冥界 Ⅲ

 その涙がどれだけ本気で情動を表しているのか。イシュベルタスではなく、シシーラの本心こそを問い質さなければならない。

 このタイミングで涙を流す意味。知らされていない事実の中にとてつもない不都合があったからか。またはその涙さえ、そうするようにと仕組まれた偽りなのだろうか。

 シシーラのことは放っておいて決着をつけ次第この国と縁を切るのが賢明な判断だろうが、どうにも間が悪く、下賤なカラスたちでさえ空気を読む中で動き出すのには躊躇いがあった。 

 傍に立つ神官長・デルタなど弱る主君を励まそうともしない。冗談を受け付けないしかめっ面はシシーラではなく俺たちの方に向いている。それもおかしなことだが、つまりはその精悍な容貌にさえ『裏』があるということなのだろう。

プリンセス、気付いてしまったのですね。このミイラの正体に」

 イシュベルタスが神のように俯瞰した目線から膝を突くシシーラを憐れむ。慈しみの含まれる眼差しだが、口元のニヤつきは隠そうともしない。こいつとしてはもうポーカーフェイスで欺く必要がない段階に進んでいるのか。

 神として仰ぎ見るべき格上の存在とはいえ、この国の王であり、己が主君たるシシーラ姫を侮蔑されてもなお微動だにしないデルタの態度に一つの疑惑が晴れた。

 この国で出会い、僅かでも語らった者たちのほとんどがデルタという名前だった。王家の血を引く人間にのみ特別な名前があると門番・デルタが言っていた。

 つまり、他の民衆も全員『デルタ』という名前なのだろう。周囲のカラスたちさえも。

 例外といえば俺とイシュベルタス。あとは妹のスカベロ、それにロゼロ。いわゆるこの国の生まれではない人間。

 それ自体は別にいい。どうせ裏事情があるのだろうが、害がなければ気にすることもなく、それがこの国の文化なのだと受け入れられる。

 それでも容姿や役職には個性があった。門番や研屋など、個別に必要な記号もそれぞれに備わっている。

 だからこそこの違和感は最早潔いものだ。元より疑いはあったが、この国の王と神、双方とその配下が一堂に会することにより、釈然としなかった点が明確になっていく。

「貴殿も気付いたようだな。神官長・デルタについて」

「まあな。隠すどころかモロだった。追及する気が起きなかっただけさ。それに、民衆や客人にとってはどうでもいい話だ。困るのはシシーラと、シシーラ派の衛兵くらいだろう」

 泣き顔を隠す両手を反射的にどかしたシシーラと目が合う。苦手な様相、か弱い少女に落ちぶれていた。

「そう、彼は神官長だ。シシーラ様より私の意向を優先して動く。彼だけでなく、衛兵と呼ばれる役職の者たち……いわゆるこの国の戦力として計算できる者の多くはいざとなれば私に従う。私より前の救世主なぞ架空に等しい錆びた存在のため、しばらくは先代の王一人の政権だったが、今は私とシシーラ様の二人でこのサンズアラ国を支えている。そういうことになっている。表向きはな」

 まだ出し切ってもいないシシーラの落涙が嫌でも止められる。信頼した相手の『裏』の顔と自らの愚かさに言葉も出ず、ただ唖然とするばかり。

「つまり、こいつを慕っているのは無辜の民だけで、貴様や害鳥共だけでなく、神官長も衛兵たちもこいつを慕っていなかったと?何も知らず皆から愛される優しい王さまをやっていただけのこいつを、貴様らは密かに冷笑していたわけだ」

「全員がそうとは限らんよ。言ったように所詮は始まりを知る者さえ残っていない古い理念だ。神として敬われる私か、事実として王の彼女か、いずれかの選択を迫られた時、理念を破り彼女を選ぶ衛兵も中にはいるだろう。もっとも、その時とは内乱以外の何でもなく、平和の時代は静かに終わりを告げるだろうがな」

 唖然としながらも少しずつ理解が及び、額から汗を垂らすシシーラ。対するイシュベルタスはあえて同情の眼差しを向けるも、声音の弾みから蔑みは明らか。

 元は部外者の立場でありながらも既にこの国を半分支配し、その気になればいつでも平和を破滅させることが可能な策士を相手に、体だけで中身は幼児同然のシシーラは分が悪い。

 何よりこの暗がりの広間に、彼女を愛し、彼女が愛する無辜の民は一人としていない。発情と狂暴性を堪えるカラスたちの巣窟で、無力を引き立てられるように手を出されず置かれていた。

「神官長、こちらへ」

「はい」

 中立が期待できたデルタすらもシシーラから離れ、真の主君たるイシュベルタスの元へ還っていった。真横を通り過ぎる際に「見逃していいのか?」と囁かれたため、「貴様など眼中にない」と、主君の方を睨みながら答えた。

