一欠片のパッシオ Ⅳ

 一本道を駆け抜けるお転婆娘を見送り、大人しくなったお転婆娘と二人きりになる。

 これが最期だ。残された時間はシシーラの好きにすればいい。

 ……そんな礼節がこの無法者にあるはずもなく、シシーラ相手なら尚更余計となる。

 オアシスにて寄り添い合い、昇る陽を共に眺めた仲なのだから、全てを曝け出すわけではないにせよ遠慮などもう必要がない。

 おそらく視界は暗黒。それでも俺に抱かれている状況だけは理解できているはずのシシーラ。「もう好きにしていい」と、退屈を感じ始めているこっちの本心を見抜いた上で、全て許すような慈悲深い眼差しだから、おかげで次は俺から切り出すことができた。

 いくらかは本心ながらも、最も気を惹く事柄とはまるで関係のない往生際の悪い建前だが。

「すまない。あんたも薄々勘付いていただろうが、俺はまだ本当の感情をあんたに伝えていない。最初からずっと嘘を吐き続けている。この結果を招いたのも俺だ。せめてこれから起こることだけは教えてもよかった。その上で強引にでもあんたを避難させるべきだったんだ」

「ザーレ……自分を責めないで……」

「俺には復讐などできない。憎しみを抱くほどの敵がいない。情熱が足りない。だから、俺にはあんたを看取ることしかできない。今だって、特に何も感じていない」

 あるのは砂粒程度の罪悪感。

 この悲劇は俺が招いた。俺のリズムでシシーラを躍らせてしまったのが悪かった。たとえ責任を感じられずとも、シシーラがこうなる未来は回避しなくてはならなかった。

 そして、罪の清算などするつもりもない以上、これからやることは何も変わらない。こっちこそシシーラを見つめながらも、見据える方角は遠く彼方へ飛び出している。

「ザーレ……貴方という人を、もっと知りたかった……」

 今のはきっと、最後の願いだったのだろう。

 それに応えるのが筋であり、自分らしい。

 言葉で伝えるのが嫌なら俺から口付けを交わせばいい。それだけで神の間の別れからオアシスで再会するまでの空白を埋めることが可能であり、同時にシシーラの知らない平和の裏面を暴露できる。

 反射的に顔を近付けた。

 あの往生際の悪い娘が大人になってしまった。その瞬間をジッと待っているのか、もう呆然とするしかない。

 凝視する瞳が次第に拡大、彼女の青い唇をそっと……。

「ザーレ……」

「……いや、何でもない」

 奪うことはしなかった。

 死ぬ直前にこの国の平和が嘘だったと伝えるのは残酷だから、なんて温情ではない。単に俺がそういう性分だからだ。

 無駄だと諦めた。シシーラだって俺にクレームを入れてこないのだからそれでいいじゃないか。

 彼女は平和の国の女王・シシーラだ。最期の一瞬まで。そのように生きてきたのなら、そのまま死ぬ方がきっと善い。

「ザーレ、あと少しだけ話せる……。私のお願い、聞いて」

「ああ、叶えよう」

「逃げてください」

「何だと?」

「サンズアラは……危ない。私が知らなかっただけで、ずっと昔から邪な存在に浸食されていたのかもしれない……。だから、貴方は逃げて。もう苦しまなくていいんだよ……。自由で、健やかな日常を手に入れて……」

 瞬きすらしなくなったシシーラが思いの丈を打ち明ける。まだ生きる俺は生者らしく、思いがけない言葉を受けて息を呑んだ。

 シシーラが俺に「残ってほしい」と願っていたのは知っている。彼女の中で俺が欠かせない存在になってしまったと気付く夜明け前のオアシスから。

 そんな彼女が自らの意思とサンズアラの歴史を裏切った。恨みはせずとも、共に平和を築いた同胞の中に賊が紛れ込んでいると認め、サンズアラの営みを守る神など初めからいなかったのだと。

 全ては、俺に生きて幸せになってほしい、その一心のみで。

「流石だな。死に際でも自分より他人を気に掛けるのか」

「誰だってそうですよ。爪痕を遺すことが優先されるのです……。それに私は……サンズアラの女王ですから」

「そうだな。あんたは勇敢だ。よく聞く救世主とやらだが、それはきっとあんたのことだろう。俺はその僥倖を得ただけに過ぎない」

「ごめんなさい。全ては私が貴方を招いたせい……」

「言っただろ。俺は誰も憎んでいない。あんたには感謝している」

「ですね……。だって……貴方が憎むのは、貴方の瞳に映る世界……。他人ではなく自分だけ……」

 何も言い返せずに静かな時が流れる。

 背後より、二人きりの狭間を横目に神のピラミッドへ移る視線が二つあった。

 それに対しても激情はない。ただ怒りが湧かず、無感情のままでも殺害は可能というのを、去った二人組が知るわけもないようで呆れるばかり。何て隙だらけだ。

 この先が思いやられる。これだけ焦らされたのだからと期待が高まるも、敵軍の幹部クラスがあの程度であれば蓄えた戦意も萎えてくる。

 世界の果て、無いはずだった世界地図の先。未知なる西大陸。

 その最初の国で出会った、麗しき褐色の姫君。尚も目に焼き付いたままのコバルトブルーと、未だに謎な目元の模様。

 今や紅蓮となった恩人を前にして、連中が紅蓮に染まる姿を想像する。

 そんな救いようのない俺を、シシーラはきっと今も信じ続けている。

「ザーレ……ごめんなさい。貴方の貴重な時間を奪ってしまって。こういうの、好きじゃないって知っていながら……私は自分の我儘を優先した……。たとえ一欠片でも貴方の愛が欲しい……そう望んだの……」

