独房 Ⅴ

 閉じた目蓋はすぐさま覚醒を余儀なくされた。地下の最奥にあるこの部屋へゆっくりとした足取りながらも迷わず迫るサンダルの音が、ある特定の人物のものであると本能で気付き、引いた汗が戻ってきた。

 コン、コン、コン、コン。

 シダーズに肩を預け、亀の速さで歩く俺と同じくらい鈍い。その呑気さだけでもガッデラや、俺に恨みを抱える他の連中でもないと分かる。

 それならもう、あの女以外にあり得ないだろう。

「……シダーズ様?」

 予想した通りの繊細な声音が廊下から聞こえてくる。室内のこっちからも、向こうからも互いの存在は視認できないが、話を知らされているのなら右から三番目の独房に俺の姿が見当たらず困惑しているはずだ。

「スカベロ嬢、いかがした?」

 俺だけでなくこの男も向こうにいなければおかしい。そういう状況だろうに、俺を隠すべく入室を阻む位置に立ち、一芝居打って出た。

「いえ、あの方は……」

「あの方とは?」

「ルーシャス様です。貴方やガッデラに折檻されるのだと聞きました。しかし、どの部屋を覗いても彼の姿が見当たらないのです……」

 立ち竦んでいたスカベロが再び動き出す。まだ未確認のこの部屋を検めるために。

 シダーズも力尽くで追い返すことはできない。いきなりの万事休すか?

「あとは貴方の部屋だけです。そこにいるのですよね?ルーシャス様は……」

 案の定、相当気に入られてしまった。ここからでもスカベロの興奮を抑える相貌が目に浮かぶ。同じ暗がりでもまだ快適だった二階の部屋で拝み、まぐわった女の悦ぶ姿が。

「彼はここにはいない」

「それは嘘ですわ。貴方の部屋から確かに彼の気配がしますもの」

 女は引き返さない。脱走した等の嘘で切り抜けるには向こうの執念が手強く、シダーズではスカベロを止められない。

 コン!コン!コン!コン!サンダルの音が徐々に大きくなる。スカベロの執念が余程であれば見逃してくれる場合もあるかもしれないが、それ故に厄介な問題が残るため、いずれにしても無事では済まない。

 その証拠に、シダーズの隣に並びながらも廊下から見えない位置に控えていた女神がスカベロの視界に映った瞬間、タダで脱出することは不可能となった。

 足音が止まり、暫しの沈黙。いかに張り詰めた空気なのかは、妹ではなく姉の方に対してスカベロが隠しきれず漏らしていた黒い感情により読み取れる。治癒が中断されて半端なまま放置されているため、却って治療前よりも呼吸が難しく、より息苦しい思いに駆られた。

「シシーラ様?いえ、貴女……」

 出会ってしまった魅惑的な二人の女。スカベロは姉と瓜二つの妹を見て言い淀み、エリーネは一言も発しない。それは緊張や気まずさによるものではなく、おそらくは異能に等しい蛇の威圧によるものだろう。

 何も知らないフリをしてやり過ごすつもりでいたがそうもいかなくなった。俺を庇いつつ一歩廊下に出たエリーネの横顔を覗くと、恐怖というほどではないが確かに切羽詰まった動揺の顔色をしていたからだ。

「どうしてエリーネ様がここに?」

「えっと……」

 万が一争うことになればシダーズがどうにかするだろう。昨夜カラスたちを退けたみたくエリーネも動ける女だ。スカベロに負かされる展開というのはまず無い。

 しかし、エリーネの立場を考えると不和になるのはまずい。具体的な目的はまだ聞いていないが、イシュベルタスがエリーネを明確に敵と判断したら余計な問題が増える。

 あの暴君からすれば、王家でありながらも王ではない妹さまは『使えない人間』として扱える。明日、緩やかに巻き起こる予定の戦争の影で密かに暗殺され、それも俺がやった事だとしてでっち上げられては寝覚めが悪くなる。この国を脱出した後もしばらく引きずる恐れがある。

 厄介事など今更だが、選べるものは選びたい。それならいっそ……。

「意味が分かりません。ここにはルーシャス様とシダーズ様以外の人間はいてはならなかった。だというのに、よりにもよって貴女が――」

「そう怒るなよ、スカベロ。妹さまは俺の治療に来てくれたんだ。拷問を何度もやり直すためにな」

 驚愕するエリーネと少し目を見開くシダーズ。それぞれ部屋で寝転ぶ俺の声に反応する間にスカベロが駆け込んできた。昨夜ベッドへ運んだ時と同じく幼い娘のように照れながらも嬉々とした様子で、相見えるだけで落涙するほどだった。

「ルーシャス様……」

 この女こそ何故このタイミングで地下を訪れたのか不明だ。俺に会いたいだけならコロシアムを観戦すればよかったのだから。まさか今さっき起きたわけでもないだろうに。

「良かった……生きていらっしゃったのですね」

「必殺の毒でも死なんくらいだからな。素人の拷問などわけないさ」

 感涙に咽ぶ女の後ろでシダーズが眼鏡の位置を直していた。エリーネは呆れた様子……ではなく、やはりまだスカベロを警戒している。俺の戯言も耳まで届いていないよう。

 シシーラと違い冗談の通るノリの良い相手だと思っているが、俺にとってスカベロが危険な存在でないというだけで、普通はこの毒蛇が自分の近くにいるだけで命の危機に怯え、余裕を損なうところなのだろう。

