冥界 Ⅳ

 剣を空へ大振りし、鋼に付着した薬液を払う。研屋を尋ねる必要がありそうだ。

 ギャラリーの質は最悪だが、お偉いも熱視線を向ける闇のコロシアムは静かに幕を閉じた。

 俺は無傷。慣れない格好が惜しいため万全とは言えず、腕の鈍りも自覚していたが、それでも事実として完勝だった。

 対戦相手も決して弱くはなかった。床に散らばっているのが奴の撒き散らしたモノのみとはいえ、決闘としては確かに成立していた。

 だが、医務室で感じた高揚は期待外れに終わった。皆が白ける中でも構わず拍手を送る神さまと、あらゆる喪失感から呆然とするコバルトブルーの瞳が癪で、勝利の余韻などまるでない。

 この馬鹿を連れてすぐにこの場所から退散したいところだが、広間を囲うカラスたちやその親たちの出方次第では戦闘を続行してもよかった。

 それくらい、後味の悪い決闘の結果というものが懐かしくもあり、嫌いだった。無辜の民が一人もいない今のうちに憂さ晴らしの意味も込めて殺戮の限りを尽くし、それからこの欺瞞に満ちた王国を離脱するのが最適解に思えてくるほど。

 この国の闇など端から知ったことではない。姫君の涙など、俺が構う問題でもないからだ。

「見事な腕前だ、ルーシャス殿。東大陸に凄まじい手練れの逃亡犯がいるというのはロゼロ伝いで浅く掴んでいたが、その評価は過大ではなかったようだ」

「その名前はもう意味がないだろう」

「そうだな、人斬り・ザーレ。東の狂人よ。いかがだったかな?サンズアラ国先代の王、シシーラ姫の父君に引導を渡した感想は?」

「死人を斬って気持ち良くなれるのなら『人斬り』なんてあだ名は付かない」

「それは悔しいな。気が済まないようなら余りのミイラたちを連れてきてやってもいいが、気分転換にカラスの駆除でもしてみるかね?」

 巧みに調教したものだ。イシュベルタスがそう煽っただけでカラスの大半が腰の短剣を抜き、喧嘩の構えを取った。

 向かってくる分には返り討ちにしてやるが、俺から仕掛ける気は毛頭ない。死人ながら肉体に宿る本能か何かによって一時は俺と相対してみせた剣の亡者はともかく、同類なだけのゾンビや害鳥共を何匹も狩り尽くすのは億劫以外の何でもない。邪魔立てするつもりがなければ退場させてもらう。今はそれが全てだ。

 イシュベルタスの不敵な笑みにまだ知らない『裏』があろうと、カラスの親玉が一歩前に出ようと、神官長がシシーラを見もせずとも、こっちはもう興が失せている。こういう隙を突いて何とか俺をビビらせてほしい、というお決まりの傲慢もない。

 薬液が完全に落ちていないのも構わず得物を鞘に納めた。それが非戦の意志だと伝わってカラスたちが舌打ちや罵倒を浴びせてくる。

 玉座の肘掛けに頬杖をつくイシュベルタスを一瞥し、誰にも何も言わず広間の中央から離れる。出口に立ち塞がるカラスたちや、シシーラにさえ何もなく。

 だが、歩むたび鮮明になる気落ちした女を放置することはできなかった。

 俺がいなくなればこいつは敵陣で孤立した状態となる。陵辱を受けることはないようだが、それも過ぎた掟でしかなく、イシュベルタスが本性を露わにした以上はどれだけ残酷な目に遭わされてもおかしくない。

 俺からは何も言わない。会話も儘ならないからではなく、互いに怒りを感じているからでもない……はず。最初から信用していなかったとはいえ、あれほど溌剌としていた太陽の女がこれほどジトジトしているのが妙に不服で、慰める気が起きないのだ。

 思えばこいつとあいつは似ている部分が多い。前向きな時のあいつは好きだったが、下向きの時は不思議と苛立ちが積もったのを、戦いの勘を少し取り戻すのと同時に思い出した。

 深く溜め息を吐いてから一度歩んだ道を戻った。

 彼女の目の前で立ち止まる。何も喋らず佇むだけの俺に惑い、シシーラは飢饉が起きたように生命力のない顔を上げた。

 その救い甲斐のない相貌に嫌々ながら手を差し伸べる。拒絶するように目を逸らされるも、最後は向こうから手を取り立ち上がった。

 口笛を鳴らす外野を相手にせず、手を繋いだまま出口へ進む。石造りの門を塞いでいた数人は俺たちが近づくにつれて疎らになった。邪魔立てすれば斬られると直感したのかもしれないが、こっちにもうその気はない。

 あと少しでこの下郎と下賤に染まる陰鬱な空間ともおさらば……と思うも、しばらく長い一本道を歩かされることになるのを忘れていた。

 神のピラミッドとは、やはり名ばかりの暗黒で、正しく害悪の巣窟に他ならなかった。

 いくらこの場を制圧する自信があるとはいえ、敵陣の中枢でよくも余裕をこける、と世間に対しての不遜とも取れる自分の楽観と、そのように自分を客観視するようになった遍歴に苦笑が漏れた。


