セーフハウス Ⅲ
背後で家主が驚愕した。サンズアラで最も誇り高い女に違いなく、自らの器を貶してまで国を守らんとする姿勢にも好感が持てるが、思いのほかうるさい。
シダーズは無反応。関心がないわけではなく、おそらく俺がこう出ると分かっていたのだろう。
椅子からベッドへ腰を映したオカマは、凹んだ頬を撫でながら野太い溜め息を吐いた。
今や闇の住人であることを隠しているようにしか見えない、本来清潔な印象を受けるオールバックヘアーに、今やどっちつかずのダブルスパイであることを主張しているようにしか見えない、本来センスを評すべきチェック柄のベスト。
それらがトレードマークの酒場のマスターは、家主が扉を閉めるともう逃げられないと悟り、大人しくこっちの言葉を待った。
口火を切るのはエリーネ。俺たちには無理だ。君がまとめてくれ。
「えっと、今ので勘弁してあげてほしいな」
「それはこいつの態度次第で」
エリーネにも自身を守る術と、このような逃げ場所の備えがある。
であれば、護衛はシダーズ一人だけで十分というのが実情だ。疑惑のスパイにはこの場で退場してもらうのが得策に違いない。
しかし、我が王は疑惑の段階にある者を無情に切り捨てなどしない。誰でもなく彼女が倒れた椅子を机に戻すせいでこっちの熱気も失せてしまう。眼鏡の位置を直すシダーズがエリーネに手間を取らせる形となった暴走を嘲笑っていた。
舌打ちしてからロゼロを眼力で圧してポジションを交代させる。ベッドに腰を下ろし、髪を掻いてから短い沈黙を破る。
「貴様を陣営に招くかどうかで悩んでいる」
「私の雇い主はイシュベルタスであり、エリーネちゃんよ」
「私は信じるよ!」
あくまでダブルスパイのスタンスを保つ。イシュベルタス側としても、エリーネ側としても。
ある意味で最も不利な孤立した立場で、他に類のない特殊な立ち位置とも言えるため面白いのだろう。シダーズ同様、命の危険に晒される明日が待ち受けているのにまるで焦りがない。
その理由は、エリーネには難解だろうが、俺には理屈を挟まずとも理解できる。
片目で瞬きをするオカマにエリーネはただ真心で願うだけ。生きてほしいと。
これは交渉だ。信頼するかしないかの問題であり、エリーネは信じる一択なのだから、それ以上言うことがない。
あとは、こいつの本音。どっちかと言えばどっちなのかを明らかにするのは、俺がやらなくてはならない。
「こいつがそこそこやれるのは知っている。少なくともカラス単体ならどうにかできるくらいは。だがエリーネとシダーズもそこそこやれる。はっきり言うがこいつは不可欠な要素ではない。敵に回るとしても左程面倒ではない。各個人としてではなく、エリーネ陣営として勝利を収めたいのなら、こいつはここで始末するのが賢明だ」
「待て人斬り。私は案外か弱いかもしれんぞ」
「よって、本題は貴様のその後だ。結果が出た後」
「その後……」
シダーズをシカトして、机に寄り掛かるオカマの顔を見上げた。一方の頬が凹んでも相変わらず不敵な態度だが、話が通じる相手だと既に知っているため不満を抱くことはない。
俺がこのように語るのもどうせ読み通りなのだろう。フフ……と優しく微笑むばかり。狼狽えたのはエリーネだけだ。
「俺たちの側につけば、俺たちが味方になる。加えて官軍だから、戦争後の安全も一先ずは保証される。この国に残るも出ていくも選べるほどにな。だが敵に回るとほざけば碌な死に方はできなくなる。ここで見逃してやっても結局はイシュベルタスの号令でカラスのエサになるのがオチだ。はっきり言っていたぞ、貴様にも鳩になってもらうと」
