オアシス Ⅱ

 砂嵐と呼べる激しさはないにせよ、心地良いはずの夜風に砂塵が便乗するせいで両脚は痒くなる。

 最後まで慣れなかった白装束は、ただ涼しいというだけで気に入ることはなかった。シシーラが気を利かして、洗濯済みの俺の衣類を持ってきてくれていると助かる。

 空一面の星々が夜を少しだけ明るくするも、砂漠ではそれが相殺される。いくら進んでも同じ景色の連続では流石に萎える。

 向こうからサンズアラを目指すのであれば、レンガの壁や中にある二つのピラミッドを目印にすればいずれは辿り着ける。更にその国の女王が同伴ともなれば迷子にはなり得ない。

 今回は逆だ。隣にシシーラはいない。ある程度場所を把握していても到着までの時間は退屈で、元から長い距離がより遠くに思えてしまう。

 目印がなければ迷う。オアシスの澄んだ池も、太い葉を生やす木も、夜間となれば目印としては心許ない。気付かず通過する恐れがある。

 幸い、それらは全て杞憂に終わる。目を細めて目的地の方角を見据えると、一筋の黒煙が星空を射すように昇っていた。

 プリンセスの気遣いだろう。彼女は寒さに強いはずだから炎など無用なはず。何より似合わない。

 汗など全くかかず、ジャケットのおかげで肩が冷えることもない。下半身を貶す砂塵だけに足を引っ張られながら誘いに流されていった。

 初めて砂漠に足を踏み入れた昨日と比べればどうという事もない。今は体力を奪う強烈な陽射しも、気力を失くす砂嵐も襲ってこないのだから。

 しかし、通る道が同じであれ億劫に思うのが正直なところだ。いくつかの試練を辛うじて乗り越えたことにより、迎え撃つ明日の試練こそが俺にとって最上の快楽に他ならないとすれば、この時間は面倒以外の何でもない。


 シシーラとの恋慕はない。明日には決裂する関係性だ。


 それなのに、西大陸の最初の国、その内部か近辺でネガティブに苛まれると、決まって彼女の顔が脳裏に浮かぶようになってしまった。

 絶世の美貌が台無しになろうとも、それでこそと評せるあどけない童女の笑顔。それが本来の彼女だろうに、最後に見たのは己の無知と未熟に絶望するしけ顔ときた。

 それを不愉快として憤るのなら未練だ。解消せず、靄を靄としたままサンズアラを去る選択肢は俺にはない。

 後腐れは御免だ。俺を眠らせる前にあの名前を持ち出した意味、その意図をはっきりさせなければ終われない。

 東の犯罪者が西の小国を束ねるお姫さまの憂鬱を晴らす。痩せこけた矜持とは無縁の蛇足、脱線、厄介事だ。

 俺の犯罪歴を知る者がこっちにも多く存在していた。西と東が別世界であろうと、繋がっていれば一つだ。隠れ蓑とはいずれ必ず暴き出されるもので、犯罪者は決して楽園には到達できない。

 それでも降りるつもりは毛頭ない。死してなお……いや、死んだ気になっただけでは己を捨てるなどできるはずもなく、気の向くまま目障りなものを取っ払ってきた『ザーレ』という男の意志は未だこの身に留まっている。

 煙の伸びる原因、薪を砕く炎の塊が見えてくる。

 迷わず、一切の罪も気まずさも感じずにそこを目指す。たとえ平和とは真逆の世界からやってきた逆賊であれ、借りた恩は必ず返す。

 体育座りで炎を見つめる女がいた。

 とても一国の王の姿ではない。砂を絡める突風の音に紛れて舌打ちを繰り出すと、丁度風が止んで彼女の耳に届くかギリギリの音量となった。

 俺の登場に気付いているのかも分からず、彼女は尚も打ちひしがれたまま。何も反応を示してこないせいで溜め息まで零れた。

「所詮は貰った王座か」

 イシュベルタスとの覇者の差、あるいは野心の不足。民への愛情以外に何も持たない自身の不甲斐なさに弱っていると断定して聞こえるように侮辱するも、シシーラの横顔は今もしけたまま。こっちはうんざりして違和感も無いのに首を曲げたり掻いたりした。

 落ち込んだ女は嫌いだ。根暗が常なら関わらなければいいだけだが、本来明るい女が何かの拍子で沈むのは避けようがない。

 四六時中共に生活するわけでなく、もしそうであっても相手は自分とは違う問題とぶつかり、勝手に苦しんでいくものであり、生まれてから死ぬまでずっとポジティブでいられる奴などは存在しない。

 そんなことは分かっているが、それは俺が考慮する問題ではない。むかつくものはむかつく。シシーラもあいつも、付き纏うのなら前向きであれや。迷惑なんだよ。

 特にあんたが俺の前で情けない姿を晒すのは筋違いだ。段々と怒りが込み上げてくる。

 接近、立ち止まる。顔を上げたあんたがいかに浮かない様子だろうと構わず言ってやることにした。

 あんたはまだ俺の善意に期待している段階かもしれないが、知っての通り俺の本分は強行突破だ。既に東大陸の世界平和を阻み、幾多の人生を葬ってきた殺人鬼の側面こそがこの男の主体と知れ。

「何であんたが落ち込んでるんだよ。目障りだからやめろ」

「ザーレ……」

 沈黙。俺の到着は砂の潰れる音の連続で察していたはずだから、おそらく偽名と本名のどっちを使うかで迷ったのだろう。

 俺が来る前に一度泣いたらしい。涙を拭いても腫れた頬までは誤魔化せない。

 気遣うつもりはなく、それよりもシシーラの傍に置かれた木箱の上の品が気になった。

「俺の服だ」

「あっ、はい」

 碌に突っかかってこない俺に驚愕したかったのだろうが、神の間の断行が脳裏をよぎり躊躇ったよう。俺が構わず黒衣たちを手に取った際の次に発する言葉は想像が容易で、実際そのままだった。

「あの、私のこと憎んでますよね……?」

 顔は見れない。女に暴力を振るった経験はないにせよ、胸倉を掴むくらいはしたくなる衝動に駆られる。ビキニ姿に白い外套を纏う今ならそれも可能で、故にここから先は暴走となる。夜空の星々を睨み付けて突発的な血流を凌いだ。

 白衣のおかげで日焼けした美貌がよりそそるはずなのに、その玉体をまともに拝めないとはツキがない。いっそ引き上げてやろうかと思うも、これが最後の機会であるならそうはいかず、深く溜め息を吐いて粘るしかなかった。

 憎んでいるか、なんて愚問には答えなかった。

 それより本題に入りたい。もう欺瞞は要らなくなったのだから。

「着替えたいんだが、手伝ってもらっても?」

 ズボンを広げて煽る。この場所でお決まりのくだりを仕掛けると、シシーラは数秒呆けてからそれを思い出して「あ」と一音漏らし、こっちの意図を汲んで少し惑いながら微笑む。

「自分でやってください。終わったら声を掛けてください」

 手の掛かる子供の面倒に疲れたみたく、炎を映すコバルトブルーを塞いだ。

 甘えられる時間は過ぎた。建前も、もういらない。これでようやく互いの本心をぶつけ合える。

 つまりは時計の針が動き出し、決別の時も迫ってきているということ。

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