ジョバイロ Ⅲ

 オアシスには風が吹かない。火の粉が派手に飛散することはなく、シシーラは俺が着替えている最中、いつの間にか目蓋を開いてジッと焚き火を見つめていた。夜空一面の星々に目を輝かせるのが彼女らしいと思えるが、他と同じくまるで見えていないように無関心の姿勢を貫いた。

 白装束から旅の黒衣への衣替えを済ませた。ゴーグルも丁寧に掃除され、懐に入れっ放しだったナイフやオイルライターもそのままで一安心。インナーは途中で捨てたのだったか。

 上半身は羽織りのみで開放感がある。焚き火のおかげで寒くもなく丁度良い。着慣れたはずのズボンは窮屈に感じるも、靴はやはりこれに限る。

 血の滲んだ白装束とサンダルはシシーラが持ち帰るとのことで構わず木箱の上に丸めて置き、その上にロゼロから貰ったジャケットを重ねたところで「お腹は空いていませんか?」と聞かれ、俺の代わりに腹の虫が返事をして笑われた。

 シシーラが木箱から包装されたパンを取り出して「はい」と渡してきた。木箱の中には他にも物騒な品が見えた。

 包みを剥がして一口食らう。硬くて丸いパン。今朝、医務室で食べたものと同じパンだが手が込んでいる。今回のは表面がバツで切られていて、そこに小さく刻まれたマンゴーやオレンジ、ブドウなどを詰めて焼き直した逸品だったのだ。

 思えば食事以前に水分も碌に摂っていない。妹さまの回復魔法により体調もいくらか改善されていたおかげで空腹を忘れていた。だから都合が良い。水分も栄養も同時に補給できる上に腹持ちも良い。東では食したことのない硬さと甘さを兼ねたパンだ。つい、ではなく意図して「ちくしょう、美味いのかよ」と、過去に一度言った台詞を再生した。シシーラも大分調子を取り戻している。

 豊かな時間だった。野外で、シシーラの他に誰もいないというのが良い。デザートは明日まで持ち越されるとはいえ、別にこういう温い時間が嫌いというわけではない。

 ただ、直近で見た夢が悪かったからか、パンを胃に運び終えたらすぐ本題へ移りたくなった。俺は追っ手だけでなく、過去の憧憬からも逃げてきたのかもしれない。

 しかし、逃亡生活の果てに辿り着いた楽園は、文化が違うというだけで元居た場所と大差はなかった。異世界だろうとどこだろうと、自身を亡霊と勘違いできるうちは大差ない。要は自分が変わらなければ周りも同類の連続だ。新鮮さを味わえるのは最初だけ。一面の星空も既に飽き始めている。

「喉は乾いていませんか?水筒も持ってきています」

「いや、十分だ。それより――」

 唇に付着した甘く粘りのある果汁を舌で掬い、少し回復したシシーラを窺う。本題に入るのを察してシシーラは息を呑むが、その瞳に動揺はない。コバルトブルーの両眼はいくらか決意を固めてサファイアのように堂々としている。大海原のように激しく波打つこともない、そこの池みたく凪の状態だった。

「また会えて良かった」

「はい、私もです」

 憎しみの感情は欠落している。そんな惨めなものに囚われるより今は彼女の真実を知りたい。利子が付くより先に貰った恩を清算したいところなのだが、向こうからすればそう易々とはいかないのだろう。

 スカベロの毒熱と相反する、しかし使い方によってはそれ以上に危険に思えるシシーラの異能。唇を奪った相手の体温を奪い、眠りへ誘う呪い。その不意打ちを受けて意識を失い、地下独房に連れられてカラスの親玉に可愛がられた。その過程と結果は、平和を願い、これまでずって体現してきたシシーラからすれば自責は免れない。

 俺としてはおかげでサンズアラ国とイシュベルタスの全貌に触れることが出来たため、むしろ礼さえ言ってもいいくらいだ。何よりイシュベルタスは始めから俺を始末するのは明日以降と決めていたのだし。もっとも、ガッデラは真意は不明で興味もなく、対峙したミイラの剣士……先代の王を試験相手として俺の力量を計り、理想に値しなければそのまま大剣の餌食にするくらいの目論見はあったようだが。

 俺が値する格だと分かればゲームを始められる。少なくともこの部外者は、今宵が終わり、陽が昇るまでの間は客人として丁重に扱われることが保証されているというわけだ。

「さっきの下らない質問に答えてやる。俺はあんたを憎んでいない」

「そんな……」

 口籠る加害者に変わって被害者が口を開く。普通であれば加害者側は話を広げる役にはなれない。被害者ほど同情を得やすく有利なのだから主張もしやすいというもの。シシーラに限らず常人の感性であれば、たとえ反省の色がなくとも事件後は被害者の方が断然強い。