 元は包帯男が待機していた玉座の後ろにデルタが入れ替わる。イシュベルタスは何もなく、神を挟みデルタと並んで佇むカラスの親玉も訝しむ顔をするだけだった。……小さく頷いたのは見逃さなかったが。

「彼にはシシーラ様の監視を頼んでいた。サンズアラのプリンセスとして相応しく在れるよう、周囲が甘やかすのなら厳しく接せよと。私という神の化身が君臨する時代であれば、尚更神官長が隣にいることにより主導者としての威光を演出できる。全ては私たちの悲願と、カラスたちの野望のために」

 蚊帳の外となっていた包帯男が薬液を零しながら膝を震わせて剣を構えた。不毛な時間はもう少し続くらしい。大人しいカラスたちも、個の力はともかく、知識の差からまだ優位のつもりでいる。

「まず、私としては現状維持に徹するのが一先ずの理想だった。平和かどうかではない。とにかく貴殿という例外が現れるまでの間、使える物と使えそうな物を十全に揃えておければよかった。カラスたちもそうだ。彼らは厄介な扱いとなっているが、私にとっては貴重な要素だ。だから、シシーラ様や民衆からこの悪党たちを何とかするアイデアを要求されても適当に言い逃れて時間を稼いだ。彼らもこの国の一員で、広く見ればあなたと同じく王と神の祝福を受けた家族ではないか。自分と相容れない存在というのは一国の中にもいて当然なのだ。彼らが遠征に赴き、異国を牽制してくれるおかげで今日の平和が守られているのだ。むしろ彼らという明確な悪党がいるおかげでそれ以上の悪が生まれないようになっているのだよ。……などと、個々人に適した説得の言葉を選んでね」

「……そうだったのですね」

 反応したのは俺ではなくシシーラだ。相手の剣はより鈍くなり、それだけ彼女の顔色を確かめる余裕もできた。目元から首へかけて涙の伝った跡が残っていた。

「イシュベルタス、何故貴様が昨日まで見ず知らずだった俺を特別に扱うのかは理解している。この国の連中が簡単に騙されている理由もな。どれもこれも、よくある話だ!」

 大剣を弾き飛ばし、がら空きになった包帯巻きの腹に蹴りを入れた。

 包帯男はシシーラのすぐ傍まで転がっていった。悍ましき人間の末路に怖れる素振りはない。シシーラが悲痛に呼吸を乱しているのは別の原因によるからだ。

「……これは私だけでなく、先代のサンズアラ国王・サンザークの悲願でもあった」

「何だと?」

「彼は争いを好まない性格だった。表向きは、だがね。王家の血を引く存在に生まれ、日毎に国民からの信頼が厚くなってしまったせいで望んだ生き方が叶わなかった儚い男だよ」

「そいつは今関係……」

 説明したがりの彼奴と、無関心を装いながらも聞き入ってしまう俺の間、自ら真実に辿り着いたことにより暫しの沈黙が生まれた。俺が「まさか」と疑うも、イシュベルタスは何も言い返さなかった。否定をしなかったということになる。

 包帯の男は遠くの剣を取りには行かず、ヤケクソで俺に向かってくる。

 手足を斬り落とすのは容易だ。しかし、もしそうであるのなら、何よりシシーラの見ているところでそれをやるのは憚られる。

 これが砂漠の中の小国・サンズアラというぬるま湯を闊歩して伝染した甘さであり、後の敗北へ繋がる要因だった。

「サンザーク王が本当に作りたかったのは闘争の国だ。小さな領土で妥協するのではなく、外国を侵攻したいというのが本音だった。彼は民たちの笑顔などより好敵手と剣を交える方を愛していたからね。だが、皆の期待や娘たちのことを考えてそれを諦めてしまった。彼には未来を見通す眼があった。いかに正確かは分からんがね。だから滅びを迎える前にかつて交流のあった私に助けを求めてきた。崩壊を回避してほしい。報酬は望むだけ賜すとね」

 俺の予想は的中したらしい。正解に行き着いた俺を見つめるシシーラが「助けてほしい」と潤むコバルトブルーの瞳で訴えていた。

 その間から包帯の腕が殴り掛かってくる。怒りが頂点に達するもどうにか堪え、その顔面を殴って何度目か吹き飛ばすだけで許した。

「彼はしばらく使われていなかったこのピラミッドを私に譲るのと同時期に新たな未来を読んだ。分かるかね?」

「簡単だよ。この平和は永遠に続く。続いてしまう、だろ?」

「その通りだ冒涜者。同時に遠くない未来にこの平和を終わらせるか、あるいは真の意味で民を救済する存在が現れることも読んだ。群れる不吉なカラスたちとは違い、誇り高くも獰猛なハヤブサがやってくるとね。その時が来るまで平和から遠ざけてほしい。来なければ放置してくれて構わない。そう言って彼は、この国にのみ存在する五体保存と死生超越の魔法、『ミイラ』を自らの玉体で断行した。結果はこの通り。失敗か、もしくはこれ以上の出来にはならんのかもしれない。地下の余りも全て貴殿に処理してもらうのが最善かな?」

