砂漠 Ⅱ

 疲労困憊により眠ったわけではなく、何となく潮時かもしれないなんて曖昧なまま眠りに就いただけだったのを思い出し、陽が西へ沈みかけているのを視認しては独り合点がいく。眠る寸前にはこのまま死ぬかもしれないなんて馬鹿な考えがよぎったが、普通に目を覚ますことは普通に決まっていたことだ。

 たとえ、誰かに介抱されずとも。

「あっ!良かった。気が付いたのですね!」

 斜陽が眩しくて無理やり視線を下ろされる。そこにはまだ太陽が昇っていた。

 港町を離れてここに至るまでに起きた凄惨な出来事を、あどけない笑顔一つで浄化してしまう奇跡の存在が横たわる俺の隣に座していたのだ。

 効果のない発言はしない主義だが、これほどの美貌の前では流石に我慢ならない。神秘そのものがこれだけ近くに在るなら無下にはできず、見れば分かる確認事項であっても素直に返答したいところだった。

 特にコバルトブルーの瞳と、その左眼を中心に塗るか掘られたR字のような奇妙な模様には暫し虜になった。

 しかし、声が出なかった。以前までそれが当たり前だったからこそ異常に気付くのが遅くなった。喉に砂塵が詰まっていたのだ。それが唾液と混じり、無理に声帯を機能させようとすると堪らず咳き込んでしまった。

「いけない、お水を!」

 推定女神は木のカバンから水筒を取り出し、その蓋を開けて渡してきた。自分でも意外なことにそれを受け取る力が湧かず、呆けたままコバルトブルーの瞳を見つめると、察して彼女は裸の膝を枕に少しだけ俺を起こし、水筒の蓋をコップ代わりに中身を注いで俺の口へ丁寧に運んでくれた。どうやら本当に女神らしい。

 体は水分を欲してやまない。だがその前に喉の詰まりを解消しなくてはならず、下品にもうがいの要領で塊を分解して吐き出した。息を荒げて更に咳き込む。女神はそんな俺を言葉では案じながらも少し楽しそうに目蓋を細めて二口目を寄越した。

 今度は確実に飲み込むと、胃だけでなく全身へと清涼が伝わる爽快な気分を味わえた。女神は哀れな青年の救済に成功したことに心から安堵した様子で溜め息を吐き、夜へ向かう世界の均衡さえも崩す眩しい笑みを浮かべながら三口目を与えてくれた。

 厚意には甘えるものだという反面、おそらく彼女は俺がいいと言うまでこれを続けてくれるのだろうと分かり、以降は蓋を受け取って状態を起こすことを選んだ。

「大事ないようで何よりです」

「ああ、神はいるものだな。善行に勤しんできた甲斐があったよ」

「え?飢餓に倒れたわけではなく、眠っていただけですよね?」

 真面目な返しは苦手だが、恩人に他ならないため苦笑で我慢した。対する彼女は何故か少し俯いてから改めてオアシスそのものに値する癒しの笑みを見せた。

 そう、ここは本当にオアシスだった。

 陽が沈み、砂漠一帯の気温が低下している現在は却って寒い。だが、日中であってもここで汗をかくことはないだろうと思えるほどの冷気を発する澄んだ池がそこにある。屋根として扱えるほど太い葉の生える木の下へ俺を運び、目が覚めるまで寄り添った彼女は女神というより精霊の方が的確かもしれない。

 これだけ至近距離ではむしろ拝謁が困難だ。褐色の素肌に、金の装飾を施したビキニみたいな格好というのは既知だが、触覚だけ長いショートの黒髪と宝石そのもののようなコバルトブルーの両眼。

 そういった個性に引けを取らない凛々しい相貌は誰がどう見ても絶世の美女。微睡みでもそう感じたのだから余程の別嬪だ。これほどの芸術作は過去に例がない。いつもなら躊躇わないところだが……。

「あの……何でしょうか?」

「無自覚は罪らしい。俺もよく言われてきた。その意味がよく分かったよ」

「邪なものを感じます……」

「気のせいさ。俺は歴史上最も不正のない男。体を洗いたいんだが、一緒に?」

 エスコートのように手を差し伸べると、心底嫌そうに顔を引きつらせながら首を横に振られた。神秘的かつ冗談の通じない女性に違いないが、思いのほか表情がコロコロ変わるのは見ていて面白い。

