ホットタイム Ⅰ

 あれほど極寒だった自分の体、もしくは広間の空気が嘘のように、今はここに生きている実感を持てる。

 全身を柔らかく包む温もりに懐かしい室温と匂い。いつまでも浸かっていられる、元凶にも等しいあの場所へ帰ってきた。

「ザーレ、ザーレ!起きてよー!」

 俺はまだ眠い。雑に処置した傷跡や痣などもう気に留めないが、疲労と酒の抜けない重い体が就寝を続行すべきだと凄まじい剣幕で訴えてくる。起こされたおかげで頭痛との戦いを強いられる。

 ……久々に聞いた(もう聞けるはずもない)あいつの、本来相手に安ぎを与えられるおしとやかな声質を無駄遣いする軽快な喋りが阻んでくる。

 頭部にのみ冷気を感じるのはあの唇の虜になったせいではなく、単に窓を全開にされたからで、それが部屋に充満した煙草の臭いを外界に飛ばす気遣いだとしても素直に感謝はできない。

 右腕を枕に二度寝を試みる俺の左肩を何度か揺らし、極めつけは毛布を強引に翻されて起床を強制された。

「……はぁ」

 ここまでされるともう反抗する気も失せる。どれもこれもいつも通り、俺が寝ている昼頃にあいつが来ると決まってこのパターンだ。

 何度もこのやり取りを繰り返してきた。学校が立ち入り禁止の日、午前で用事が済む日、合間に寄る暇がある時などはこうして俺の面倒を見に来やがる。

 嫌なら家の鍵を閉めればいいだけだが、どうにもそれが面倒でいつも開けっ放しにしてしまう。不用心は喪失前からのものだった。

 それに、あいつの意外に静かな足音や温い雰囲気が油断させるだけで、他の人間が入ってきた際は必ず目が覚める体内構造になっているから問題ない。実際今日まで、そしてオルドネリアの学生寮を退居する最後の日まで、ここで厄介事が発生したことは一度もなかった。

「また朝まで飲んでたの?いつも言ってるけどギリギリの話だよ、これ」

 鉛のような頭をどうにか転がして声の在り処を確かめる。

 怠けた視力が少しずつ正確になると、そこには確かに他の誰でもない、この手で殺めたはずのあいつが存在していた。

「また勝手に入ってきたのか」

「また開けっ放しだったからね。おはようございます、ザーレ君」

 模範的優等生のフリをするも、あどけない笑みは変えられない。本当にあいつの顔がある。

 全てが終わって以降……いや、もうとっくに分かっていたことだが、俺は常に一人で生きてきたつもりになっていたが、おかげ様でそうでもない時間があったのを遅く実感した。

「コーヒー淹れてくれ」

「もう淹れたよ。匂いで気付かなかった?」

 部屋はワンルーム。マンション型の学生寮とはいえ、外観がマンションというだけで安くて無駄のないこの物件が気に入り、学生の身分でなくなった後も最上階端の部屋に居座り続けている。

 ベッドからキッチンの距離も近い。淹れたて最高のコーヒーを一旦置いて俺を叩き起こす猶予なんて十分過ぎるほどあった。

 俺の怠惰に呆れる物言いながらも、その声音や所作にはこの時間を楽しんでいる様子が見て取れる。背中を見せてキッチンに移るご機嫌な彼女を寝転んだまま眺め、あの泣き虫のガキがこれほどの女に化けるのかと人間の成長の仕組みに感動した。

 十七歳のくせに十分仕上がっている妖艶なスリーサイズは、格好からすれば地味に映るものの、砂漠の国のお姫さまにも引けを取っていない。

 こいつには制服姿のまま中退フリーター男の家を訪問する習慣があった。男子生徒を中心にこいつを慕う生徒やオルドネリア人の間でそれが問題となっているらしく、下らない事件に巻き込まれることも多々あった。

 心配は当然だろう。俺たち以上に、俺たちの関係性を理解したつもりでいる極一部の方がどうかしている。

 こいつは学校が大好きで、学校の人間も皆こいつを頼って袖を引っ張りまくるため、休日でも学校が開いていれば用事を作って業務に打ち込むほどだった。学生全員に言えることかもしれないが、こいつの私服姿は特に貴重とされていた。

 これは、去年の三月頃の時間に違いない。まだ何の根拠もないのに、そうに違いないと、妙な自信がある。

 コーヒー豆も無地の二つのマグカップも俺の物じゃない。勝手に置かれているあいつの私物、あるいは用意された品。

 俺はもう極端な話、ベッドとシャワーさえあれば他に何もいらないのだが、他にも甘ったるい菓子やビニール傘まで置いていきやがるせいで段々とこの家に生活感というものが増していった。

 求めていない色彩が増えていき、時には全て持ち帰れと突き放すこともあったが、脱ぎ捨てた衣類を洗濯したり、視界に入っても放置したゴミを黙って処理されてしまえば力尽くにはなれなかった。

