一欠片のパッシオ Ⅲ

 初めてサンズアラを訪れた時と同じ。大通りを途中で脱線して、嗜好品ばかりが並ぶ寂れた商店街に入り、そこから迷わず煙草屋を営む老婆の下へ。

 ご老人の対応は変わらない。毎日五本まで無料の葉巻を樽から拾い、いつものルーティンで火を点ける俺に対しニコニコと皺を深める笑みを浮かべては、別れ際に親指と人差し指で小さな太陽を形成した。

 誰しもの空へ平等に君臨する暑苦しい陽射しとは違う、個人へ向けた友好か祝福の願い。饗宴のステージでエリーネも決めポーズにしていたそれ。説明はなかったが、この国のお約束なのかもしれない。

 ……見えることはもうないだろう。サンズアラとは今日でお別れ。そして、昨日までのサンズアラはそのまま戻らない過去となる。縁起など気にしている場合ではなくなるかもしれないからだ。

 こっちは雑に手を振り、何も言わず立ち去るのみ。危なくなるから家に隠れていろと言える筋合いではない。

 門番と共に歩いた道に沿って広場へ、それから二つのピラミッドの間を通ってセーフハウスを目指す方針。

 まずは再びの大通り。思えば早い時間にここを歩くのは初めてだ。しかし、特段妙な気配も気になるものもなく、何気ないサンズアラの平穏に紫煙を吐いた。

 余所者が葉巻を吹かして大通りのど真ん中を堂々往く。物珍しくなくなった俺には誰も関心を持たなくなった。そういう奴なのだと、サンズアラの生活にこの身が受け入れられてしまったのだ。

 母国みたく発見次第すぐに絡んでくるような輩はこの場所にいない。この余所者を鬱陶しく思う苦しい視線は感じられず、妖艶なお姉さま方の誘惑を断らなければならない境遇がひたすら悔しい。

 それはそうだ。彼らは皆、サンズアラ国の善の側面。諍いはなるべく避けたい人種であり、現在の正義であり、勝者たちなのだから。

 相反する陰気な負け組が物陰から熱視線を送ってくる事などもうない。今頃は神のピラミッドに集っているか、東か北に包囲網を敷いている最中だろう。

 既に決戦当日だ。何なら陽が昇る前に動き出していた可能性も考えられるが、敵とはいえ誰よりも気が合うイシュベルタスの指揮であればそれは無いと断じることもできる。奴は陰険だが卑怯ではない。脇役が出張ることは認めないはずだ。

 ……イシュベルタス派の人間全てが奴の手足であるという前提の話だが。

 必ず殺すと決めた相手を信用する。それは別に珍しいことではない。本能で『合う』と思えるからこそ、たかが大将首としてではなく、こっちも奴のゲームを正面から受け付けられる。相性の良い存在が敵の側というのは戦争では常だ。味方ほど鬱陶しく感じるようになる。好条件での闘争こそを渇望してやまないからだ。

 信頼。最も信頼してはならない言葉。

 誰も信じなければ、誰にも裏切られない。これまで何度も自分に言い聞かせてきたつもりだが、結局俺はただ喧嘩が上手いだけの貧乏人に過ぎず、いつも誰かに小さく期待を寄せていた。

 俺はイシュベルタスを信頼している。『それ』はないと過信する甘さを捨てられない。

 だから、それは『隙』ではなく、単なる『驕り』でしかない。

 こっちへ駆けつける見慣れた美貌。白や橙色が中心のビキニにハーレムパンツを足してより腰回りに注目したくなる。ショートの黒髪は共通ながらR字の模様は逆に右眼を囲う、双子ながらも彼女より白い肌、元気溌剌なサンズアラのセンターアイドル。

 その様子がおかしい。切羽詰まって余裕がない。迫り来るたび段々と彼女の顔色が鮮明になると、頬に涙を残しているのが分かり、向こうが声を張るより先に咥えた葉巻を零して走り出した。