 ――冥界にハヤブサは飛ばんのだよ、ザーレ殿。


 神さまが何か呟いた気がした。

 門の前で玉座を振り返るも、イシュベルタスはいつものしたり顔。何を言ったのか問うのは怠い。

 もういい。未練も何もない。すぐにここから脱出するのが吉と見た。

 この広間、神のピラミッドから。そして、葉巻の補充と剣の整備を済ませ次第、このサンズアラからも。

 そのように近い未来を考えて出口に触れたのと同時、連れ歩く女が背中に抱きついてきた。

 ナイフを隠し持っていたわけではないのは、俺が羽織を置いてきたように彼女も薄着であることから分かっている。

 今のは確かに隙だった。

 いきなり抱き着いてくるような女はたまにいる。直近の経験から「またか」と呆れるほどに。

 しかし、それがシシーラであれば意外に思わざるを得ない。金の装飾を施すビキニ風の格好に、抜群の美貌と玉体。昨日今日しか彼女と関わっていない俺が知らなかったというだけで、本来は積極的なのかもしれないが、今さっきのことも含めて驚かされた。

 まさか、もう俺しか縋るものがないと誤解しているのか?

 イシュベルタスは、王より神の意向を優先するのがこの国の古い理念だと言った。しかし、シシーラにつく者も中にはいるとも。

 裏を返せば、シシーラと愛し愛されの民衆さえもシシーラを裏切ってイシュベルタスを支持する可能性があるということだ。

 お馬鹿とはいえ思考はある。故に気付き、無関係の旅人にこそ身を委ねるのが良いと判断したのか。

 もしそうであれば、それこそがあんたを支持する民たちへの裏切り行為に他ならないが、そこまで考える頭はまだ足りていないよう。それほど参っているのならツッコミも入れないでおいてやる。

「ルーシャス……」

「俺はザーレだ」

 正面からサンズアラの至宝と向き合い、目線を下げて瞳の奥を覗いた。

 そのコバルトブルーに、あの呪われた海を連想した。

 彼女の両の手が俺の両の肩にそっと触れ、預かる重みが徐々に増していく。待ち焦がれていた展開だろうに、昂りは全くない。

 無慈悲な真実を思い知らされたばかりとはいえ、触れ合えば赤面して戸惑いそうな印象のあるシシーラだから意外だった。両手が震えつつも落ち着いてはいる。

「そう、ザーレ……」

 潤む瞳、女神の美貌が密接になる。俺は何も言わなかった。

 それらが重なり合う寸前、シシーラが惜しむように囁いてきた。その言葉は俺の耳にしか届かない。


「ミレイヤさんは、きっと貴方に感謝しています」


 それは、全く以て、あり得ないことだった。

「何であんたがその名――」

 ロゼロやイシュベルタスを始め、俺の過去を調べた者であれば西大陸の人間でも辻褄が合う。

 だが、何も知らない(はずの)シシーラからその記号が発せられるなど不条理に他ならず、今回ばかりは驚愕を抑えられなかった。

 しかし、疑問はシシーラの唇により遮られた。

 一瞬だけ、猛烈に汗をかいたつもりになったが、それもすぐに忘れ去られるほど冷めた唇だった。

 まるで人の温もりを感じない、飾りのお姫さまに相応しい、情熱の宿らない無味。

 接吻を終えても冷たさは唇に残留した。冷感効果のあるリップクリームを塗るのが砂漠の国で生きていく秘訣なのか……とは、スカベロの経験から考えられない。

 シシーラが三歩後退した。彼女の顔は俺に男としての魅力を感じなかったように切なく、取り返しのつかない失態を犯したような罪の意識を表していた。

 その容貌が歪んで見える。液体と化し、壺に流し込まれてじっくりとかき混ぜられていく。

 鬱々な暗がりだったはずの広間が雪景色に変化する。先程吹き出したはずの汗が気のせいではないと気付いた時にはもう遅かった。

 この国に来て初めて隙を突かれたのだ。自ら演出したものではなく、ちゃんと隙らしく、予期せぬタイミングで。

「俺に……何をした?」

「ごめんなさい。私はサンズアラの安寧を願って……」

「シシーラ、やはりグルだったか……」

 全身から力が抜けていく。これは取り返しがつかない。窮地を勘付くほどの寒気に苛まれる。

 異常値を超えるとむしろ暑く感じるようになってきた。砂嵐か吹雪か。暑いのか寒いのか。俺は汗をかいているのか、氷漬けにされているのか。

 上下左右の感覚も把握できず、おぼつかない足でどうにか立ち続けようと努めるも、すぐ憔悴して床に伏した。迫り来る足音に脳が一々踏み潰されるような激痛を感じると、いよいよ体が完全に硬直し、雪景色に思える世界から鳥みたく羽ばたいていく気分となった。

「私を恨んで下さい、ザーレ……」

「ハッ、あんたみたいな女……もう考えたくもない……ね……」

 死に場所を探していたとはいえタダで終わるつもりはなく、最後に残った気力を使って言い返した。

 こんな事にならなければ、こんな言葉をあんたにぶつける事もなかっただろう。受け取ったあんたがどんな反応を示したのかがぼやけて見えないのは少し勿体ない。

 しばらくは意識を保っていられたが、瞬き一つできなかった。どこかへ運ばれていく記憶を最後に、冥界のより深淵に堕ちていった。

 せっかく助けてやろうと思っていたのに残念だったな。

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