オアシス Ⅰ

 どれだけ眠りこけたのか。エリーネの回復魔法は本物だが、完治までにどれだけ時間を費やしたのか不明で、彼女の魔力質もまた不明のまま。

 日付が変わった頃だろうか。

 そも、西は日付を数えるものなのかも知らない。陽が昇り、沈んだら一日とする計算すら無しとは言えない。

 響くサンダルの足音。静かなるサンズアラ。まずはピラミッドを越えて、そこから南門を潜る。世間の俺に対する印象がどうなっていようと構わない堂々の足取りで。

 ロゼロの置き土産から抜粋した黒衣とは、シダーズの着用するロングコートより短い、尻までの長さのジャケットだ。白装束のみでは心許ないと判断して羽織ったのは良い判断だった。熱砂の国だけに夜間は凍えるような寒さに感じるも、おかげで身を縮こませずに済む。

『その後』を想定しても厚過ぎず着脱も楽な性能で、悔しいが好みだった。逃亡生活前、自由に動けていた頃にも似たデザインの上着を着ていたが、まさかそこまで調査済みとなると……やはり寒気は免れなかった。

 人気の少ない夜でもカジュアルな上着は目を引く。ジロジロ見てくる者ばかりで、それ以上の面倒にはなり得ないが。

 サンズアラはまだ神さまの望む狂乱状態にはなっていない。黒衣を纏う者など他に誰もいないほど。

 二つのピラミッドの狭間を通る。元よりここに人影はない。二つの巨大な山が暗黒を生み、足元が碌に窺えないものの、その分だけ夜空の星々が輝きを増しているように思える。東のどこにいてもこれほどの星空はなかったはず。

 ロマンスに適した絶景だろうに、王と神の隙を貫いた後の広場に集る疎らな人々は、この程度は常であり贅沢ではないと、関心を示さぬ様子で隣人と談笑していた。

 所感だが、この国の民は腐っていない。情勢が安定している時期に訪れただけで、深堀りすればイシュベルタスやガッデラのように醜悪な側面がいくらでも出てくるかもしれないが、やることをやったら疾く退場するつもりのため、そんな疑いは元より無用。俺からすればサンズアラ国民は最後まで小国の平和に貢献する善人のままとなる。

 嫌な印象が全く無いのは直接関係を持った人々の影響だろう。あの姉妹のように真心で民への愛を全うする者と、国情を利用するか覆そうとする者だけで、他者の不都合を晒し上げる下品な輩までは現れなかった。

 前提として完璧な平和などなく、無辜とはいえ罪を犯さない民衆などあり得ない。後ろめたい隠し事などあって当然。いかに慕われている者であろうと、その裏には決まって他者を出し抜く工作が為されている。

 幻滅することもない。他人の善悪を判別するなど疲れるだけで苛立ちも起き得ない。信じる前提で初対面の相手と向き合えるのはエリーネのような聖者の話で、俺にはもう無理だ。

 無数にあるうちの、一世間について考えるのは徒労だ。害がなければ詮索も下らない。夜明けと共にこの身が皆の安寧を揺さぶる悪魔に変貌し、今この夜にすれ違う皆の視線に怒りが添えられようとも構わない。その頃には真逆の北門よりこの国から脱出しているはずだから。

 責任……は昔から考えていないが、我ながら報酬の期待できない依頼によく付き合っている。

 自らの矜持を貫くことが結果として世のためになる。俺に限らずよくある話だ。

 自分で言ったことだが、エリーネ派は官軍だ。柄じゃない。

 非正規のグレーオアブラック。公にできない厄介事を依頼とし、その内容と報酬を事前に知らされた上で受けるかどうかを選択できた。

 思想主殺害以前に、ザーレという傭兵はそういう裏社会で活躍していた悪者だろうに、今や大衆のために悪を余さず退治する英雄だ。



 南門が見えてくる。何故かまだ開いていた。

 昨夜、逆に砂漠の方から入国した時より確実に遅い時刻のはずで、人々の喧騒も熱気も皆無。

「おっ、本当に来たな」

 それでもこの男だけはそこにいた。これが二度目だというのに、馴染み深く思える南門の守護者がサンズアラ国の内と外の境目に佇んでいた。

 声を張った様子でなくともデカい声量になるのは快活故だろう。砂混じりの夜風が入る門前でも、上半身裸に七分丈のズボンとサンダル姿で悠々としていられるあたり年季が違う。流石は生まれも育ちもこの国だ。

 サンズアラの軽い案内と歴史を紹介してくれた門番・デルタに「残業か?」と聞いた。

 立ち止まって会話する距離でなく、松明がやや遠い夜間ながらも、男の破顔は浮く。不満など一切窺えない、疑念もないような充実の様相で蓮の花が抜き取られた槍を右手に職務を全うしている。

「そんなところだ。昔はこれが当たり前だったから、それほど苦でもないよ」

「今の王さまに頼まれたか」

「そうだ。ルーシャスを待っている。場所は伝えなくても伝わると言っていたな」

 俺の事情は知らされていないようで、接する態度は変わらない。

 しかし、それも神の一声により変貌を遂げるのか、あるいは神などという得体の知れない偶像に惑わされない意志を持ち合わせているのか。予想では後者だが、それも無用な詮索としてやめた。

「門に錠はない。門番がいれば出入りができて、いなければ利用してはならないという暗黙の了解だけがあり、その程度で済む安全が国内外で成立している。それでも私が今ここにいるのはルーシャス以外の利用を断るためなんだ」

 そう言いながらデルタは逞しい体を避けて暗き砂漠へ誘う。相変わらず少し気になる程度の疑問に瞬時に回答して。

「シシーラ姫、何だか元気がない様子だったな」

「よく分かるな」

「ここを通る者と港から戻ってくる者はほとんど同じ顔触れだからね。微細な変化でも気付けてしまう。特にシシーラ姫があれほど惑っておられるのは珍しい」

「俺のせいだ。だから俺が解決してくる」

 そう返すとデルタは一度目を見開き、納得したように深く頷いてから砂漠に足を踏み入れる俺の背を見送った。

 門の内と外の脇に砂山ができている。足払いでどかした跡も。それもデルタの仕事なのだろう。

「この国の魅力は知ってもらえたようだな」と刺されるも、それは無視しておいた。嫌味に感じたからではく、反応を示さずともこの男にはそれで十分にコミュニケーションが成されると知っているからだ。

「それでは。また会おう、ルーシャス」

 もう何も言い返すつもりはなかった。

 しかし、濃厚な死の香り漂う戦線を離れ、平和を謳歌する者たちのペースに身を委ねたせいか、余計な気を回してしまう。

 風変わりな旅人から、明日のサンズアラを脅かす害悪に化けるというのに、本来持ち得ないはずの情なるものに絆されてしまい、無駄な摩擦を自ら起こす羽目になった。

「ルーシャスは偽名だ。俺はザーレという」

 早速サンダルが砂に呑まれる。

 立ち止まり、振り返らずにそう告げた。少し間が置かれ、それからデルタだった門番の男が「そうだったのか。私もデルタではなくスールというのが本名だよ」と残して、形ばかりの『隙』だらけな門を閉ざした。

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