幽霊船

 真っ直ぐ快速で海を泳ぐ船。おそらくその目的地と思われる小島が見えてくる。今はまだ手で摘まめる錯覚に陥るほど小さな三角形だが、そのサイズは船が波に揺れるたび大きくなり、港として視認できるようになるだろう。

 今はまだ砂で塗装されたような建造物にしか見えないが、上陸し、砂漠を越えた先には必ず楽園オアシスがあると信じて運ばれていくしかない。

 もし仮にこれがゴロツキとオカマが事前に口裏を合わせてでっち上げたデマで、向こうの世界が無人島や監獄だったとしても、いつまでも同じ大陸の上にいるわけにはいかない自分としては船旅が出来ている現状だけでも進展があったと言える。

 船客は俺だけではなかった。焼けた肌に軽装の老若男女が数人、距離を取って物珍しいように俺を観察していた。さっきのカラスたちも同乗しており、よもやここで再戦かと思ったが、罵倒を浴びせてくるだけでそれ以上の物騒は何もなく船内に消えていった。

 甲板にて佇む。潮風に髪がなびく。これだけでシャワーを浴びているかのような心地になれた。

 信用の難しい異文の人々に囲まれる中で摩訶不思議な体験に巻き込まれている最中に違いないが、それで調子が不安定になることもなければ、アトラクションとして楽しむノリにもなれなかった。大胆なリアクションを取るには場数を越え過ぎた。

 徐々に拡大されていく三角形をぼんやり眺めていると、背後から白い制服の男が近づいてくることに遅れて気が付いた。先程のオカマより老けた中年で、堀の深い顔立ちながらも口角が高く、常に笑顔を絶やさず日々を過ごしてきたのだと測れる朗らかな印象を受けた。

 間違いなく船員だろう。実際に生きているのか、それとも幽霊まがいの歪な存在なのかは不明だが、鬱陶しく絡んでくるわけではないようで追い払う必要もないと判断して言葉を待った。

 しかし、船員は何も言わぬまま銀のトレーに敷き詰められた小さなワイングラスを勧めてきた。ドリンクは全て薄い黄緑色のサイダーだった。

 船員は黙ったままだ。ただ笑顔のまま役割を全うしているだけで機械仕掛けのよう。こっちも無言で一つ摘まむと、満面の笑みを浮かべて他の客へ向かった。

 貰ったドリンクを一口含む。フルーツサイダーに違いないが初めての味だった。むしろバニラのような甘さで、それでいてしつこくない。特に、ウイスキーと唾液が混在して気味の悪い今に限っては理想的なお口直しだった。徒労とも取れるほど無駄にアルコールを摂取してから右へ左へ体を翻弄されている以上は酔い止めの作用もあるように思えるほどで、独りで爽快な気分を味わった。

 大海原を見据えながら二口目。経験上、これから碌でもないことが起こるのは覚悟しているが、なればこそ今のうちにこの快適な海の旅を堪能しておかなければならないと、些か逸る気持ちも湧いてくる。

 それに、海上にいるうちは優雅に過ごせるはずだなんて甘い考えだ。今現在、この身は幻の只中にいるわけなのだから。

 夢心地に浮かれていたつもりはないが、そんな俺の目を覚ますように真実を突き付ける呟きが聞こえてきた。

「黄金。獣。剣士。血の香り。戦い。……あなたね」

 繊細な声に振り返ると、さっきまで船員がいた地点に幼い娘が立っていた。

 白いドレスに白いサンダル。灰青色の髪はハサミで適当に断っただけのような粗さで首元までの伸び。丸い目蓋に同じく灰青色の瞳をはめた幽霊みたいなチビだった。

「……旅の人、聞いて」

 頷きもせず瞳の奥を覗く。見たところ他の船客たちと違って肌まで薄白い。俺と同じく招かれた例外であり、つまりは大陸側の人間なのかもしれない。

 例外が多数在ることなど特段驚くことでもない。それ自体は別に何もおかしくない。俺だって実際は選ばれし存在などではなく、故に重罪を犯した結果として当然のように追われる身となったわけなのだから。

