サンズアラ

砂漠 Ⅰ

 頭上から真っ直ぐ降ってきた雷も、箱舟の崩壊も、あの白い悪魔さえも全て夢幻だったのか。港町の桟橋から船に乗り込んだ時と同じく、まるで始めから無かったかのように嵐の惨劇は去り、幽霊船は無事に航海を完了した。

 黒船は無傷で乗客を海の向こうへ運びきった。その結果だけが今や目に見える事実だった。

 他の客など正に大事ない顔で順に船を降りていく。生き残ったゴロツキ三人も甲板で佇む俺を睨みながら離船する。ここで始末しておけば後で新手のカラスだのボスだのにつき纏われるのを避けられるかもしれないが、あまりにも頭痛が酷くてその気になれなかった。

 加えてびしょ濡れになったはずの髪や衣類はその跡さえ残さず元のままというのに、胃腸を締め付けるアルコールの残りが尚も体内に留まり吐き気を催す。

 いよいよ船には誰もいない。船員にさえ置いていかれてしまった。

 周囲を見回し、悪魔チビの顕現を期待したがそれも叶わず、ここにはもう何もないと突風に説教されて上陸を余儀なくされる。

 こっちの港町は寂れたものだ。何せ屋根付きのテラスや、おそらく船の調整に使う機材を備えた倉庫があるだけで、そも『町』ですらない。

 ここはあくまで中継地で、楽園は砂浜を離れ、砂漠を越えた先にあるのだろう。たった今、俺が砂地に足を付けた途端に出発した四台の馬車が物語っている。

 目が良いほど悪い現実と向き合う羽目になる。三羽烏が占領する一台の御者が「さっさと行け!」と恫喝されているのが見えた。

 次いで他の三台も出発する中、先頭に乗るゴロツキたちがしたり顔で俺を指差し馬鹿にする。他の連中も同類か、こっちでは鈍間は放っておくのが当然なのか、無関係を貫いた。

 急ぎの旅ではない。目的もなく彷徨う亡霊のフリをして日々をやりきるばかりで、置いていかれたことによる怒りも悲しみも感じられない。

 幽霊船に自ら搭乗した以上、俺もまた幽霊に違いないのだろう。後でゴロツキや御者と対面しても突き倒すつもりもない。少なくとも大陸の追っ手は完全に撒いたのだから願望は既に叶ったも同然。むしろ歓喜すべきところか。

 最期まで、ゆっくりやっていけばいい。それに尽きる。

 ゴロツキ共の復讐と自らの無欲をまとめて嘲笑い、徒歩で新天地を目指す。 

 いずれは死ぬ。無様な亡骸を晒すかもしれない。それも受け入れている。

 それでも気分の限りで抵抗はするため、命を繋ぐために必要な食料も水分も持たない俺は、砂漠へ臨む前に海水を体に取り入れておこうと思い、髑髏が脳裏をよぎって遠慮した。

 駄目だった場合の死因は熱中症や溺死ではなく餓死になりそうだ。酸の海に落ちていったあの男のように、骸骨と化した自分が砂漠の海に流されていく様を俯瞰で想像した。

 戦いの中で命を散らすのが理想だったが、それももう叶いそうにない。

 こっち側には、あるいは渇きを潤してくれる猛者が存在しているかもしれないが、今となってはそれよりオアシスの方が魅力的に思えてならなかった。

 かつて、各々の信じる自由を最優先とする傭兵集団の一員として、世間体や情勢に囚われず自分だけの矜持を守るために大陸を奔走した『ザーレ』という男はもう死んだのだ。



 馬車の轍に従い、滝の汗を流して砂漠を行く。直射日光も相まって果てなき蒸し風呂を進んでいるようだ。

 分かってはいたが、これほどの灼熱に何時間も体を晒される上、いつまで経ってもオアシスが見えてこないと体力の消耗だけでなく憤りも止まない。汗ばむインナーが鬱陶しく、この先もずっとこのような気候であるならもう必要ないと思い投棄してやったが、却って腹が直接焼かれるような苦痛に陥り愚行を悔いた。取りに戻るのはより面倒。

 正しい方向へ真っ直ぐ歩いているはずなのに、迷宮を彷徨っているように思えてくる。振り返ると、自分の足跡も、より深く刻まれた馬車の跡も砂塵に呑まれ無くなっていた。

 急がなければ正しく路頭に迷う。

 体力のない人間なら早くに脱落できるが、そうでなければ業火に焼かれるような拷問に長く苛まれることになる。

 羽織を脱いで丸め、左手に握る。上半身は丸裸になり、これまで守ってきた背中に溜まる汗さえも鉄板で焼かれるように蒸発の音を立てる。いっそ丸裸になってしまいたいほど冷静さを欠いている。

