ホットタイム Ⅱ

「大丈夫?ザーレ……」

 共有した時間は多かったものの、互いの温度を確かめる時間は少なかった。

 ミレイヤは毎日忙しく、俺の仕事は遠征も多かったから、こうして二人になる機会はあっても次の日を顧みずに寛ぐ暇などほとんどなかった。

 そうだ。俺たちの関係は周囲からは特別なものに見えていたかもしれないが、事実として特別になり得ないままその繋がりは断たれた。

 このように畏まって頬に触れることさえそう多くはなかった。

 だから、今こそが特別な時間なんだ。

 俺は存在しない地図の外側へ。ミレイヤはこの世界の外側へ発った。……この手によって。

「うーん……」

 流れた時間は極短い。

 そも、ここに時間など無いのかもしれないが、知らないうちに照れたミレイヤは腑に落ちないような悩む表情に変わっており、掴んでいた左手も離していた。

 それだけじゃない。俺は尚もミレイヤの頬に触れたままだが、向こうはコーヒーをテーブルに置いて席を立っている。

 何でもアリなら、何でもあるか。

 そうは言っても前兆がないのは心臓に悪い。柄にもなく臆病になり、俺も手を離すことにした。

「ザーレ、また大変なことに巻き込まれているみたいね?」

「ああ、今まさにな」

「それってザーレだけが悪いわけではないんでしょ?」

「さあな。庇ってもらうには前科が多過ぎる」

「本当にどうしたの?私で癒せる痛みかな?」

 不覚にも涙腺が緩んだが、次に視界がぼやけたら見失う気がして何とか持ち堪えた。

 まだ掌に残っているマグカップの熱も、窓を全開にしてもなお心地良い室温も、そしてお前も、遠いサンズアラにはない快適な温もりであり、まだ切り離すことの出来ていない俺の未練甘さに他ならない。

「全て俺の問題だ。お前には関係ない。それに、もうすぐ自由になれるかもしれないからな」

「誤魔化さなくてもいいよ。私たちもう大人の扱いになるのに、特にザーレは一つ年上なのに、いつまでこんなやり取り繰り返すのやら」

「……それもお前が気にすることじゃない」

 未来が限られている女が溜め息混じりに何か言っている。

 これが去年の三月ならお前はもうあと一年しか生きられない。俺の目の前にいるミレイヤの姿をした幻像など、瞬き一つするうちに消え去る夢の住人でしかないだろうに、俺こそ何故憤りを覚える意味があるのか。

「お前こそ今日は暇なのか?」

「ううん。入学式の準備をしてるの。今はお昼休憩。私はいいって言ったのに、貴方のお友達が気晴らしついでに行ってこいって。そうだ!全校生徒の前でスピーチするんだよ、私!その予行練習もあるから、寝坊助さんの世話を終えたらもう戻るつもり」

「ふぅん」

 話の流れから俺が一度目指した玄関に遠い眼差しを向けるミレイヤ。ただそれだけの挙動で身の毛がよだつような戦慄に駆られる。どうにもここでの俺は軟弱だ。

 それとも、失うより前から、俺はこいつにこれほど依存していたという事なのか?

 ミレイヤは強い。魔法大国のオルドネリアで現役最高の魔法使いであり、同世代からカリスマ的支持を受けてはその期待に応える胆力もある。

 顔と胸と尻がご立派なだけの十代女子と油断して痛い目を見た大人は数多い。実力で黙らせることに関して言えば俺よりこいつの方がよっぽどキレている。


 ――こいつを正当に評価して、その才能を余すことなく絞り取った大人もこのあと登場する予定だから。


 本人が望み、有権者たちが手を尽くしたとはいえ、磔のままこの世の指針をこいつ一人に委ねさせるのはやり過ぎだった。

 裏で好き放題に世間を安心させるストーリーを練るのはどこも同じだが、こっちは世界全てを騙し切る計画だ。規模も、個人の罪の重さも桁が違う。

 あの最期は決して忘れることができない。最後の教会には俺とミレイヤしかおらず、生き残ったのは俺だけなのだから、誰かと共感できない分だけ思い出はより深く脳味噌に焦げ跡を残す。

 改めてという話でもない。汚名を一身に背負ってオルドネリアを離れ、東大陸の様々な大地を踏み越え、追っ手を振り払い、あの港町に辿り着いた。

 それから海を渡り、違う文化と人々に触れ合う中においても、俺はお前を忘れることができなかった。

 特に、真意を明らかにせず目の前で弱ったフリをするばかりのお前によく似た女との出会いは最悪だった。奴はお前が俺に感謝していると言っていたが、自らを亡霊のようだと思い込み、冥界に等しい陰鬱な空間に長居したせいで、お前がシシーラに化けて恨みを晴らしに来たのかとさえ勘繰る始末。

 この部屋の時間も、温度も、きっと脚本やタイミングなどではなく、お前がまだ俺の中に残っているせいで見せられている夢幻に違いない。

 フィクションやオカルトなんて一切信じていない。いつだって現実を噛みしめてきたはずだ。今だってこれが本当に俺の思考回路なのかどうかも怪しい。

 ただ、そういう目に見えないものに縋らなければ、俺はお前のいない世界を歩いて行けなかった。

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