「何しに来た?あんたもそこの変態と同じ趣味か?」

「いえ、貴方の命が危ういと思ったので……」

 妙なタイミングで身悶えするスカベロ。それだけでここに現れた理由が明確となった。

「悪いがあんたの望みには応えられない。俺は今からここを抜け出す。邪魔をしないでもらおうか」

「はい。邪魔などいたしません。兄様にも黙っておきます」

「えっ!?」

 口を開くのも困難だったエリーネだが流石に反応した。だが、俺にはスカベロがこう言うと分かっていた。

 こいつはあのイシュベルタスの妹だ。奴がわざと俺に抜け道を用意したのと同じく、こいつは俺という異分子がサンズアラを荒らすこと以上に俺と再び絡み合うことの方が優先すべき事柄となっているからだ。

 全く、シダーズやエリーネも含めて、どいつもこいつも粋なのか物好きなのか分かりにくい。これでは曲者ぶりたいカラスの親玉があまりにも不憫だ。

「あんたの兄貴は俺が脱走すると知っているはずだから漏らしてもいいぞ」

「そう……ですね。あの、部屋の通気口を進むつもりでいたようですが、その必要はありませんよ。現在このピラミッド内部とその周辺には誰も配置されておりませんから」

「……なるほどね」

 ここまでやられては気が抜ける。いっそ捕える必要もなかったのではないかと。

 これではガッデラの機嫌を尊重して仇を殴る機会を設けただけだ。部下の信用のためにあえて寄り道を挟む。まるでイシュベルタスが理想の上司。裏の顔を知らなければそのように見えるだろう。

 体は未だ重く、もう一度シダーズに引っ張ってもらう必要があるが、敵が待ち受けていないと分かれば眠くなってくる。悲鳴を上げる上半身に歯ぎしりしながらも迷わず起き上がり、溜め息を吐いてからシダーズを窺った。奴は無言で小さく頷いた。

「それなら回復は後回しでいいだろう。のんびり堂々と退散させてもらうよ」

「ええ。けど、条件があります」

「何だ?」

「それほどの重症であれば今宵は我慢いたしますが、明日は是非とも私の下へ」

「あー……」

 目を逸らした。スカベロもまた俺の恩人となったが、昨夜を最後に今後は適当にやり過ごすつもりでいたのが本音だ。

 まぐわいの濃度は良かったが、その要求は受け付けられない。スカベロにも話したが、あらゆる誘惑を超越する至高の快楽が後に控えているからだ。

「悪いが無理だ。言っただろ。あんたとは昨夜限りだと」

「そんな……」

「あんたは綺麗だったよ。だが俺にも決して外せない用事があるんだ。今はこの様だが、なるべく万全の状態で臨みたい。分かってくれ」

「……分かりました」

 未練がありながらも俺の理想は通す。それがスカベロという女の執念の中に僅かばかりある潔さなのだろう。

 とはいえ、多分だがこれで諦める女じゃない。そうと分かっていても、俺の都合を汲んで引き下がってくれるとなると若干悪い気もしてくるというもの。

「代わりにシダーズをやる。こいつを毒殺してやってくれ」

「いえ、もういいのです。それなら――」

 ドレスを翻して早足で部屋を出るスカベロ。……それが、この場にいることが恥ずかしくなったからではないということに、俺より先にシダーズが気付いて反応した。

「ちょっ!?」

 エリーネがまたもや驚いた。理由は二つで一つ。急ぎ退散するように見せかけたスカベロがエリーネの唇を奪いにきたからと、その寸前、シダーズに両肩を掴まれて体を仰け反らされたことによりそれを回避したからだ。

 いくらカラス退治の運動神経や動体視力があろうとも至近距離からの不意打ちには対応できず、あと少しで絶命する未来を迎える羽目になっていたことに顔色を青くした。

「クソがっ!」

 遠慮なく暴言を吐いてスカベロは廊下を駆けていった。小さくなる毒蛇の背中を見つめ続け、エリーネの両脚が震えて崩れ落ちそうになるもシダーズがそれを支えた。

「シシーラ共々かなり憎まれているようだな。男の取り合いでもしたのか?」

「そ、そんな覚えないよ。何で嫌われてるんだろ……」

 重い体に鞭を打って一歩ずつ噛み締めるように前進する俺と、あれだけ長い時間踊り続ける体力がある割に今のでスタミナを全て奪われたようなエリーネには理解が及ばない。そんな俺たちを順に見てから「似た者同士だな。もう一波乱、二波乱はありそうだ」とシダーズが嘆いた。

 サンズアラの全容を把握したわけでもなく、この妹さまのことさえよく知らない俺は彼女と視線を交えて同時に首を傾げた。

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