一欠片のパッシオ Ⅱ

 街並みに異変なし。普段は今より遅い時間に出掛けるので、行き交うみんなの顔やお店の準備具合などの差異が面白いです。

 平和とは維持すべきもので、変わる場合には多大なリスクを伴うとされていますが、こういった和やかから、別の和やかへの変化であれば案じることなど何もありません。

 ただ、大荷物の私を心配して声を掛けてくれる方々には申し訳なく思いますけど……。

 サンズアラの営みは平常です。昨日までと全く同じ、ザーレ相手に遠慮なく晒した血気とは無縁の優しさに溢れた世界がここに在ります。

 賑やかになるのはこれから。まだその前段階。それは何よりです。

 ……だというのに、饗宴の夜でない限り静粛にしなくてはならない『この場所』は、いつにも増して静か過ぎる。

 すぐにおかしいと気付いて駆け出しました。広場を越え、並ぶ巨大なピラミッドの左側、私の根城……王のピラミッドの入口を潜ると、異変は確かな現実として私の頭を押さえつけてきました。

 ピラミッドの周辺は無用であればなるべく近寄ってはならないという暗黙の了解があります。子供たちはお構いなしですが、あの子たちもこれから朝食を始める頃のはず。幼い喧騒などありません。

 門番・スールのように、万が一に備えて入口やホールに衛兵を配置しているというのに、彼らの気配はなく、沈黙の限り。

「な……ぜ……」

 実際、今日の平和に大きく貢献してくれている彼らはここにいます。その体はあるのです。ただ……。


 誰も彼もが……露出した上半身から血を流したり、逆に血の抜けた白い相貌に化けては嘔吐した跡だけを残して絶命しているのでした。


 ザーレと繋いだ関係性、未練を纏う衣類を足元へ落とし、肩に掛けた木箱もスルリと落下。それが悲鳴の代行でした。

 夢幻ではない。現実なのだと分かっていても事態まで受け入れることはできず、あまりに長時間、実際には数えるほどの時を呆然と見送ってしまいます。

 誰かを呼ぶことも、恥を捨てて泣き叫ぶことも出来ない。

 痛感しました。私は半端者の偽善者。私はただザーレに憧れていただけで、彼のように冷静に次の行動へ移ることなど出来やしないのです。

「シシーラ姫!」

 王宮内部から私の偽名を叫ぶ声が聞こえて我に返ります。

 駆けつけてくれたのは、精悍な顔立ちに金の兜を被る、私と神の側近、神官長・デルタでした。未だ真意の見えない彼が、誰の目にも明らかなほど情愛の込められていない冷めた眼差しで私に迫ります。

 ザーレの言葉やスールの顔を思い出すと、神官長に対する不信と警戒心がより高まります。

 それだけです。私には何も出来ませんから。

「敵襲です」

「敵?カラスですか?」

「そこまでは。危険ですので、部屋へお戻りください。部屋の前に信頼できる者を付けますので」

「待って!何か……何かおかしい気がします!」

プリンセス、私は神たるイシュベルタス様と王たる貴女の架け橋なのです。あの方はシシーラ姫の身を案じておられるのです。従ってください」

「それならイシュベルタス殿に掛け合ってください。非常時であれ、今すぐに話がした――」

「従ってください。貴女など、世襲制で王になれただけの凡俗でしょう?馬鹿に束ねられるのは馬鹿の庶民だけですよ」

 貧血のように視界が眩む中、弱る心で神官長の冷めた瞳を睨むも、抵抗はそこまで。ザーレのように叱れません。

 サンズアラの平和に貢献する者全てを愛してやまない私にとっては不敬を表した神官長さえも庇護の対象ですから、彼なりに私を心配してくれているのでは……なんて期待を捨てきれないのです。

 きっと、ザーレには見破られていたのでしょうね。王位も、イシュベルタス殿も関係ない。私が『シシーラ』だからこそ、彼は女王として君臨する私を常に否定していたのです。

 

 神官長の後ろに続き、自室を目指して回廊を歩きます。その道中にも多くの衛兵が伏していて、視認するたびに胸が痛んでは視界がぼやけていきます。

 神官長は動かなくなった彼らに目もくれず、一々動揺する私にも構わず奥へ進みます。

 彼は当然私たちの味方で、時に私の我儘を見逃してくれました。しかし、今はとても逆らえる空気ではありません。改めてあの絶対零度の眼差しに睨まれでもしたら、私はきっと挫けてしまう。

 私の部屋はホールから真っ直ぐ、ひたすら真っ直ぐに進むと見える王の間へ至る門……その手前にある階段を上った先にあります。一人で使うには大袈裟な間取りで、部屋の空洞からは神のピラミッドと、その狭間が覗けます。

 神官長が先を譲り、階段の手すりに触れる寸前、王の間の扉がゆっくりと開いてつい硬直してしまいました。

 現れたのは神たる参謀の妹君。空洞から顔を出して物思いに耽る時、向かいのピラミッドから同じように顔を出してくるため揚々と手を振るも、決まって奥に引っ込んでしまうおしとやかな令嬢、スカベロ殿です。

