饗宴 Ⅱ
無人の砂漠へ帰っていくように、喧騒が再び遠ざかる。
路地を抜けると、煙草屋を始め、怪しく彩る香水の店や砂色のシートに不気味な造形の骨董を広げた店などが並んでいた。
いわゆる興味のある者だけが覗けばいい、物好きのために設けられた静かな商店街。俺としても物珍しさ故の興味はあり、往来の賑わいではなくこの場に溜まる陰気な空気の方が落ち着くものだが、優先すべきは葉巻を樽に積めて販売する老婆の店だ。
門番のデルタは顔も広く、自らが愛煙家でないというのに煙草屋の老婆とも気さくに話せる仲のよう。
煙草屋の店主を務める恰幅の良い老婆は、デルタという名前だった。
余所者はやはり珍しいようで、ローブや裸ではなく忌避されがちな黒衣を纏う俺相手でも目蓋を開き握手を求めてくるほどだった。神官長の言っていた兄妹とやらがどう思われているかなど知らないが、俺かそいつらのいずれかが例外なのだろう。
波風立つような言動さえ控えれば出立まで上手く躱していけそうだ。背中に刺さるカラスたちの睨みも我慢し続けられれば。
煙草屋の老婆が葉巻を五本もタダでくれた。何故五本なのかと問うと、掌を太陽に、五本の指が陽の光のようで縁起が良いからだと答えた。門番のデルタが感心していたので無粋な反応は堪えた。
あとでいただく四本を羽織の内ポケットに仕舞い、一本目の吸い口を歯で噛み千切ってから樽の横にある蝋燭で火を点ける。
発狂寸前だったのかもしれない。デルタも、デルタも迅速かつ正確な喫煙テクニックに唖然としていたが、こっちはかなり慌てていた。
一口目は勿体ないほどあっさり過ごしてしまった。紙煙草と違ってむせる率が高いため慎重に吸ったから……ではなく、久々の喫煙だったため、染み付いた動きであってもつい臆したのだ。
煙草屋に背を向け、カラスたちを見下すのと同時に星空を見上げて、二口目をゆっくり、深く体の奥底へ伝える。
慣れない町の渦の中、いくつもの民家や店を挟んだ先から聞こえるおめでたい祭りの喧騒と演奏。砂煙や火煙の香りが充満する別世界とはいえ、葉巻が与えてくれる母性にも等しい慈しみの熱が荒んだ心を軽くしてくれる。柄にもなく両手を広げ、天を仰ぐほどの安らぎに満たされた。
口から肺へ、ではない。主流煙は骨を伝い、目で追えない微細さで全身を振動される。
この快感を他で味わうことなど不可能。酒の魅力とはベクトルが違い、麻薬は非現実的への誘いのため惹かれない。
これほどの解放感を得るのは久しい。元居た大陸では人の形をした不吉な連中やちっこい幽霊に災いを振り掛けられてきたが、今だけは特別だ。
この国には神がいる。砂嵐の過ぎた砂漠で意識を失くして倒れた(意欲を失くして眠った)俺をオアシスへ導いたシシーラこそ真の女神に違いない。
そんな彼女より煙草屋の老婆を選んでもなお、感謝の念だけは本当だった。
よって、当面の方針は、人々の熱気や松明の火により温くなった夜風の如く適当ながらも確かに決した。
「気に入ってもらえたようだな。我が国の葉巻は」
「素晴らしい。しばらくここで厄介になるよ。あんたも婆さんも、気に食わない奴がいたら教えてくれ。お礼に斬るから」
葉巻を摘まんだ手を振り店を後にすると、老婆も手を振り返してくれた。
その手は沈む(昇る)太陽のような形となっていた。こんなこと、今まで考えもしなかったことだ。
「腹が減ってるんだろ?実は私もなんだ。屋台を回ろう。お代は全て無料だよ」
「そうか。そりゃあ楽園に違いないな。当然、楽園にも害鳥は湧くようだが」
「カラスたちが気になるのか?あるいは、この国のことが」
「まあね。踊り子たちをよく拝謁できる席で聞かせてもらおう」
「ハハハ、分かったよ。葉巻も咥えたままでいいぞ。ただ、この国の女性には受けが悪い。いくら君が旅の若い男であってもモテにくくなるだろうな」
「夢のない話だ。所詮はアイドルとファンか」
シシーラと違って冗談が通じる上に知りたいことも答えてくれる。俺ですらこの様なのだから、デルタが広く愛されていることには合点がいく。
ただ、シシーラにしてもデルタにしても、あの老婆にしても、何故これほど親切にしてくれるのかが腑に落ちない。本来ならあの真面目な神官長のようにゴミを見る目で警戒する方が正しいだろうに。
一部を除いてこの国の民は顔色が明るい。これまで見た範囲でだが。
どす黒い裏事情か、あるいは大いなる者の手によりこうなるよう仕組まれているのだとしても、それでも俺にとっては今のところ聖人の集団に他ならない。
疑いは晴れず、不信は変わらない。そんな俺だからこそ、嘘偽りのない善なる王国が同じ世界に存在している常識を認められない偏見に頭は混乱する一方。
