ホットタイム Ⅲ
ザーレの姿をした何者かをミレイヤは何も言わず見つめ続けている。
至って健常な瞬きの頻度と長いまつ毛。次がないと分かっていながらもこの奇跡を前に堂々と構えてはいられず、澄んだ瞳に心を委ねることも、なりふり構わず抱き締めることもできやしない。まだ生きているはずの俺がそんなことをしてはいけないと、あるはずのない正義感に囚われて、オイルライターを強く握って立ち尽くすのみだった。
「うん。やっぱり、ザーレは困ったら誰かに助けを求めることを覚えた方が良いでしょうねぇ」
「何だそれ?」
頬杖を作って賢いフリをするミレイヤに呆れる。
世間的には数年に一人の才女という扱いになっているが、こいつは突発的にふざけやがる時がある。
――困ったら誰かに助けを求める。……それはお前が肝心要でやらなかったことだろうが。
「根は優しい子なのにねぇ。入学早々に先輩や先生を殴ったのはもう男子たちの間で伝説になっちゃってるし、悪い人が相手とはいえ公の場で流血沙汰を起こすし、よく利用する施設はともかく、そうでもないって見切った場所ではお金を払わず逃げるから……とにかく評判は下がる一方なんだよ?このままだともっと居心地悪くなるよ?」
「向き不向きの話だよ。仇討ちとかなら気が向き次第いくらでも手伝ってやるが、皆様に愛されるよう振る舞うのは怠い。見返りが下らない。それに、そこまで言うならもう俺の元には来ない方が良いだろう。生徒会長になるなら尚更な。帰ってグレヤに伝えろ。自重しろと」
「それなんだけど、何でか心配されることは減ってきてるんだよねぇ」
「一時面倒なことになっただろうが」
「あったねぇ、そんなことも。誤解されがちだもんね、私たち。でも、ザーレと直接関わったらみんなも分かるものなんだよ。態度は悪いけど信頼できる男だーってね」
「信頼か。辞書から抹消したい言葉だ」
こっちの経緯を知るはずもないミレイヤは口角を上げたまま「うん?」と首を傾げた。
噛み合っているようで俺の方が先を行っている。それは時系列によるものか、そのまま俺とお前の見てきた世界が違うだけなのか。サンズアラの裏を知らず深淵に潜り込むなんて、いくら死にたがりでも無茶だったんだ。
幼馴染で昔から互いの趣向とペースを知ったつもりでいた。その慢心もまた後の悲劇の伏線であり、結果の出た今でさえ反省しようのない断絶の決定打だ。
何故なら俺が今どんな顔でお前と向き合っているのか確かめる術がない。ただ傍に居ただけで、俺たちの信じたもの、縋っていたものは初めから違っていたのかもしれない。
そのように考え始めると奇跡的なこの一時さえも虚しくなり、次第に怒りも込み上げてくるというもの。
ミレイヤがどうこうではない。ただ他人より強いというだけで背伸びをしながら世間を見下し、全てを失ってもなお大人になれず、悟るくらいなら死んだ方がマシと思う俺の精神と肉体が不愉快極まりない。
ここには俺たちに必要なものしか置いていない。
それが幸いした。このワンルームに鏡が置いてあったなら、衝動に任せて顔面を切り裂いていたところだ。
いや、そんな手間を取らずとも、こんな死にたがりがいつまでも尊厳を保っていられるはずがないのだから、より単純に、右手に握る銃器を用いて……。
「……は?」
汗ばむ右手には、確かにオイルライターが握られていたはずだ。
しかし、それよりも分かりやすくて、記憶に深く刻み込まれているあの品が握られていることを触覚だけで把握できてしまう。直接目で確かめるまでもなく。
「無理しないでね……っていつも言ってるけど、やっぱり無理しちゃうのかなぁ、ザーレ君は」
「無理……?」
「そうだよ!表では人斬りなんて呼ばれちゃってるけど、裏では世界を守るために誰よりも頑張ってるの知ってるんだから!ザーレとしては戦いを楽しんでるだけかもしれないけど、ザーレに感謝している人も沢山いるってこと、忘れないでね!」
「わ、す……れ……」
無理。世界を守る。感謝。
……忘れないでね。
そういった、決してお前の口からだけは発せられてはならない単語たちを灼けた脳味噌が読み込んでしまうと、もう抑えが利かなかった。
あれほど快適と感じた昼の居所が、今では砂漠のように暑くて息苦しい。
「お前が言うな。よりにもよってお前が」
「えっ……ザーレ?」
「無理をするなだと?そんなもん、お前にだけは言われたくない。生徒会長だか思想主だか知らんが、急所を撃たれれば死ぬ普通の人間だ。偉くなり過ぎるな」
「う、うん……ごめん……。でも、よく分かんないや……」
いよいよ臨界点を越えた。お前が冥界から恨んでこようとも関係ない。
俺だって、お前を心底恨んでいるのだから。