「欲しけりゃいくらでもくれてやるよ。それより随分と余裕があるな。死が怖くないのか?」

「怖いわ。だから、もうすぐこの時間が終わるから……その前に一つでも多くの言葉を貴方と交わしたいの」

 若い女の長は他にもいるが、中でもシシーラは群を抜いて幼いと常々感じていた。いくらか見栄を張っていたつもりのようだが、後がないと分かれば加減なしか。

 全く、あんたは初めからそれで良かったのに。

 小さいと錯覚する手は冷たい。握る力を少し強めれば折ってしまいそうな繊細さは生まれたばかりのようだ。

 真実は伝えない。俺は救世主でも英雄でもないが、誰よりもこの身を案じてくれたあんたが期待を寄せるのであれば、融通を利かすくらいはしてやれる。

「何も怖れる必要などない。もしあんたの旅立つ世界が地獄の様相だったとしたら俺のことを思い出せばいい。どうにかなる、どうにでもなる、そう思えてくるだろう?こっちが諦めたとしても、どうせ誰かが手を差し伸べてくる。簡単だろ、生きるのなんて」

 デタラメを黙って聞いていたシシーラが落涙した。女王故に我慢し、溜め込んでいたもの。

 あるいは、俺が嫌いなものだから堪えていたのかもしれない。

 彼女の起伏は慌ただしい。子供にもなれるし、大人にもなれる。魅力に底がない女だ。

「そっか……それならもう、大丈夫かな。ここには貴方がいる。貴方の意志を連れて私はようやく旅に出られる。誇り高きザーレ……貴方に見つめられながら逝けるなんて幸せ。貴方は生きとし生ける者だけでなく、死にゆく者の心さえも救ってしまうのね」

「当然だ。何せ俺は、平和の国の女王が認めた男だからな」

 目蓋に溜まる遮蔽物を除くため、シシーラはゆっくりと二度瞬きをする。一度毎に終わりを覚悟するも、彼女は生まれつきの優位性でどうにか命を繋ぐ。

 そして、優位性など『永久』ではないと、これまでの自身と、知る限りのあいつを重ねて……。

「覚えていますか?ミレイヤさん、貴方に感謝しているって……。自信はないけど、きっとそうに違いない。それだけはちゃんと伝えたくて……」

「ああ、分かったよ」

「ザーレ……太陽や熱砂をも凌ぐ激しい業火。輝く人。貴方の篝火を信じて私は……」

 

 ――初めての暗闇を怖れずに歩いていける。


 そのようなことを伝えたかったのだろうが、シシーラはもう声を発せなくなっていた。

 いくら何でも無茶し過ぎだ。タフなのは知っているが、それにしてもはしゃぎ過ぎたな。

 仕方ないから、たとえ噛み合わない結果になろうとも、まだ生きていける俺の方は馬鹿正直に返事を返してやることにした。

「安らかに眠れ。あんたの生涯は見事だった。誰にも否定できない完璧な正義があった。俺はもう変われないが、少なからず影響を受けたのは本当だ。こんなことを口にするのは俺らしくないとあんたも分かっているだろうが、俺こそあんたに救われたんだ。ありがとう、デ――」

 柄にもないことをやれば失敗に終わることが多い。今回など最初から成功の目がなかったも同然だろう。

 去り行く彼女へ伝えておきたかった言葉。本当の名前を発することも、届けることも叶わず、無のまま消失した。

 シシーラは目蓋を開いたまま動かなくなっていた。一生命としての活動が終了し、二度と再起動などしないことを、抱き締める腕が温もりを感じていないことで理解する。

 彼女はもう旅立ったのだ。俺よりも先に。

 言葉はない。泣き叫ぶこともない。それは今も昔も変わらない。思えばミレイヤを射殺したあの時から、俺は実体だけを残して心だけが亡き者のように冷めていたのだった。

 ただ、沈黙が虚しい。繁栄のサンズアラとは思えない静寂だ。これから始まる戦いの動機に復讐が含まれないことで自らの薄情ぶりを実感しようとも、自責の念までは感じられず、彼女が尚も眺め続けている遮られた空を共に見上げるしかなかった。

 まるで、生気を失くしたコバルトブルーのカラー。そこで初めて、報われるべきだった彼女の凄惨な運命に同情を覚えた。

 それほどシシーラは俺の中で欠かせない存在になっていた。新たな色彩を得るきっかけ、乾燥したこの身を潤し、返しきれないほどの幸福を与えてくれていた楽園オアシスの女神だったのだ。

「見ていてくれ」

 独り呟き、彼女を横抱きで持ち上げてセーフハウスを目指す。神聖とされるであろう王と神の狭間に、人を愛し、人として生を全うした者の血を垂らして。

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