 首を傾げるべきはこの状況だ。その例外の二人目がこんな子供である意味と、乗船した際のあの体験。甲板を見渡してもこれの保護者らしい素振りを見せる大人はいない。

 それに何より、このチビからは生気が全く感じられない。

 実在しているのか?まるで空洞と向き合っているような奇妙な感覚だ。それこそ、幽霊船に相応しい……。

 根拠がないまま答えを発見したつもりになり、仕方なく言葉を返してやろうとすると、チビは俺から何かを感じ取ったかのように元から広い目蓋を更に見開いては背を向けた。それからもう一度俺を一瞥してこう言った。

「……ザーレ、気をつけて」

「何を?どれを?」

 眉を困らせるチビの曖昧な心配を問い質そうとするも、やり返すように沈黙を貫かれた。

 何故俺の名前を知っているのかと問うのは幻惑の内側にいる以上は野暮とさえ思えて躊躇った。

 それにしても肌が白い。まるで一度も日光を浴びたことがなく、ずっと暗闇の世界で息を潜めてきたかのような儚い色だ。

 そんな幽霊まがいと入れ替わるように船内へ繋がる扉が開き、いつものゴロツキ共がやってきた。気を取られた一瞬のうちにチビはいなくなっていた。

「兄ちゃん、練習は終わりだ。今度こそ息の根を止めてやる」

 右手を負傷した輩、右手がない輩、胸に包帯を巻いた二人の輩が改めて立ちはだかる。勝ち目がない以上はもう突っかかってくることもないだろうと希望していたが、連中は懲りず勝利を確信しているかのように口角を歪ませていた。

 どうやら本当に勝算があるらしい。消えた幽霊については一先ず忘れよう。

「上手い殺し方は思い付いたか?」

「ああ、こっちも看板背負ってるんでね。向こうに着く前にカタを着けなくちゃならない。ここならあんたを出し抜けるしな」

「そうか。ホームグラウンドでなければ強気になれないか。まあ、モグラの分際で海まで来られたのならそれだけで立派なことだろう」

『先頭』のカラスは気さくに見せかけて気が短いというのはもう知っている。あえて卑下に扱い、憤りを呼び起こして術を引きずり出す狙いがあったのだが、またも空振った。

 それで動揺することもない。ここは既に俺の知らない領域で、魔法のように意味不明で現実味のない現象をたった今味わっている最中だからだ。不可解など、不可解として認めてしまえば不安要素にもなり得ない。

 見たところ連中の外見に変化はない。デンジャラスな秘密兵器も期待できない裸にズボンだ。一斉に襲い掛かっても酒場と同じ結果になることくらいは流石に承知のはず。そうなると……。

「この船か、あるいは……」

 こいつらの狙いに気付き、自然に右手が剣の柄を握った。

 やることは変わらない。この体勢により、それ以上近づいたら斬るという意思も伝わったはずだし、こいつらに敗れる嫌気は全く感じない。

 懸念といえばこいつらの態度だ。力量差は分かり切ったはずなのに、何故余裕でいられるのか。臆さず腰の短剣を抜き、ニヤニヤとほくそ笑んでいられるのはどうしてか?

 勝算を上乗せできる要素と言えば……あとはこのあたりだろう。

「ここは海の真ん中だ。死体遺棄にはうってつけ。加えて他の客も全員船内に移った。見世物としての体を装う必要もなくなった」

 そのつもりなら容赦なく斬殺する。遠回しにそう伝えた。

 格の違いを思い知った追っ手共はこれで引いてくれることもあったが、こいつらはやはり引かない。豪勢な料理を前にするように涎を垂らす始末で、まるでこっちの発言が鼓膜に届いていない。

 ベターなようで珍しいシチュエーションだ、これは。

 つまり見落としがある。こいつらはクスリをやるようだから、あらかじめ船内で大量にキメて、死の恐怖を紛らわせる『ゆとり』を整えてから俺の前に立ったなんて線もあるが、その他にも疑うべき点はある。

 俺が頭で理解するより先にそれは形を成し、答えは上空から無数に振ってきた。雨だ。

 しかも船の黒木が軋むほどの強風が突如として巻き起こり、小雨はすぐに豪雨へと切り替わった。

 要領のない俺だけが遅れたのかもしれない。他の乗客は暗雲の接近に気付いたから船内へ避難したのか。それにしては空も海に負けじと青一色だったはずだが……。

 楽園への方舟を嵐が襲う。転倒することはなくとも佇んではいられない。体勢を維持することを選んで柄を離した。

 その隙を右手の無いゴロツキが見逃さなかった。この時を待っていたのだ。

「死んで償え!死神野郎!」

 右手が無いのなら左手に持った短剣を振りかざしてくる。それくらいなら喧嘩の素人でも分かる。躱すか腕を押さえるかして反撃を繰り出せばいいのだが、不安定かつ読めない足場と残る三人の追撃も考慮すると、考えて選択する猶予はなかった。

