饗宴 Ⅰ

 陽が完全に沈むと、灼熱の大地は凍土と化した。

 やはりインナーを捨てたのは失敗で、羽織のポケットに手を入れるしか寒さを凌ぐ術を持たない。

 シシーラは俺より素肌を晒け出しているというのに、凍える素振りもなければ「冷えますね」なんて常套句も吐いてこない。これが『慣れ』の頼もしさであり、可愛げのなさだ。

 もしや魅惑的な格好というのも余所者の俺だけが抱く感想で、入口の見えてきた国の人々からすれば十分に厚着なのかもしれない。

 目的地が近づくにつれて首が空へ向けさせられる。振り返るとシシーラにその様子を面白がられた。

 国を囲う壁はあくまで砂嵐の強襲を防ぐためか、あるいは外敵への予防のつもりか。それほど壮大でもなければ厚くもないが、少なくとも奥に聳え立ち並ぶ二つの巨大な三角形と比べれば人とネズミくらいの差がある。

 初めて見る建物だというのに何故か既視感にも勝る落ち着きがある。砂漠の中にある人の営みといえばこれしかない、と思えるほどの安心があり、暫しそのとんがりに目を奪われていた。

 入口に着いてもずっとその二つを見据えていた。呆けたように見えるであろう俺にシシーラが声を掛け、それでようやく彼女と門番の男が仲睦まじく話しているのを認識する。

 どうにも調子が悪い。無自覚と鈍間は同義だったろうか?

「シシーラ姫、あまり帰りが遅くなると皆が心配します」

「ごめんなさい、デルタ。戻ってきた者たちの出迎えと見回りだけが目的だったのだけど……」

 二人一斉にこちらを見る。もしやと思っていたが、やはりこの国のお姫様らしいシシーラは、その先の言葉を紡いだら不穏になると察して黙した。

 そのお姫様に対してフランクな態度を取るマッチョの男は、疑惑ではなく関心の眼差しで俺の様子を窺っている。

「見たところ我々とは違いますね。カラスのようで、そうでもない」

「はい。彼は……ルーシャスと言って、砂漠で倒れているところを救助し、ここまで同行してもらいました」

 門番の男は快活な印象が持てる口角の柔らかい中年で、槍を握っている。シシーラがビキニ風なら、こっちは七分丈のズボンにサンダル。それらには銀の装飾が施されており、首には蓮の花飾りが巻かれていた。

「ルーシャスか。ようこそサンズアラへ。私はデルタ。見ての通りここの警備をしている」

「門は四方の方角にあって、デルタがこの南門を担当しているのです」

「そうか。今日は祭りと聞いた。奥の賑わいがそれだろう?あんたには無縁のようだが」

「そうでもないさ。シシーラ様のお帰りを確認できたので、門を閉じて私も楽しませてもらうよ」

 当たり前のように言い切られてしまい、少し呆気に取られた。交代制でもなく閉門し、以降は誰も配置しないのだと、門番が為政者の目の前で堂々とそれを言えてしまう不遜さに。

 確かに、港からここへ来るまでの間に営みを脅かす不穏な存在など何もなかった。共通して『カラス』と呼ばれている黒衣の賊たちもそれほど恐れられていないのは祭りができる余裕から明らかだし、まさか祭りの日だけは白黒共に手を繋ぐというわけでもないだろう。

 謎といえば、シシーラさまが直々に、単独で外へ出掛けていたことだ。

 何か、俺がこれまでに見てきた常識を覆す非常識がこのサンズアラ国に根付いているのかもしれない。

 別にいい。追求する気もそれほどなく、甘えが効かなくなったら疾く出ていくつもりのため、客人に徹するだけでいいだろう。

「心配はいりませんよ、ルーシャス。強いて言うならカラスたちは警戒すべきですが、もし彼らが皆の安寧を脅かすのであれば私が直々に始末します」

 胸を揺らし、得意気に腹部を叩くシシーラ。

 それをやられると彼女の素を引き出したくて仕方がなくなる。

「勇ましい限りだ。民草の防衛だけでなく膝枕までしてくれる万能さだものな。女性の長として完成しているよ」

「改めて言わないでくださいよ!恥ずかしいじゃないですか!」

「おやおや」

 声を荒げて紅潮する主君に一兵卒が温かい眼差しを送る。

 これがこの国の在り様であり、これまで築き上げられた秩序の形なのだろう。門前に溜まる俺たちに気付き、シシーラへ手を振る者たちも皆揃って表情が明るいのは、今日が祝祭の日だから、ではないはず。

「あのデカい三角形があんたの家か?」

「え、ええ。二つ並ぶうちの左側です。あれは王宮でもあります。すぐに案内できますし、先に祭りを堪能していただいても構いませんよ」

「悪いが金は一銭もない」

「お金は不要です。何より貴方は大切な客人なのです。皆はまだ疑い半分でしょうけど、私かデルタが共に行動すれば何も問題は起きないはずです」

「おいおい……」

 ここまで至れり尽くせりなど初めてだ。

 善意として素直に受け取るにはこれまでの経験が邪魔をする。本当に真心の誠意で得体の知れない男をもてなす気でいるコバルトブルーの瞳さえも信じられない。これが異文化交流を阻む隔たりであり偏見か。