絶体絶命の想定に顔色が悪くなるのはエリーネだけ。彼女からすればとうに大切な仲間の認識であるため、逆賊を一掃する覚悟はあっても、まだ本心を明かさない半端者でも寄り添わずにはいられない。
人の上に立つ王者には余分な甘さであり、王位に関心を持たなかった彼女の性分そのもの。
「イシュベルタスは貴方の到来を待ち焦がれていたわ。これまでの全てが貴方という異分子とのゲームを堪能するため。平和の正体は戦力の温存でしかなかった。そして、それが成就されるとなれば私は不要となる」
「ねぇ、今更だけどイシュベルタスは戦いに勝利したらロゼロやシダーズに関心が無くなるんじゃないかな?」
戦争を知らないエリーネはまだ希望を捨てきれずにいる。殺伐とした構成員を束ねるボスとしては温い発想だが、こっちが勝利した場合のサンズアラでは彼女のそういった甘さと信念が輝くのだろう。
だから、主君に対する不敬以前に、そこを指摘するのはお門違いな気がして遠慮した。
「いや、イシュベルタスは必ず俺たちを殺しに来るよ。俺だけでなく、俺と手を組んだ人間、神の意向に背く民草にも容赦はしない。もう政治ではなくなるからな。それに、奴は役者不足が粋がることを嫌うんだろ?」
聞いた噂をそのまま引用すると、それを流したシダーズは「そうだ」と頷き答えた。
「それなら今のうちに逃げ出しちゃうってのはどう?」
「え……」
悪魔の誘惑だ。俺とシダーズにとっては魅力的な提案だが、それだけは困るエリーネだけがより不安気な表情で汗を垂らす。
しかし、俺としてもそれはない。その線で行くのならとっくに実行しているし、追っ手の数にも限界があると知った上でもその提案は受け付けられないことになっている。
それができなくなった理由がいくつも残っているからだ。
「却下だ。俺は貴様ほど不人情じゃない」
「私もやめておこう。というより、状況を見てだな。この男が敗れた場合のイシュベルタス陣営の士気次第では考えを改めるが、今はこれでいい」
「あら、二人とも女の子に甘いのね。それともやっぱり水分補給が目的かしら?ここは砂漠の中にある人の営み、貴方たちからすればオアシスをも凌ぐ潤いを与えてくれる楽園だものね」
「上手いこと言うじゃねぇか。……で?」
わざとらしく挑発されるのも怠い。同じく無粋を嫌う者同士なのだからさっさと考えを表明しろや。
俺たちだけなら御託も並べないだろうに、エリーネの不安を煽るか、あるいは君主としての器量を試すためにあえて悪役を演じる。もう一人の雇い主の陰気が伝染したのか。
「エリーネちゃん、この二人を信じていいの?二人がやばい人種だってことは知っているはずでしょ?」
「分かってる。でも、もう決めたの。だから、ロゼロにもここで決断してほしい。向こうにつくなら見逃すし、斬らないようにお願いするから」
「あら、飼い犬が主人を手懐けたみたいね」なんて言いた気な面でこっちを一瞥するダブルスパイ。
基本はエリーネの腹積もりに合わせるつもりだが、それはそれとして、向こうにつくなら無傷の方にも一発かましてやるところ。
「拷問官・シダーズ、意外だわ。アウトローのザーレちゃんだけでなく、ハードボイルドの貴方までもが付き合うつもりだなんて。逃亡生活がいかに鬱屈かを専門家に聞かされたのかしら?」
「私は拷問官ではなく拷問師だ。生憎だが、肩身狭さは昔からでな。正直そこまで窮地とも思っていない。逃亡生活と言うが、それは私にも経験のあることだ。何せどこに居ても要注意人物として扱われてしまう職業だからな。もっとも、私が仕事に対して真摯であると発覚して以降は追っ手も絶え、好きにやらせてもらっているが」
「その悪運もイシュベルタスとの出会いにより尽きた。ザーレちゃん共々、平和の国は息抜き程度に済ませて、厄介事になる前に退散すべきだったのに、タイミングを見誤ったわけね」