「余りだと?」

「そうだ。王の玄室が一部屋のみというだけで、他のミイラ共を保存している部屋が別にあるのだよ」

「嗚呼……何ということを……」

 涙はもう枯れたらしい。それでもシシーラは残酷な現実に怯えて小さな顔を両の掌で覆った。

 こんな陰気な穴倉ではなく、晴れ空の下で呑気に聞かされた馬鹿の死因とは、その実あまりにも凄惨で、娘ではなく部外者の男に知らされていた過程と末路だったのだ。


 ――この死に損ないの包帯野郎。こいつの正体は先代のサンズアラ国王。つまりはシシーラの父親、サンザークなのだ。


「シシーラ様、サンザーク王の火葬は広場で盛大に執り行いましたな。サンズアラ史上最も民の安寧に尽くした王の葬送に皆が涙していました。しかし、あの火葬は偽装にして欺瞞。遺体を運ぶ直前、貴女方が父君の仮死顔を見届けて、広場へ移るまでの僅かな隙に棺を入れ替えてあったのです」

「そ、その替わりの人とは……?」

 今にも昏倒しそうに息を切らしているこの国の現王を、しがない旅人から神の座にまで上り詰めた真の為政者が嘲笑う。その、同情と蔑みを兼ねた覇者の眼に、シシーラはただ戦慄するのみだった。

「サンザーク王の妃、貴女方の母君は絶世の美女だったという。王家の女性は決まって美形になるらしいが、母君は更に群を抜いていたと。貴女方を生んで役割を終えたようですがね。ミイラ化は正しく彼女のために在った秘術ではないかとサンザーク王も仰っていた。……ここまで話せばあとは想像の通りだよ、シシーラ様」

 いよいよ狂ったか、シシーラは悲鳴を上げながら蹲り、自らの艶やかな黒髪を、褐色の頬を不規則に撫で回した。表情は覗けないが、それを目撃したら俺はきっと余計な気を回すことになる。

「自分が死ぬのだから保存した妻の遺体がどうなろうと関係ない。すり替えを提案したのは貴様ではなく、クソ親父自らだな?」

「そうだ。復活しても人間の理性は取り戻せない。それなら再会もクソもない。妃は先にそうなっていたわけだしね。死を覚悟すると躊躇いなく我が愚妹を抱いた男だ。いかに平和が苦痛だったか分かるだろう?貴殿のような同じろくでなしであれば」

「全く分からんな。俺はどっちかと言えば泣かされてきた側だ」

「そうか。それなら貴殿もミイラになるといい。棺の中は愛憎と無縁だからな」

 この下品な催しから降りるべく、あえて得物の転がる方へ飛ばした元王さまが狙い通り剣を握り、懲りず果敢に突撃してくる。

 亡者との喧嘩はこれでお終いにする。薬液を吐き出す口はそれ以外に何も発せず、ただ向かってくるだけのミイラと逆転してシシーラが呻き声を上げていた。

 自らこの暗がりにやってきたとはいえ、俺が求めたのは上質な決闘のみだった。ミイラの正体や醜悪な為政者の陰謀など、本音を言えば知る意味もない話だった。シシーラが何も知らなかったとはいえ、これほど気分を害される形になるとは思いもよらなかった。久方ぶりの強者との決闘も台無し。

 化け物であっても別に構わない。体がほつれて鈍くなるのは並の人間と同じだ。

 だから、そんな姿に成り果てずとも、俺が現れると予見したのなら今日この日までどうにか堪えていてほしかったのが想いとしてある。

 俺の望みは今回も果されなかった。サンザーク王の望みは……問うても無駄か。生前を知らない俺には知る由もない。

 決着を予期して邪悪な笑みをやめたイシュベルタスにだけは、彼の真意が伝わっているかもしれないが。

「おい、斬るからな」

 聞こえていないのか?シシーラを窺うも返事はなく、敵が向かってきている以上はもう待てない。

 肉体の内も外も全て茶色い薬液に塗れた亡霊を、似たような亡霊が祓う。降り下ろされた力の宿らない大剣を、鞘に納めない疑似居合斬りでへし折る。

 怯んだ醜態がすぐに倒れぬよう、弾かないよう、迅速に十度斬り裂いた。死なないのなら、人の形に戻れないほどまで捌いてしまえばいい。

 二度と起き上がることも、剣を握ることも不可能なほど傷付け、命に等しい薬液をありったけ飛散させると、両眼の塞がれた顔のまま衰弱した娘を見つめて倒れた。もう動き出すことはなく、先代の王は本当の最期を迎えた。

 シシーラの涙はまだ枯れてはいなかった。目蓋を震わせながらも野生の獣のような尊厳溢れる眼差しで俺を見ていた。サンザーク王の停止を確認したイシュベルタスが「死して夢を叶えたか、友よ」と、独り偲んでいた。

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