 ……きっと、親交を深めたところで碌なことにならないのだろう。今までは関心のある異性の都合など配慮することもなかったろうに、喪失の経験則から押しが弱くなってしまったようだ。

 誤魔化すように毛布代わりに掛けられていた羽織をどかし、腰布とベルトを外すところ……。

「ここで!?待ってください!どうせならこのまま……」

 女神は抜群のプロポーションに見合わず初心な反応を示し、朱色に染まる自らの顔を両手で覆った。指の隙間からこっちの様子を覗き、静止して続きを待つ俺に気付くと大きく咳をした。

「……見えますか?」

 女神が指差した先を追うと、おそらくレンガで詰まれた巨大な壁が見えた。その奥には海上から見えた三角形のように巨大な塊が二つ存在している。

 あれは人の営みの象徴だ。つまりは国に他ならない。

「私たちの国です。お風呂も客室も用意しますので是非いらしてください」

「いいのか?俺は海の向こうから来た部外者だ。こっちのノウハウもない。そのつもりがなくても大罪に値する動きを見せるかもしれないぞ?」

「その時は私が止めます。旅の人は久々ですから、誰もが貴方の入国を歓迎することでしょう。それに今宵は祝祭の日ですので、私たちの国の魅力を知っていただく良い機会だと思うのです。……はい、どうぞ」

 脅すつもりはないが探りを入れたかった。出来過ぎた話だからだ。

 そういう厄介を退けるための最たる手段だった得物の柄に触れようとするも、それが無くなっていることにようやく気付き、目の前の女神からそれを渡された。

 剣が体を離れればすぐに察せる。眠っていたとはいえ出し抜かれた。……というより、もっと早くに気付けることのはずなのだ。ここまで衰えたのか。

「甘えられるうちに甘えろというのはここでも同じかな?」

「そうです。では行きましょう!」

 水筒の蓋と愛剣を交換。俺は剣を腰に戻してから羽織に袖を通し、向こうは木箱に水筒を詰めてから紐を左肩に掛けた。

「私はシシーラと言います。旅の人、貴方の名前を教えてください」

「俺は――」

 欺く必要はない。ここは新天地で、追っ手は完全に撒いたのだから。ここには俺が過去にやらかしたことを知る輩などもういないのだし、何より恩人に嘘を吐くのは性に合わない。

 当たり前を口籠る俺を青い瞳が覗き、幼児のように可愛く首を傾げている。その様相により、却ってオアシスに辿り着く前の記憶が蘇った。

 俺は、死んだ。たとえ経験も肉体も全て今の自分に引き継がれていようと、世間体など構わず自らの信じる道を駆け抜け、戦い生き延びてきたあの男はもうここにはいない。

 それならシシーラを騙してでも封印しなければならない。精霊相手にあの穢れた名を教えてはオアシスが汚染される。相応しくない。

 伝えるべき時が来るまでは演技でいい。呪われ、死の運命を受け入れた者の本性を生命の光に溢れる彼女へ伝えるには時期が悪い。

「ルーシャスだ。俺はルーシャス。そう呼んでくれ」

「ルーシャス……?」

 欺くとはいえ、欺いたこと自体は呆気なくバレたよう。怪訝な顔をされると思ったが、シシーラは何か悲痛に耐えるように血の気の引いた顔色となり、それを隠すように沈みゆく夕陽を眺めた後、改めて俺と向き合った。

「……分かりました。ルーシャス。それではどうぞ、私たちが誇る平和の国『サンズアラ』へ。道中、これまでの旅の思い出をお聞かせくださいね」

「……嫌だね」

 俺にも事情があり、当然シシーラにも何かがある。

 被雷後の無事と灼熱の砂漠。これまで踏みしめてきた大陸とは勝手の違う異世界に翻弄され、もう後戻りができなくなった以上、無自覚で男を誘う妖艶な魔女の微笑みに馬鹿みたく欺かれてやることにした。

 一粒の砂塵もない荒野のように乾き切った奥底に新たな酔狂が落ちてきた。それは紛れもなくオアシスの精霊により恵まれた生きる活力に他ならず、これほど心沸き立つ感覚は久々で、生まれて初めてサイダーを飲んだ時のように骨まで溶かされるかと思った。

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