 手遅れだからこそ、見落としはないと無能になれる。動揺しているフリを妹に見せているだけで、十分に予測できたことだ。

 俺は勝手に怨敵を信じ、勝手に裏切られた。気付いた時にはもう遅いのではなく、酔狂が行き過ぎた末路なのだ。

 

 広場の人影はまばらで、吹いて飛ばして残ったような塵も同然の数。それがいつも通りなのか、異変が起きた結果なのかは知らないしどうでもいい。左のピラミッドから特有の嫌な空気を感じ、右のピラミッドから更に吐き気を催す醜悪な空気が醸し出されていようと後回しだ。

「間の道!」

 そう放つエリーネを置き去りにしてピラミッド間の一本道を目掛けて走る。あの息が詰まる王と神の聖域、偉いだけで何もしない二つの為政者に見下されているような気になる。

 まして、その一本道の真ん中にサンズアラ一の才女が倒れていれば最悪だ。やはり奇跡などこの世には無いのだと、人々を導くべき存在たちこそがそれを立証しているような縮図も同然だ。

「シシーラ!」

 平静ながらも叫びは自然に漏れた。もう自分では動くことのできない彼女の背中に右腕を挿入して麗しき相貌を窺うと、褐色の頬が白く、薄くなっており、それを際立てるように口周りと腹部が鮮血に塗れていた。

 今まで何度も見てきたから勘で分かる。シシーラという偽名の一生命はあと少しで事切れると。

「おい、起きろ!」

「……ザー……レ?」

「意識を保て。俺をよく見ろ」

「わぁ、凄い……。本当に来てくれた……」

「喋らなくていい。今……」

 虚ろな瞳がこっちの瞳を……覗こうにも既に光を宿していない。影の道を走り続けてきた者と繋がることも、肯定することもできない頼もしさの欠如。あれほど眩しく映ったコバルトブルーの瞳が濁ってしまっている。二度と元の輝きを取り戻せないほど、不届き者によって砂漠の中のオアシスに山ほどの砂利を垂れ流されたように。

 別れてから現在までの間、時はそれほど経過していない。長くここに伏していたわけではないと分かるが、それでもシシーラに残された時間が限られていることなど誰の目にも明らかだ。

 会話は可能。俺が寄り添っていることも理解している。選ばれし者、可愛くないほど健康な女だ。生命力も相当なもの。

 しかし、先に発見したエリーネが俺を探すより前に回復魔法を施さなかったのを証拠に、致命傷を受ければ死ぬという点だけは皆と平等だった。

「ザーレ……」

 懸命に伸ばした震える右手を握る。生者の熱がなく、これはもう駄目だと憐れむ眼差しを向けてしまうも、シシーラは手を握られただけで心底幸せそうに微笑んだ。

「ごめん……なさい。隙だらけなのは、私だった……」

「もう喋るな。生き延びてやりたいことを想像しろ」

「フ……大丈夫。私、特別ですから……まだ起きていられる」

 噛み合わない会話。これだけ密着して互いを見つめ合っているのに、おそらくシシーラには俺の声しか届いていない。掛けられた言葉を処理する機能も既に壊れている。

 強がりか、あるいはオアシスで見た誇り高い戦士の姿勢そのままに強い女だったのか、最期の時を俺と過ごしたいと『決断』した彼女にこの不人情は何も施せない。

 追いついたエリーネが俺たちの傍に立つ。手の甲で涙を拭くも無力に立ち尽くしていた。

 実の姉がもうじき息を引き取る。独自の立場でサンズアラの脅威と立ち向かう気構えの彼女でも言葉を選べずにいた。

 俺は正直喋れた。ついさっきまで隣にいた人間が散ることに慣れている(感傷を抱くことがない)からだ。

 それでも今はシシーラだ。俺とエリーネの時間はこれからも続いていくが、シシーラはここで退く。その終幕に水を差すには、他でもなくシシーラのお許しが必要だった。

「エリーネ……そこにいる?」

「うん……いるよ、デルタ姉さん……」

 首を動かす力もない。あるいは視力が働かないのか、歩み寄るエリーネではなく、何もない上空を見つめて想いを紡ぐ。聴覚と声帯だけが尚も機能することだけが言葉を遺す側にとっては救いだった。