 あるいは、性根の輝きの差か。

 門を閉じたデルタも一緒になって俺の返答を待っている。

 疑いなどもう意味がない。俺は半分死んでいるのだから、たとえご馳走に毒を盛られようと、酔った隙に拘束されて怪しい儀式の生贄にされようとも関係ない。抵抗はするが、それで駄目なら潔く認めよう。

「実はかなり腹が減ってるんだ」

「食事なら王宮にも広場にも」

「煙草はあるか?」

「タバコ……って?」

 首を傾げるシシーラを見て嫌な予感に襲われる。血の気が引く実感を持てるほど。

 いずれは死ぬもので、それが今日のうちか、遅くても明日になるかもしれなくとも、せめて最後に道楽を味わっておきたい。この身は長くニコチンを摂取していないため、それがこの国に存在しない事実への焦燥は禁断症状にも等しく、昼の砂漠へ帰ってきたかのように汗ばんだ。

「ま、まさか無いってことはないよな……?」

「だからタバコって何なのです?」

 細巻きの棒を口に咥えるジェスチャーをお姫様に発信するも伝わらず。この国の偉い存在で、自ら外に出てくる性の彼女がそれを知らないのは非常にまずい。

 やはり楽園とは先程のオアシスに限ったことだったのか。いっそ厚意を無下にして、腹を満たしたらすぐに退散する考えもよぎるというところ……。

「あっ、もしかして葉巻のことかな?」

 どうやら女神とは、このマッチョの方だったよう。

「葉巻ならあるか!?」

「私は吸わないけどね。それにあれは物好きの暇潰しだろう?体にも毒だ。そんなに欲しいのか?」

「勿論。煙草を吸わねば死ぬし、煙草で死ぬなら納得できる」

 至って本気で言っているが、冗談も加味している。デルタは腕組みしながら「そういう人もいるんだなぁ」と物珍しそうに俺を観察しているが、シシーラは俺の威勢に引き気味だった。

 やはり不純と清純が噛み合うのは困難だ。互いのことをより深く知ったとしても、心から分かり合うことはないのだろう。

「それなら私が案内しよう。あそこは往来から外れた独特の場所だから、急ぎ王宮へ帰還すべきシシーラ様が向かうべきではないでしょう。よろしいですか?」

「もう好きにしてください……。では、ディナーもどうぞ、デルタと」

「ああ、世話になった。この恩は忘れない」

 本当に善心の持ち主であるのなら、それ故に自ら自国の魅力を伝えて回りたかったのかもしれない。同い年くらいという印象ながら、容姿以上に幼く不貞腐れるお姫様の情動の変化は飽きない。自らの相貌がどんな宝石をも凌ぐ優れ物である自覚はないようで、オアシスに生えていたヤシの実みたく頬を膨らませていた。

 そういう顔をすると思っていたからわざと今生の別れみたく言い捨てたが、効果は抜群だった。



 王宮扱いとされる巨大なピラミッド。二つあるうちの左側を目指すシシーラと、一先ず煙草屋を目指す俺たちの進路は途中まで一緒。

 門から真っ直ぐ奥へ進むにつれて祭り独特の香りが段々と嗅覚を刺激していく。肉に魚に果物を焼いて、それぞれと相性の良いソースで味付けして振る舞う出店の誘惑に腹は正直になる。

 あれほど煙草第一だった本能が今や道行く郷土料理や軽快な音楽に関心を持ち、手を振ってくるビキニやドレスの女性を一瞥する俺の様子を良い気味だと感じたようで、シシーラは事あるごとに俺の顔色を窺ってはしたりとし、時には不満全開で眉間に皺を寄せていた。

 客人は珍しい。それは間違いないようだが、どのように付き合うべきか悩むわけでもなく、誰も俺を忌避したり訝しむことはなかった。

 その理由は単純で、先頭を歩く姫君と俺の間にデルタが割って入る形となっているからだ。

 子供たちがシシーラに群がり、立ち止まったところで俺のことを軽く紹介された。子供たちからすれば尚のこと余所者が珍しいようで俺もすぐに包囲された。

 そこまでは別に良かったが、入れ替わり立ち代わりで民衆が押し寄せてくる中、若い女たちに捕まった際や、シシーラが俺を紹介する時に浮かべる他意のない笑顔を快く思わない男たちが遠くから睨み付けてくるのは見逃せなかった。シシーラから「皆さん健やかで善い国でしょう?」と聞かれ、「かもな」と、別の空を眺めて答えた。

 国と言えど規模としては小さい。二つの巨大なピラミッドに、その手前の広場で躍動する踊り子たちと音楽、一夜の祭りに集い賑わう群衆が壮大に見せているだけ。

 大まかだが、この国は正方形だと思われる。俺が招かれたのは正門と呼んでもいい。真っ直ぐ進めば広場とピラミッドに辿り着く。四方に門があるということは、残る三つはこっちから見て広場の左右を進んだ先と、聳えるピラミッドたちの真裏にあるはずだ。