 身を翻して突撃を躱し、勢い良く通過する固い尻を思い切り蹴飛ばした。落下を恐れて急停止したかったようだがそうはいかず、右手も左手も使えない男はそのまま海へ落ちた。まるで息絶えるかのように大袈裟な悲鳴を上げて荒波に流されていった。

 残る三人を警戒するため確認はできないが、背後で炭酸が弾けるような音がした。そういえばサイダーはどこにいったのか。

「何てことしやがる!」

 追撃はなかった。たかだか海に落ちただけというのに残りの三人は青ざめていた。さっきまでの威勢はもうなく、激震の船上でも率直な恐怖に身を震撼させているのは明らかだった。

 まさか、こいつらこそ喧嘩の素人だったのか?

 夜間の活動を強いられている事情があるとはいえ、奪い奪われの心得はあると見ていたのだが、初めて友を失った現実に絶望するようにしばらく立ち竦み、睨みではなく怪訝な眼差しを向けながら船内に駆け込んだ。去り際に「本物の死神に違いない!もうお終いだ!」と、戦慄と歓喜の入り混じった捨て台詞を残して。

「これが船出の洗礼ね」

 とにかく戦闘は終わった。戦績もクソもないが心許なく、通り過ぎた水面に浮かぶ敗者の命乞いを聞いてみようかと顔を覗かせた。

 海洋の肉食生物に慌てふためく哀れな男の醜態が拝める。……そう思っていたが、向こうの海に人類はもうおらず、目を凝らすと白い石の塊のようなものが窺えて、それもすぐ荒波に呑まれて見えなくなった。

「髑髏……」

 呟いた次の瞬間に雷鳴が轟いた。見上げると、まるで創生神話にも等しく、魔法など比較にもならないほどのエネルギーが黒い雲海を奔り、そのうちの数個が付近に落ちてきた。

 鼓膜が裂けるような爆音。俺も早く非難した方が……いや、もう手遅れなのか?

 気付けば船はいくつもの竜巻に囲まれていた。もう立ってもいられず、誰もいない甲板を独りで転がっていく。肉を溶かすほどの海水を頭から浴びようともどうすることも出来なかった。何故か俺の体は無事だったが。

 死を予感した。久々の心境だ。絶体絶命、為す術無しというのに、つい左の口角が上がった。

 先人、あるいは住人に習ってさっさと退散しておけば良かったのか?それとも例外に限っては中へ避難したところで迎える結果は同じなのか?

 未知の世界ではこれまでの生涯で適当に構築した常識がまるで通用せず、文字通り荒波に揉まれては右手の失った男のように髑髏と化すのみか。処女航海だからではなく、孤独に慣れ過ぎたのが悪かった。それがこのデッドエンドを招いたのだ。

 もしくは騙されたのか?あのオカマ野郎に。あるいは……あのチビに。

 自然災害の只中ではイカダも同然な黒船の進路先に一段と膨大な雷が落ちた。船どころかさっきの港町さえ一撃で吹き飛ばせるほどの火力で、落下の轟音により、頭蓋が砕けるような耐え難い激痛を受けた。

 堪らず頭を押さえて目を瞑った。それから次の一撃を待ちつつゆっくりと目蓋を開けると、船主に例のチビがいるのが見えた。

 不格好な四足歩行で接触を試みた。天の怒りを、竜巻の大群を、荒波をものともせず、むしろ私こそがこれらを司っているのだと誇示するような無表情で宙に浮かび、呪われた男を見下ろしていた。

「説明が足りなかったな。おかげでこの様だ。旅はここで終わりだ」

 チビはやはり何も返してこない。根に持つ性格であれば程があり、そうでなければ俺はまだ何かを誤解していることになるのだろうか。幼い容姿に相応しくない不愛想の理由も分からないまま視界は真っ白になり、その後に轟音と夢追い人たちの夢を乗せた箱舟の破壊されていく音が続いた。

 こっちは災害に巻き込まれただけの哀れな旅人でしかない。傍から見ればそう映るはずだが、俺としては逃亡生活を始めるきっかけとなったあの女との決別が今際の際に思い出されて文句一つ出てきやしなかった。

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