マイルドな味わいの葉巻も、それを吸っては吐き出すを繰り返すだけのこの『ルーシャス』という男も、知っているようで知らない似て非なるまがい物。
居心地の良さこそが窮屈に思えるようになってしまった。仮にこの国で最期まで生きていく道を選択しても、誰かと深く繋がることなど出来るはずがない。
太陽のような人々に、暑過ぎる土地。
納得できる死に場所を探していた俺には不釣り合いで、いっそ裏切ってもらった方が安心できるほどまでにここは眩しい世界だ。求めていたのは冥界の方だったはずなのに。
賑わいの只中に戻っては出店を雑に巡り、目に留まったものを食していく。本当に全てタダで貰えた。
それもそのはず。そも、この国には数年前より通貨が廃止されていたからだ。
欲しい物は要求の意志を示せば無条件で恵んでもらえるサイクルが確立されている。獲得の手段に金を用いる判断も、無一文を嘆くのも、ここでは古い発想となっている。
珍しいのは裏の老婆で、店の主人は誰も彼もそれをくれと言えば無関心な顔のまま何も催促せずに譲ってくれた。客個人を注視しない、流れ作業の要領で。
肉の塊を焼いて甘辛のタレに浸したもの、魚の刺身に塩をまぶしたもの、緑黄色のカットフルーツ。そして、ワインやビールも今宵に限っては飲み放題ということで夜通し飽きることはなさそうだ。
ガイド役に転じたデルタは嵐の海と昼の砂漠を越えてきた俺以上に空腹で、肉の塊を始め、ボリューム満点な料理を中心に片っ端からありついていった。
それを不快に思う店主や人混みではなく、デルタも遠慮なく骨付き肉を持ち、二本目の葉巻に火を点けた俺と共に広場の真ん中、ステージで踊る豪奢なビキニ姿の美女たちを堪能する。
音楽隊がステージ下に並び、それぞれがギターにフルートにトランペット、太鼓やハーブなどの演奏に没頭している。職務を全うしているような感じは微塵もなく、むしろ自らが生み出す調べや祭りの賑わい、壇上の美女たちの鳴らす足音にさえ酔いしれているような充実の表情ばかりだった。
ステージの踊り子は二十人。皆して目元や唇を化粧で厚くしているが、間違いなく美人で贅肉のない体を堂々と披露する宴の華そのもの。大胆な運動を想定し、胸が零れぬよう揺れないほどまでビキニをキツく縛っていようと、ハーレムパンツを纏っていようと、観客を魅了するには十分過ぎた。
男連中は分かるが、女子供であれベールを閃かせて舞う彼女たちに釘付けとなり、誰もが口を開けたまま歩を止めていた。
「見事なものだろう?」
「ああ、正しい事をしてきた意味があったように思える」
「旅の人からすればより強烈に感じるだろうなぁ。私は生まれも育ちもこのサンズアラだから見慣れているけど」
「そうか。死後は地獄だろうな」
悪気なく贅沢を自慢するデルタもまとめて葉巻の味に含めて吐き出す。
その時、センターを独占する踊り子と目が合った。
一瞬だけだ。……いや、何度もこっちを見ている。踊りながら、身を翻し、時には両隣の踊り子と連携しながら、それでも俺と視線を交わし続けている。
長い後ろ髪を見せつけては眩しい瞳で俺を射抜いている。時に柔らかく、時に逞しく、時に切なく感じる眼差しに飽きは来ず、俺からは目を逸らせなかった。
シシーラと反対で、右側の眼の周りに逆R字が塗られている、やはり歳の近い女だった。
つまりはとてつもない技量の持ち主だということ。周りのお姉さま方と比べて一段若く見えるが、饗宴の主役足り得るのは美貌だけではないと誰の目にも明らか。曲が終わるのと同時に前方のファンの群れがシシーラに紹介された時と同じく恨めしがる視線を俺に送ってきたことから勘違いでもないらしい。
目当てのセンターではなく、永遠に報われることのない哀れな男たちの方に笑顔で手を振っておいた。ナンバーワンアイドルはその駆け引きに笑いを堪えていた。
それに、気になることは他にもあった。
「あの中心の……」
「目が良いな、ルーシャス。そう、あの方はシシーラ様の双子の妹さ。赤い長髪を結んでいるけど、あれはカツラだ。外せばシシーラ様と瓜二つだよ」
同じ相貌でありながらもシシーラとは違い、溌剌と自らを表現する輝きの女。
サンズアラ国のもう一人の女神に目線を外され、デルタに「あれもデルタか?」と聞いて俺も歩き出し、広場の隅にあるベンチに腰を落とした。
デルタは「王家の血を引く者だから私たちと違って特別な名前がある。あの方はエリーネという名前だよ」と答えて隣に座った。
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