「これは長くなりそうだ。ルーシャス、我々は失礼しよう」

 大人気の姫君を求める人の列は絶えない。

 毎日こうなのかとは思えない。理由はシシーラを催しの中心に誘う気さくな同性と、根性見せられず未だ距離を取って立ち往生する異性の群れから明らかなこと。よりにもよって特別な日に来てしまったのだ。

 もてなされる身の上であるなら杞憂はないが、揃いも揃って大胆に露出した格好でありながらも不純さのない特色の人種。生の活力に満ちている以上、俺に限らずこの国の人間をはしたないと感じる者などそうはいないだろう。

 つまり、段々と馴染んできたということだ。

 そのおかげか、あるいはこれだけ歓迎されてもなお他者への不信は捨てきれないのか。向かいの路地に溜まる黒衣の男たちの挙動が気になった。

 シシーラは置いていかれたとは思わず、デルタと共に無言で立ち去る俺にさり気なく手を振っていた。

 暫しか、あるいはこれでお別れかもしれない。少しだけ勿体ないと感じるものの、それより煙草が恋しい俺にとって目障りな障害が現れる。

 ローブとも取れる白衣を纏い、金色の兜を被る精悍な顔立ちの青年が、自分より地味な装飾の中年を二人連れてやってきた。

 そいつがシシーラの側近か直属の部下、あるいはお転婆娘の監督役か何かであることは、言われずとも重く変化した一帯の空気で分かる。

プリンセス

 白衣の男は俺を見もせずシシーラを囲う民衆を圧気のみで引き剥がす。人混みが散ったせいでシシーラが寂しそうな表情を浮かべているのが露わになってしまった。

「あっ……」

「シシーラ様、陽が沈むより前に王宮へ戻るべきだと日頃からくどく忠告しているはずです」

「デルタ、ごめんなさ――」

「デルタぁ?」

 民衆が気まずそうに静まり返る中、遠慮せず率直な違和感を発した。

 誰もが余所者の『遅れ』に呆気に取られ、遠くの音楽にさえ馬鹿にされているように思えた。

「……こいつは何だ?」

「デルタではないな」

「何だ貴様は?」

「待って!彼は……」

 仲裁に入る上司に構わず白衣のデルタが俺の前に立ちはだかる。

 門番のデルタは一歩後ずさった。物怖じする印象がなかったため、それなりにまずい状況なのかもしれない。

 それに、シシーラがこいつの上司であっても、リードで引っ張ることが出来ていないのは見たまま。こいつからしても絶対の忠誠を誓っている主君ではないのだろう。

「見ない顔だ。黒衣を纏い往来を歩くとは。しかも、シシーラ様のすぐ傍を」

 収拾を望むシシーラの右手が宙を泳ぎ、それから無力を痛感するよう静かに下ろされた。

 あれほど彼女に夢中だった周囲の連中もその様子に気付いていない。それだけこいつの発言には説得力があり、同時に威圧的なのだ。

「貴様、新手のカラスか?……ハヤブサか?いや、まさかな」

 精悍な顔が迫る。煙草を咥えていれば撃退できた。騒動を起こす覚悟はあっても今は条件が悪いため、まるで臆しているかのように沈黙を貫く。

 カラス。要するにこいつら『政府』にとって都合の悪い『賊』の一味かと疑いをかけられているよう。

 どういう意味で『ハヤブサ』と言ったのかまでは分からない。聞いても懇切丁寧に教えてくれる男ではないだろう。

「神官長、彼は旅人です」

「旅人?そんなもの、あの兄妹以来ではないですか」

「ええ。ですから盛大にもてなしてあげたいのです。客室も用意して、せめて一晩だけでも」

「しかし、旅人など得体の知れぬ浮浪者に違いありません。貴女もそれをよく分かっているはず」

「彼は大丈夫です!私を信じてください。彼はその……と、とても疲れているのです。ですから……」

 とても身上相手に向けるものではない眼力でシシーラの愚を咎める。

 神官長・デルタは反対するも、シシーラは引き下がらなかった。しばらく不毛な言い合いをしてからようやく折れて、改めて俺にガン飛ばし、渋々承諾した。

「意志は揺るぎないようですね。なれば従うまでです」

「ありがとう!」

「では、この者も共に同行を。皆、道を開けよ!」

「あっ、ルーシャスは……」

 怒声とも取れる号令により、人混みから一本の通路が作られていく。正しい判断を下し、民衆もそれに従ったまでだが、神官長は歯切れの悪い主君の様子と気まずそうに目を逸らす門番に気付き、目を丸くして立ち竦んでいた。

「祭りだろ?ムキになるほどつまらなくなる」

 真面目な家来の肩に手を乗せて煙草屋のある方角を目指す。門番・デルタは小さく頭を下げてから俺を追いかけてきた。見栄を張りながらも空振りに終わったこの場の支配者を民衆が嘲笑っていた。

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