 その普通が合わない。強者が絶対正義というのが前提でいい。踏み躙られた方、騙された方が馬鹿なのだ。……というのが俺の感性だから、愚行を恥じるような素振りを見せられたところで目障り以外の何にもならない。

 世の中はもっと単純でいい。弱者の主張など置いていくか、囀る余裕を与えないようにすればストレス社会など疾く過ぎ去った過去の歴史になるだろうに。

 気に食わない相手を殺す。しくじれば死ぬ。戦わない者たちを絶対に巻き込まないこと。向こうもこっち側の領域に首を突っ込まないこと。

 必要なルールはそれだけだ。違う思考の人間が集団を作り、違う平和を唱えていく。それで平和が訪れることなどあり得ない。バラバラの方が平和に決まっている。

 これは昔からの持論だ。昨日今日と平和の国に触れて得た感想ではない。

 そして、推測だがシシーラは平和という言葉を嘲る俺のこういう考え方を……おそらく既に知っている。

「あんただけじゃない。神のピラミッド、あの広間にいた連中の誰一人にも憎悪はない。イシュベルタスも含めてな。ウザいとは思ったがね」

「もう知っているでしょう?彼は貴方を貶めるためにあらゆるものを利用しているのですよ?……何より私は、貴方がサンズアラの平和を脅かす存在だから不意を突いて眠らせてほしいと唆され、その通りに動いたのです。何も悪事を為していない貴方は私を恨んで当然のはずです」

「裏切りなんてよくある事だろうが。一々怒りを感じられない。見てくれだけで中身は箱入り娘そのものだと見下していたあんたに一本取られたのは痛快なほどだったよ。もう知ってるだろ?俺が東で何をしてきたのか。それを知ったのなら俺を拘束するのは最善の判断だ。むしろあんたはイシュベルタスを無視してでも俺を始末するべきだったんだ。今まで何をしていた?」

「私は……少し休んだ後で外の巡回を……。いえ、そんなことより……貴方は本当は誰よりも正しくて……」

「俺には罪の意識というものがない。だから今こうしてあんたの待つオアシスに平然とやって来られた。物心がついた時、俺は剣を握っていた。辺りには血みどろの屍がいくつも転がっていた。この人生は戦場から始まった。だが、生まれを悲嘆したことは一度もない。それが他人と比べて異常な生い立ちだと知るには時間を要したし、呪われた生涯だと糾弾されたところでうるせぇなと思うだけ。一般の常識や思想を説かれ、それを理解することができたとしても、順応する気にはならなかった。だからあんたが何度俺を謀り、何度騙されようとも、俺はあんたを決して憎めないようになっている」

「……それは知っています」

 あり得ない返事だろうが、それ以上のあり得ないが彼女にはある。そうと分かり切っていれば首を傾げる演技も下らない。

 不満はない。むしろシシーラの方が俺の無反応にハッと驚き、たったいま生まれた新たな罪悪にまたも気を落としてしまった。

「あんたは悪くない」と安い励ましを送るつもりもない。本題に突入するからには迷っていられず、世間話が目的で再開を果たしたわけではないのは互いの了解、彼女の情動を利用して切り込んだ。

「さっき木箱の中身を覗いた。パンと水筒、それに短剣が二本入っていたな。一本だけなら他に誰もいないこの場所で俺を殺める魂胆か、あるいはそれも囮で、本命はその外套の中に潜ませていると読める。さっきのパンにスカベロとは別の毒を仕込むなりしてな。だが二本ということは、そういうことだろう?」

「……正解です。流石ですね。貴方はただ憎まないだけで、騙されやすいわけではない。わざと隙を作るくらいですものね」

 シシーラは立ち上がり、再び木箱を開けた。感情表現の域にない、水の女神のようでありながらも断じて冷酷とは言えない静かな眼差しをしていたので、「いいのか?こっちはまだあんたを欺いている最中だが」と挑発するも、フフと笑いあしらわれた。

「ザーレ、貴方は鋭い。同い年というのに、越えてきた死線の数が歴然の差なのです。ですから……」

 取り出した二本の短剣はカラスたちの得物と同じデザインだった。それはシシーラこそが連中の真の親玉だからではなく、サンズアラの短剣といえばこれに限るからだと、柄の先端に蓮の花が掘られていることで断定した。先に鞘を抜き、うち一本を受け取ると、コバルトブルーの両眼にこっちの濁った瞳の奥を覗かれた。威圧感と違う、神秘のように人間一人がいくら努力を積み重ねようと決して及ばない格のようなものを感じた。剣戟となれば俺が勝つが、もっと別次元の問題において俺では絶対にシシーラを負かせられない部分があるようだ。