「エリー、ネ、ごめんなさい……。貴女、私よりずっと賢くて、誰よりもみんなのことを考えていて……でも、私がこんなだから……ずっと呆れていたでしょう?」

「そんなことないよ……。今も昔も私は姉さんのことが好きだった。誇りに思っていた……。どうしてこんなことに……」

 これで残る王家の人間はエリーネ一人となる。その孤独、これから負うことになる重責について考えるのは今ではない。

 それに、エリーネであればどうにか乗り越えていけるはずだ。

 しかし、この別れは?二人が揃う場面に立ち会うのはこれが初めてで具体性な関係性は知らない。仲睦まじかったわけではないのかもしれない。不仲ではなくとも、互いに話足りなかった間柄のように思える。

 全てが遅い。互いの本心を打ち明けて、やり方や性格が違くともサンズアラの安寧を願う気持ちだけは常に一つだったと、今からそれを確かめ合ったところで手を取り合うことはもう叶わないのだ。

 愛する者との別れ。去る者と残る者。客観的であればよくある話で、当事者になると押し寄せてくる過去の後悔と不十分。

 俺としてもシシーラに死なれるのは寝覚めが悪い。これは俺の失態でもあるのだから。

 

 ――ただし、早く次の展開へ移行したい気持ちが遥かに勝っているのが本心だが……。


 シシーラの言う通り、そして俺の見立て通り、エリーネは本当は指導者に向いている。手の甲で両眼を荒く擦ると、自分がすべきこと、自分ができないことの整理を済ませては賊を許さぬ一国の長の険しさを帯びる目付きに切り替わった。逆R字の模様が貫禄を増す。

 エリーネの中で姉の死が過去となった瞬間だ。明るい人間ほど歩けなくなった人間を置いていく。その残酷なまでの現実的方式を目の当たりにした。

「エリーネ……お願いね」

 シシーラも決別を受け入れた。もう輝かないコバルトブルーの瞳で何を映しているのか。ただ天を見上げるばかりの彼女からは、妹との別れを惜しむ様子など見受けられるはずもない。

 その、諦めたような姿勢がどうにも嫌で、死にゆく恩人へ向けるべきでない黒い感情を宿して睨むも、シシーラは変わらず少しだけ笑っているだけだった。

「私、セーフハウスに戻るね。もうすぐ始まるはず。私まで殺されたら馬鹿みたいだからさ」

「看取らなくていいのか?」

 全て分かっていて、あえて戯言をほざいた。通過するエリーネが露骨に顔を赤くするも、何の変哲もない黒い瞳が揺らいでいれば失敗にも思えない。

「姉さんの心を動かしたのは貴方。貴方と二人きりが……きっと一番良い」

「分かった。シダーズたちと合流しろ。衛兵は敵味方の区別がつかん。誰も信じるな」

「うん……」

 北を目指す裸の肩が震えていた。エリーネは最後に「さようなら、デルタ姉さん」と残して賭けていった。対してシシーラは返事も、去り行く背中を目で追うこともしなかった。余力を使ってはいけないと判断したのだと思う。

 俺たちがひた隠す秘密を問い質することもしない。代わりに冷たい手に少しだけ力が込められ、虚ろな瞳のまま俺を視界の中心に据えて口角を上げた。その微細な行動の意味は分かるが、何故それほど満たされた様子なのかは理解が及ばない。

 あんたも、あいつも、俺のせいで命を落とす羽目になったというのに。誰も憎んでいないのはお互い様じゃないか。

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