「そうだ。私としても逃亡生活は避けたい。よって、神が駄目なら死神にベットすると決めたのだ」
シダーズがコートの内ポケットから一つの石を取り出した。話にすら出てこないもう一陣営の長の瞳と同じくらいの大きさ、よく似た深い青色を誇っている。机の上、ロゼロの荷物らしき風呂敷の隣に並ぶキャンドルグラスにより視認しやすくなっているはずなのに、それを凌ぐ存在感のサファイアで、その持ち主の一端である王家の娘はやはり驚愕した。
この宝石こそがシダーズが俺に支払う報酬であり、サンズアラを欺いてでもサンズアラの平和を願う娘の側につくための意思表示なのだ。エリーネも協力を乞う立場のため、真っ当に盗みを咎めることはしなかった。
初めて示されたが、シダーズはシダーズなりに俺の腕を買っている。エリーネだけなら勝利の女神として歓迎できるが、都合よく利用し合うだけの関係でしかないこの血生臭い男に憑かれるのは不穏だ。
しかし、条件は悪くない。報酬など始めから無いものと思っていたのだから。
照れていると誤解されそうだが、このタイミングで再度上半身を裸に剥いてベッドに横たわった。それでエリーネがこっちに寄り、独房と同じ格好で回復魔法を展開してくれた。綺麗な両の手から薄緑色の光が放たれると、ロゼロは俺にこう問うた。
「ザーレちゃん、やっぱり主役は貴方よ。貴方が敗れたら陣営どころかこの国が傾く。サンズアラの民衆も、シシーラ姫もどうなることやら」
どう答えるかなど見え透いているだろうに、やはり俺の口から発さないと納得できないか。
無意味な問答に欠伸が出るも、眠りに就くより先に仕方なく言葉を残した。
「俺が負けることはない。俺にベットした人間は今のところ全員幸せを掴んでいる」
「あら、噂にもない素敵な話ね。でも、万が一敗れたら?」
しばらく開けるつもりのなかった目蓋を開放してオカマを見る。
変わらない。港町の酒場でカウンターを挟み語らった時と一緒の眼差しがあった。
「その質問には東で答えた」
ロゼロの目蓋が通常より見開かれた。
その表情も既知。俺から不意打ちを受けるとこいつはこうなる。
「……ええ、貴方はそういう男。それは噂でも何でもなく直接確かめたことで、エリーネちゃんには隠しておいた危ない部分。無敵の存在は自分から隙を作るしかないものね」
不意に名前を呼ばれたエリーネが魔法を緩める。交代して俺は一度鼻で笑って目蓋を閉じた。
両の眼が蝋燭の暖色を映すことは当分なく、誰が相手でも敗れることはないと慢心する自身よりも睡魔に酔わされ、耳や鼻の機能もゆるりとゼロに落ちていく。
朝まで眠るのはまずい。最後に一言だけ残しておきたかったが、結局それも阻まれる形となり、「あっ」と一音だけ零すのみとなった。
その音にエリーネが気付き、俺の伝えたかったことを察してくれたら一生崇拝してもいい。
「エリーネちゃん、この男はね、オアシスを求めてここに来たのよ。ただ酔狂に乗っかりたかっただけ。平和の真逆に位置する世界の獣なの。昨日より表情が明るくなったけど、まだお目覚めとはいかないようね」
ロゼロの戯言が実際の声音より小さく感じながらも確かに届いた。
治癒の快感により入眠は早まり、次いで港町の潮騒が聞こえてくるような気になると、ウイスキーの味まで思い出されて意識を閉ざすのは容易となった。
最果ての酒場でオカマのマスターにボトルを提供されたあの瞬間、あるいは誰の記憶にも残らない早期からこの身は既に酔っ払っていて、眠気覚ましの(快楽に溺れる)機会を求めてここまで渡ってきたのだ。
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