 ただし、シシーラ自身は無自覚らしい。謙遜を表すようにゆっくりと目蓋を閉じて、それからこう続けた。

「ザーレ、私と戦ってくれませんか?勿論、命を奪うのは無し。あくまでお互いの刃を交えるだけです」

 外套を脱ぎ、綺麗に畳んで木箱の隣に置いた。砂の上に直接だ。露わになった魅惑の玉体が砂に塗れようと構わないという意味合いと、気にせず木箱の上に丸めて置いた俺のジャケットに乗せるのを遠慮した心遣いがあるのだ。

 見慣れたはずの褐色の美形、贅肉の無い完全な健康体に改めて見惚れた。あどけなさの失せた今となってはより危ない刺激物に他ならない。

「昨日は着てなかったよな?」

 多少の動揺をどうでもいい問いで誤魔化すと、「貴方が砂漠の真ん中で倒れているとは思わなかったので必要ないと判断したのです。冷えますねって言ったじゃないですか」と返された。あれは本心をそのまま言葉にしただけだったのだ。

 そして、推測は確信へと変わる。それを質問すればシシーラは正直に答えるだろう。

 それなら俺から聞くまでもない。借りた短剣を掌で転がしながら少しだけ距離を取り、シシーラが自ら告白するのを待つ道を選んだ。

「あんたの方は本気で俺を殺しにきていいぞ」

「それは出来ません。もし惨事になったらどうするのです?」

「その程度の男なのだと人生最後の眠りに就く俺を蔑んでくれればいいさ。それに、明日は大勢を相手にするわけだから良い練習になる」

「えっ?どういう意味ですか?」

「……マジかよ」

 シシーラは明日の戦争について知らされていない。あの男にとっては自国の王も『脇役』の扱いか。

 姉妹両方を……いや、まさかイシュベルタス派と断定できないサンズアラ国民全員を守るために戦う体となるのか。パキパキと焚き火の音がオアシスの沈黙を誤魔化す中で、余計な重荷を背負わされる未来に項垂れた。

「ザーレ?あの……イシュベルタス殿から何か?」

「……いいや。とにかく俺は加減するが、あんたは本気で来い。そうでなきゃ帰る」

「わ、分かりましたから!でも、怪我をしたらすぐ中断しますからね」

 未だ神の本性を知らないシシーラが両脚を広げて重心を落とした。戦闘態勢、戦士の相貌、これまで見受けられなかった大人の戦意を短剣の切っ先に宿して俺を睨む。これまでとのズレについ吹き出してしまい、彼女が懸命に作った集中を切らしてしまった。

「ザ……ザーレ!」

「いや、悪い。本当に完璧だと思ってね」

「邪……。減らず口も合わせて貴方の剣術なのですか?」

「どうかな。あんた、俺の真実を知ってるだろ?コミュニケーションの手段に剣戟を選んだのは、あんたが運動したい気分だったからではないはずだ。違うか?」

 おちょくるつもりで言ったが、空気を読み間違えた。シシーラは確かに俺を見つめているが、こっちの瞳の奥の更に遠い彼方を見据えるように真剣で切ない表情を浮かべた。

 そこから一度強く目蓋を塞ぎ、改めてこっちを捕捉し直す。迷いを断ち切ったか……いや、迷いを完全に晴らすために俺と戦う必要があるのだ。

 俺もこの時を待っていた。だが、それにしてもやはり美しい。本気など出しようがない。余程の手練れというのは見れば分かるため、雑魚相手と同じ加減で臨んだらやられてしまうかもしれない。

「行きます。戦いながら私の話を聞いてください」

「ああ、全て教えてくれ。あんたの正体と、あんたが知るはずもないあの名前を口にできるデタラメについて」

 シシーラがジリジリと距離を詰め、それから首元目掛けて銃弾並の速さで突きを入れてきた。

 民間人であれば必殺になりかねない威勢の刃を払いながらも、冗談や粋への理解を急速に深め、これまで感じられなかった王者の地位に能う強い女の側面を独占できる無上の喜びにより殺されても納得ができるほどまで気分が上昇していく。

 高揚の後には落ちる心配をする。害鳥たちがいくら束になろうともこの瞬間に勝る悦びはなく、この先これ以上の『妥当な死に場所』には巡り合えないかもしれないと案じるように。

 切っ先を躱して互いの距離が空く。彼女を抱擁へ誘うように両手を広げた。そこでようやく彼女が獲物を食す獣の面もできるのだと分かった。オアシス、女神。いずれも誤解ではなかったのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る