 この国の機器はほとんどが外国との共同かパクリで、魔法をエネルギー源に駆動を実現している。今言ったシャワーに洗濯機、やかんの熱も、各家に四属性の魔法が備蓄されていなければ機能しないようになっており、自らそれらの魔法を表出して光熱費を賄うのは違法となっている。

 無論、バレない程度でやりたい放題やっている連中も中にはいるが。

 俺にも魔力はある。しかし、俺は昔から魔法が大嫌いで、無理やり入学させられた魔法学校も一年持たず自主退学するほどだった。

 物心がつく前から刃物に魅了されていた俺にとって、魔法はスケールがデカいだけで肝心の手応えを得られない無用の長物に過ぎず、外国の銃器さえいまいち心が躍らない。

 それに、今となってはハンドガンなど俺にとってのトラウマそのものでしかない。西大陸に渡って以降その存在が示唆されていないのは唯一の救済だったのかもしれない。

「起きて。はい、どうぞ」

 状態を起こすと頭の鈍痛はより激しくなる。それに屈せず寝癖だらけの髪を無為にかき上げて、熱いマグカップを受け取り一口流した。

 俺はそのまま、こいつはミルクを。甘い味が嫌いなわけではなく、実はミルクコーヒーにも関心があったのだが、それをねだると腹の立つ弄られ方をされそうなので我慢してきた。

 それに、コーヒーを味わう機会などもうないのだろうし。

 俺はベッドで、彼女は家主の俺がほとんど使わないテーブルの椅子を利用している。

 この憧憬がいつまで続くのかは不明。

 だから、指摘される前にその姿を目に焼き付けてやることにした。コーヒーの味は苦いだけではないように思えた。

 髪はオレンジベージュ色のハーフアップ。一度も手を汚したことのない上流のお嬢様みたいな顔立ちと穢れない肌。学校指定のブレザーとスカートは青い。ブレザーのボタンは留めず、ワイシャツの襟には白いリボンタイを結んでいる。

 あと、ストッキングに白いチャンキーヒール。これがこいつのデフォルトだった。

 制服は無地のネクタイやローファーが基本で、こいつの相方こそ見本に相応しい着こなしをしていたはずだが、好き放題にコーディネートしている生徒は多く、こいつもそのうちの一人……というより、こいつの影響が大きいのだろう。これでも来月始まる新学期から生徒会長になる理想の上級生だ。


 ――学園のアイドルであり、まだ悲劇のヒロインではない。……当時の俺が知る限りでは。


「今日はお休みなの?」

「ああ。あとで飯食いに出て、剣振り回したら今日は終わりだ」

「そのお金と振り回す相手って?」

「お察しの通りだよ」

「もう……そんな生活してたらヒモと同じだよ?」

「馬鹿を言うな。俺は学生ごっこなんかやってるお前より遥かに稼いでるよ。自分でも信じられないことに、ここの家賃を滞納したことはこれまで一度もない。むしろ面倒だから細かい桁無視して多く払ってるわ」

「すぐそうやって話を逸らす。世間体が最悪なんだってば。……はぁ」

 寝起きのコーヒーがなまった体に沁み渡る。これが良いのか悪いのかは知らないが、空腹と喫煙欲が刺激されてテーブルを確かめるも、余程気が向かない限り手を付けることのないこいつの菓子と煙草セット。あとは空の酒瓶以外何も置いていなかった。

 気を利かせて行列店のパンやら総菜やらを買ってきたり、手料理を振る舞われることもあるが今日はなし。溜め息を吐いてはマグカップに口を付けたまま煙草セットに手を伸ばした。数種類の煙草を詰めたケースから一本取り出して咥え、あとはオイルライターを右手に握る。

「ここで吸えばいいのに。貴方の家なんだから」

「お前の制服に臭いが付くと俺が絡まれるんだよ」

「……へぇー」

 理解したようなつら目掛けて舌打ちし、マグカップを置いて外へ向かう。

 ……途中、玄関の扉を開けたらこの奇跡が終わってしまうような気がして、あいつの反応が容易に想像できたとしても(過去を)振り返らずにはいられなかった。

「ミレイヤ」

 咥えた煙草を落とし、早足で座る彼女の前に立つ。

 俯く平和の国のプリンセスに手を差し伸べた時とは似て非なる、もう俺が構う必要のない、いつも少しだけ微笑んでいるお前がまだここに残っている。

「どうしたの?」

 長髪を微かに揺らし、サンズアラなど比にならない善性一色の瞳に見つめられる。

 それがどうにも耐え難く、つい余る左手でその頬に触れた。

 懐かしい。贅肉などないくせに膨みを感じる柔肌。ミレイヤは少しばかり頬を赤らめるも驚く素振りはなく、マグカップの取っ手を摘ままない左手で俺の腕にそっと触れ返した。

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