 彼女がこちらにいるのは珍しい。記憶にないほどです。失礼でしょうに、過去に例のない事態に更なる不可解が重なって、つい「え?」と疑問符を放ってしまいました。

 やっぱり私は嫌われているのでしょうか?私と目が合った瞬間、自然だったスカベロ殿の表情が悍ましい悪鬼に支配されたように歪んでしまいます。本来優しい印象を受ける顔立ちで、生まれ持った苦い体質にも屈さず、誇らしく在れる彼女に対して初めて怖さを感じました。

 嫌われている、なんてものではありません。私の考えが至らないせいで彼女は機嫌を損ねている。

 ……そこが私の限界でした。

「シシーラ姫、今までどちらへ?この、火急の際に」

「……あっ」

 明らかな嫌悪を込めた低いトーンと鋭い目線で詰められると、全身が麻痺して動けなくなりました。私は彼女も、呪いを負うその生涯も平等に愛していかなければならないのに……それは決して叶わないと、始めから薄い自信を更に損ねては、神官長が知らないうちに私から距離を取っていることに遅れて気付くのでした。

「私……えっと、昨夜は仲の良い女の友人と……」

「隠さなくていいわ。私と同じようにルーシャス様から寵愛を受けたのでしょう?」

「ちょ、寵愛!?」

 嘘を吐かれたことが不快だったのか、または私に彼を横取りされたと誤解しているのでしょうか?一晩まぐわい、愛し合ったことでスカベロ殿はザーレの虜になったのか、美貌を崩壊するまで乱し、私より少し長い髪をクシャクシャに掻いては歯軋りするのです。

 それから寒気を堪えるように両腕を組んで白つるばみ色のドレスの裾を掴み、ブツブツと小言を唱えます。こんなスカベロ殿は見たことがありません。

 それほど辛いのなら私の手で解放してあげたい。……私のこの本心は、空気が読めていない事になるのでしょうか?

 ザーレ。ミレイヤさん。尊敬する二人ならどのようにこの場面を切り抜けるのか。これまでの惨状が脳を汚染して、判断どころか状況整理すら儘なりません。

 これが私の器。恵まれただけで自らは何も獲得してこなかった裸の王さま。スカベロ殿はきっと、その判決を言い渡すためにやってきた真なる神の代弁者なのです。

 その資格を有していることも踏まえ、仮に貴女がこの惨劇の主犯であったとしても、私自身が情けないのだから激怒することさえ出来やしません。

「ルーシャス様は、私や他の女について何か言っていた?」

「い、いえ、特には……」

「あの方は本当は誰を愛しているのでしょうねぇ。それも教えてもらえないまま別れるなんて嫌だわ。貴女もそうでしょう?」

 ザーレにはサンズアラに残ってほしい。それも本心です。彼と過ごす時間が束になるなんて……とっても素敵。

 ……でも、それ以上に私は……一箇所にこだわらず、自由に世界を渡る彼の方が良い。私はそんな彼だからこそ……。

「ねぇ、シシーラ様は知っているの?彼の本命を?」

「……いえ、それは彼の問題ですから」

「つまり知っていて隠すつもりなのね?そんなの卑怯じゃない?不公平よ」

「ごめんなさい。けど、教えられませんから……」

 一歩、一歩と狭い歩幅で近づいてくるスカベロ殿は、先程と比べれば落ち着いた様子。私が知らなかっただけで、癇癪持ちだったというだけの話かもしれません。

 それでも恐怖は拭えない。澄んだ瞳がむしろ不安を駆り立てる。

 理由は明白です。私はスカベロ殿も愛していかなければなりませんし、それは望むところだというのに……私には無効とされる『それ』が迫ると、どうしても警戒してしまうのです。

 健康が心配になる彼女の細い両手が伸びてきて私の両肩を掴みます。私は目で追うばかりで未だ動けずにいます。

 その力は控えめ。一安心しました。もしかしたら、彼女こそ本当は照れているだけで、私との友情を育みたいと願っていたのかもしれません。

 ……なんて。

「スカベロど……んぅッ!?」

 甘い考えが決定打となりました。だってこれ、私こそが格上の彼を相手に何度も試みてきた脆いフリ……狩りの手法ではないですか。

 一抹の不安に終わると信じたかった彼女の唇が私の唇を温める。取り乱す気が起きず、じっと大人しく、自らの喉を鳴らす音だけが脳に届きました。

 その支配力に逆らえない。事前に蛇の睨みを受けていた私はスカベロ殿の贄も同然、疾く引き剥がすべきだろうに、目蓋を閉じて毒蜜の味を噛み締めてしまったのです。

「やめて……!」

 解放されるには武力より無理やりの気力回復が求められました。突き放したのは私なのに、スカベロ殿は途中の衛兵たちみたく動じず、私の方が後ろによろけてしまいました。

 そして、これまでに多くのカラスたちを不可抗力か失恋により葬ってきたとされる彼女の致死毒が本物であること、その体質を操る彼女が殺人を躊躇わない猟奇性の持ち主であると分かりました。