 もう一時間は歩いたはずだし、長時間の歩行などいつものことだが、それでも景色が変化を見せないこの環境は劣悪過ぎる。馬車に頼るということは、土地勘のある者でさえこの砂漠を侮っていないわけだから、何も知らない者が置いていかれれば苦行の開始だ。

 もうこの世には己を凌ぐ『何か』など在りやしないと悲観していた。その驕りが、誰かではなく砂漠という一環境に惨敗する未来を引き寄せたのだ。

 尊厳も自慢の矜持も見失い別の大陸に赴いた以上、失うものなど飾りの心臓くらいなものだが、それでも俺は死ぬ最期ときまで俺でしか在れない。

 そして、こいつはこういう認めていない相手に苦難を強いられるのが死ぬほど嫌いだというのも明確に記録されているため、血眼のまま幾度も舌打ちを繰り出す情けなさすらも想定内だった。

 膨大な砂塵が正面から襲ってくる。砂嵐だ。

 視界はすぐに覆われた。海上の惨劇を思い出してはストレスが最高潮に達し、独り言葉にならない咆哮を上げた。

 反射的にゴーグルをかけて両眼を庇ったが、汗ばんだ上半身に砂がへばりついて鬱陶しい。それを一々取り除くのもダルい。

 苛立ちは積もりに積もる。

 つまり、まだ這いつくばる気にはなれなかった。

 戦い、煙草、女……。欲求不満は苛烈さを増し、同時に苦しみも増していく。娯楽を妄想することは窮地において前を向くための糧となり、つまりは苦難を引き延ばす甘い罠に他ならない。

 砂嵐が去るのを聴覚で確かめ、何も映さなくなったゴーグルを外した。全身が重苦しく感じる中で両眼だけが穢れておらず、眼球にはこれほど水分が凝縮しているものか、と今になって神秘や怪奇をも超越する人体構造の不思議に感心した。

 それでもやはり、十全故に不都合な現実を鮮明に映し出してしまう。砂嵐が去った後、馬車の轍がどこにも見当たらなくなった。

「駄目だこりゃ」

 糸が切れたようにうつ伏せで倒れた。

 体力だけはまだいくらか残っていて、ショック死はおろか気絶も出来なかったが、これ以上の抵抗は下らないと考えてしまえば立っている理由がなくなる。

 目蓋を閉じて砂の海に身を委ねる。燃えるように暑苦しくとも柔らかな砂の海は心地が良く、自らもそれと同化してしまえばあれほど鬱陶しかった砂粒も羽毛のように感じられる。

 砂漠が寝心地抜群なんて、砂漠とあまり縁のない世界で生きてきたのだから知るはずもない。これまでずっと忙しかったから、自然の仕組みについて考えたこともそう多くなかったはずだ。

 馬車に乗らなくて良かった。ゴロツキ共は俺を出し抜いて痛快、俺は砂のベッドで長旅の疲労を解消できる。

 みんな幸せで結構じゃないか。『思想主』に選ばれたあいつの精神を全人類の脳味噌に上書きして一切の闘争を根絶させる計画なんてやはり必要なかったのだ。

 世界平和の完成に満足すると、スイッチ一つで電源が落ちるように睡魔が訪れる。このまま眠ったらもう目を覚ますことはないかもしれない。

 しかし、幾多の苦難を乗り越えてきたにしても睡眠欲に勝ったことは一度もない。敵がもういないというだけで、内に潜む本能を克服することなど誰であれ不可能だ。

 自然に眠りから覚めるように、当たり前のように眠りに就く。灼熱と感じた砂漠が今では絶妙な温もりに。ここが楽園だったのだ。

 意識が断絶する寸前で生き物の気配を感じ、最後の活力を振り絞って首だけを起こした。

 遠くの大地に裸の女が立っていた。ビキニのような格好で恥部を隠しているが。連中と同じく褐色の肌で、佇まいからして世代も近いよう。

 それ以上は何も読み込めず、きっと何かが特殊な美人に違いないと期待しても、どうせ今度は砂漠の悪魔か何かだろうと諦めて首を沈めた。それが慌てて接近してきても待てなかった。

 全てを失い、縋るものなど無いまま未知の世界までやってきてしまったのだ。せめて睡眠欲に溺れるくらいは許してくれよ。

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