った。
「この無礼者が! エリアス様に向かって何ということを」
「いいって、ゲイル」
木の陰でギルベルトは口を押さえた。そうでもしないと口から心臓が飛び出してしまいそうだった。
魔王エリアス。伝説の魔族の王。それが近年復活したらしいとの噂はギルベルトも聞いていた。真偽のほどはわかりませんが、と眉根を寄せて報告する補佐官に、至急の調査を命じたのはつい最近だ。
その当の本人が、いま目の前にいる。しかも、いまの会話から察するに、魔王エリアスは人間だという。そんなことが本当にあり得るのだろうか。あの残忍極まりない魔族が人間に、しかもこのように年若い青年に膝をつくなど。
「言いたいやつには言わせとけ。他の皆だって、多かれ少なかれそう思ってるだろ」
「そのようなことは……」
「へへ……よくわかってるじゃないか……」
巨漢の魔族が片手を上げて青年を指差した。血まみれの口から、嘲笑とともに呪詛のような言葉が吐き出される。
「貴様なんぞ……王のものか……この、薄汚い人間が……その面で何人くわえこみやがっ……」
グシャッっと熟れた果実が潰れたような音がした。
「ゲーイールー……」
続いて、ため息混じりの青年の声が。
「殺すなって言っただろ」
「はっ! これは」
巨漢の頭部を踏み潰した角の魔族は、恐縮したように直立不動の姿勢をとる。
「申し訳ございません。しかし、こやつがあまりにも下劣なことを口走るもので」
「謝るならバラーシュにな。俺しーらないっと」
「そんな、陛下!」
あり得ない。口を押さえながら、先ほどからギルベルトの頭の中では同じ言葉がぐるぐると駆けめぐっていた。
あり得ない。こんなことはあり得ない。この青年が王だと? 凶悪な魔族を従えているだと? いったい何の冗談だ。あの青年は何者だ。いや、そもそも魔族とは何なのだ。ひたすら野蛮な、対話など叶わない獣のような存在ではなかったのか。
「エリアス様ー!」
混乱しきりのギルベルトの耳に、たったと小気味良い足音が届いた。
「よかった、やっと追いつきました!」
「フィル!?」
駆けてきた勢いそのままに、小柄な少年がエリアスと呼ばれた青年に抱きついた。
「なんでおまえが来てんだよ」
「エリアス様の行かれるところなら、ぼくどこでもついて行きます!」
はずんだ声で応じた少年の頭に、青年は拳を落とす。
「馬っ鹿野郎! 子どもがこんなとこ来るんじゃねえよ。危ないだろうが」
「えーでも」
「でもじゃない! 子どもはさっさと帰る!」
「でもぼくエリアス様より年上ですよ。百歳くらい」
「えっ、うそ……」
愕然とした声をあげた青年と同じくらいギルベルトも驚き、そこで気づいた。青年の背後で身を起こす人影に。
奇妙に頭が細長いその男は、おそらく人間に似た魔族だろう。振り上げた手の爪が異様に長い。その指の間に、ぎらりと光るもの、あれは、
「エリアス様!」
危ない、と声を発する前に、少年が動いた。主人を突き飛ばすように背後に回り込み、両手を広げる。その小さな胸に向かって短剣が投じられかけた、刹那――
ヒュッ、と風が鳴った。
口笛を吹くような、高く尾を引く音とともに、男の首が跳ね飛んだ。
見えない刃で断ち切られた首は高く宙を舞い、ごとりと地面に落ちた。首を失った胴体は、鮮血をまきちらしながら左右に揺れ、やがて自らのつくった血だまりにどうと倒れた。その手に短剣を握りしめたまま。
「――
背筋が震えた。雷に撃たれたように全身が痺れた。
呼吸すら忘れて、ギルベルトは声の主を見つめた。片手で少年の肩を抱き、首を失った骸を見下ろす魔族の王を。
そこにいたのは、まぎれもなく「王」だった。風になびく銀の髪。白く怜悧に整った容貌。夕闇に炯と光る、紫闇の瞳。
「……殺すなという仰せでは」
「はうあっ」
我に返ったように魔王は素っ頓狂な声を上げた。先ほどまでの侵しがたい空気はどこへやら、子どもじみた顔つきで訴える。
「だって、こいつがふざけた真似するからさあ」
「弁明は参謀殿になさったほうがよろしいかと」
「冷たい! ゲイル冷たい! なあ、一緒にバラーシュに謝ってくれる?」
「エリアス様! ぼくが一緒に謝ります。ぼくが悪いって言いますから!」
「気持ちだけもらっとく……さすがに子どもを盾にはできねえわ」
腕の中の少年の頭をなでて、魔王は「帰るか」と宣言した。
「こちらの後始末はどうなさるので?」
「このままでいいだろ。じき街の警備隊が来るし。そいつらの死体だけ持って帰るから、集めてくれるか」
「承知しました」
ねじれ角の魔族は同胞の死体をかき集め、魔王の足元に積み上げた。
「フィルはゲイルと帰るんだぞ」
「ええーぼくもエリアス様と『飛び』たいです」
「やめとけ。すげえ酔うから」
しっしと少年を追い払うと、魔王は死体の山に片手を置き、地面を蹴った。途端にくるくると風が渦巻き、次の瞬間、死体もろとも魔王の姿がかき消えた。
「いつ見てもすごいですよねえ、エリアス様の術」
「まったくだ。あれで制御ができていないなどとは、ご謙遜もいいところだな」
「でも、あの死体と一緒に帰ったら、絶対バラーシュ様に怒られますよね。そこんとこわかってるのかなあ」
「……少々迂闊なところも、あのお方の良いところだ」
「ぼくらも早く帰りましょうよ。一緒に言い訳してあげなくちゃ」
そうだな、とうなずいて、ねじれ角の魔族は少年を肩に担ぎ上げた。最後にちらとこちらに鋭い視線をくれたが、結局何も言わずに疾風のごとく駆け去っていった。
一人になったギルベルトは木陰から這いだし、深く息を吐いた。
身体の震えは、まだ続いている。恐怖のためではなく、別の感情に揺さぶられて。
あれが欲しい。ようやく見つけた。本当に、心の底から手に入れたいと思えるもの。
あれが欲しい。あの強く、美しく、圧倒的なまでの力にあふれたものが欲しい。凍てついた空のような、あの冴えた瞳が欲しい。
欲したからには手に入れる。何年かかろうと。どんな手を使おうと、必ず。
ふつふつと沸き立つような熱をかかえて、ギルベルトは立ち上がった。夕闇の向こうから近づいてくる、警備隊の馬蹄の響きを聞きながら。
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