 ですが、これにより私が死に至ることなどありません。この身は生まれた瞬間から水の女神に等しい神性を帯びており、毒熱など受け付けるはずがないからです。ただ唇が痺れを感じるだけ、一度の洗顔で取り除ける程度のものです。

「私の毒は即効性。耐性が強くても立ってはいられないはずなのに、やっぱり貴女には効かないのね」

 体に異常はない。気分が最悪なのは毒のせいではない。

 もう、何が何だか分からない。

 平和の国の中枢にウイルスが撒かれている。非常時に備える訓練で手を抜いたことなど一度もないのに、それも全て下らないと嘲るように、真剣に取り組んでくれたみんなが簡単に死んでしまった。

 加えてこのタイミングでのスカベロ殿の暴走。理解し難い情報の山を眼前に、暫し目を閉じてしまえばそのまま深淵に堕ちてしまいそうな気がした。

 そして、それは全くその通りだった。

 私が敗北を認めたと察し、偉大なるサンズアラ国の神々とは異なる、比較すれば無骨となる人の意志により引導を渡される始末。

 もう遅い。スカベロ殿は囮だった。

 知らないうちに端へ避けていた神官長・デルタの気配が、気付かないうちに私の背後へ回っていたのです。

 誰も責めようとしなかったツケ。既に制圧された過去の拠点にて、武器も持たずに踊らされていたお馬鹿な頭に晩鐘が響く。


 ――ザクッ。野菜を切るのと大差ない鮮烈な効果音。それが私のお腹から聞こえてくるのは初めてのことでした。


「あっ……あぁ」

 私と違って彼は衛兵共通の槍を携えていた。普段の彼は指揮を執るのが中心で得物など携えていないけど、今は緊急時だからと疑いもしませんでした。

 その矛先も今や私の腹部を貫き赤く染まる。鉛のように長くは嗅いでいられない激臭がそのまま口臭となり、我慢できず吐き出してしまいます。

 嗚呼……綺麗に整備された回廊を汚してしまってごめんなさい。血って、こんなにいっぱい出せるんだ。

「うぅっ……ぁ……」

 叫びは上げられない。寒い。すぐに息絶えることはなくとも、何もできずただ呻く。眼前のスカベロ殿の尊顔と眠気を秤にかけて呆然とするばかり。

「協力はここまででいいですね?約束、忘れないでください」

「ああ。私が向こうへ戻り次第イシュベルタスが号令を上げる。イシュベルタス派……いや、私とガッデラ、同志たちは、これまでの王政・サンズアラを滅ぼし、サンザーク王が本来夢見た闘争の国を築き上げる。手始めにこの娘を殺す。お前の欲するあの男も殺す。イシュベルタスも隙を窺って殺す。シシーラ派や、平和を愛する弱者も全員殺す。決着がついた後でなら人斬りの遺体など好きに使えばいいさ」

「ええ、ええ!それはとっても明るい未来ね!私、初めてこの国を好きになれそう!うざったいこの女や兄様がいなくなった後、神の腸で私はミイラと化したルーシャス様と死ぬほど愛し合うの!」

 用の済んだスカベロ殿が退場する。神官長は「このくらいで丁度良いだろう」と呟き槍を引き抜くと、私は膝を震わせながら立ち続けるも更に血反吐を漏らした。

 えっと……それから……もうあまり深く考えられないけど、一つだけ未練が残っていたから、最後最期に彼と会いたくなって、ミレイヤさんのようにお似合いの女になれずとも、やっぱり私は半端者だから、彼の愛情の一欠片でも欲しくて、堪らなくて……普通よりしぶとい生命力など関係なく、野心のようなものを原動力に階段を駆け上がって、部屋の空洞から迷わず外へ飛び出しました。

 昔のように綺麗な着地など不可能。斜めの壁面に赤いインクをべったり付着させながら『狭間』へ転がり落ちていきます。

 今すぐ彼に会いたい。そのためには、もうこれしかなかったのです。

 慌てて駆けつける足音。彼ではありません。

 これは、これからも末永くサンズアラの平和を謳歌してほしい大切なあの子のものですね。ここは王家の人間しか通ってはいけないとされる神聖な道ですので、五感全てが鈍くなっても分かりますよ。

「姉さん!デルタ姉さん!いやああああああっ!!」

 本名を呼んでもらうのは本当に久々でビックリしました。

 そう、貴女にも謝らなくちゃいけないことが沢山あるの。残る唯一の家族、妹のエリーネ。私よりも明るくて、誰よりも王に向いていた貴女。私と同じ顔で、私より上手に感情を表出できる器用な子。

 涙を流す彼女をぼやけた視界で捉え、「ザーレに会いたい」と、最後のお願いを伝える。彼女はすぐに立ち上がり、愛しき人たちの待つ広場の方へ走り出した。

 良いのよ。貴女はそっちでいい。こっちに来ては駄目。…………生きて。

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