「お前は誰よりも正しかった。俺と比較してだけじゃない。世界中、歴史上で最も優れた善性の持ち主だった。お前を祭り上げた連中にとっても、真実を知らない部外者たちから見てもな。オルドネリア一の魔法使い。名実ともに天才だったお前は一年の頃から生徒会長になることが確約されていた。自己研鑽だけじゃない。周囲から慕われていた理想の優等生だったよ、お前は」
「あ、ありがとう……?」
こいつは賢い。だが、空気が読めない時がたまにある。無自覚だ。
それもまた他者を引き寄せる魔性であり、故に俺はこいつが死んだ後もこいつに狂わされている。文句を言う機会を永久に剥奪されている。
「オルドネリアに限っては民間に危害が及ぶことはほとんどなかったが、優秀な魔法使いは国外の戦場で重宝された。分かるか?ここで息をするだけでも戦争が他人事になるなどあり得ない。いずれ必ず戦火が飛び散ってくる。それに対してただ迎撃するだけではキリがない。敵国全てを根絶やしにしても、これまで大人しかった他の国が舌なめずりしながら侵攻を開始してしまう。戦争という発想そのものがある限りそれを止める術はなく、今回の戦争が終わっても次の戦争が待ち受けている。それだけじゃない。人と人は決して相容れない。同じ世界に共存している限り必ず互いを貶し合う。人類全てが誰かを傷付けなければ生の充足を満たせない構造になっている。こんな馬鹿げた歴史をいつまで続けるつもりなのかと、あの計画を企てた金持ちの馬鹿共は強い妄念で嘆いていた」
「ザーレ?何を言っているの?ごめんね。ごめん……」
あと一言、突拍子もなく暴言をぶつけるだけでミレイヤはすすり泣くだろう。
それでも止まるつもりはなかった。俺も似たようなことをされている只中だから。
その『計画』を台無しにして、戦争の世を継続させたのは俺だからだ。
「
「これから?どういうこと?」
「俺の頭がおかしくなったと思うか?心配するな、お前より遥かにマシだ。ただ一人の正しい人間の思想をこの世に生きる全生命の脳味噌に上書きする。元の記憶や性格は消滅し、見た目はそのまま、全人類が共通の思想に染まる。これから新たに生まれる生命も親が染まれば同じになる。特殊な生まれ方をする例外も例外ではいられない。必ずそうなる電波が世界中に流れるわけだからな。それが戦争を根絶させ、未来永劫平和の保証された世界を作るための奇策だった。その脳味噌イカれてる有権者たちに選ばれた最優秀脳味噌がお前なんだよ」
「そんなの……無理だよ。いくら魔法に不可能がないと言っても……」
「いや、お前は悩んだ末に自ら決心したよ。断ることもできたというのに、最後は自分の意志で思想主になることを選んだ。学校の中に教会があるだろ?オルドネリア名物の時計塔、その最上階だ。お前が信徒でないから不要になるフロア。あそこには強力な魔素が蔓延しているから魔法陣を布くのにもうってつけだった。お前はそこに独り閉じ籠って自分以外誰もいなくなる世界の礎になる道を選んだ。一度魔法陣の中に入れば二度と外に出ることは不可能になる。せっかく助けてやろうと思っていたのに残念だったな」
俺はただ、この目で見てきた真実を話しているだけ。俺が経験した事実を、お前がこれから経験する退廃を。
ミレイヤは戸惑いながらも俺を心配そうに眺めたり、理不尽な叱責に堪えかねて視線を逸らしたりと、立ち竦みながらも忙しそうにしている。
こいつはずっとこんな感じだったな。俺もこいつに散々迷惑を掛けたが、俺だってこいつに……。
「ザーレ?」
ミレイヤが元から丸い目蓋をより見開く。
その反応は当然だ。何せ俺は、まるで人質をむやみに殺害するみたく、握ったハンドガンの銃口をミレイヤに向けているのだから。
親切なものだ。よく出来ている。眼前に現れてようやく視認できたが、これは正しくあの時と同じルーシャスから借りた銃だ。
教会の扉を開く直前で剣を手放し、もうどこにも行けなくなったこいつの額に弾丸を撃ち込んで始末した思い出が復活した。
腕は勝手に動く。これは俺の意志によるものではない。確かに恨みはあるが、これでは同じことの繰り返しで、憎しみが積もるばかりだろうに。
一刺し指が引き金に触れる。何とか抵抗するも夢の中では効力がなく、ただ右手と額から汗が垂れて床が濡れるばかり。ミレイヤの手間がまた増える。
極めつけはこの女だ。急展開にむかついているのは、下手クソな脚本の主役をやらされている俺だけ、ミレイヤは既にハンドガンで撃ち抜かれる結末を受け入れている。たかが少し頭が良くて魔力の質量が高いだけの分際で女神にでもなったつもりか、全てを包み込む微笑みでこの悲運を愛してみせた。
「クソ……がぁ!」
引き金が徐々に押し込まれる。ミレイヤの寿命が削れていく。震えているのは俺の右手だけ。
他の何も、誰もこの展開に文句を挟もうとしない。全てがあの時と同じだ。
お前……特に生徒会の連中には特別信頼されていたんだから、せめて奴らに甘えるくらいの情けを晒せや!
「お前も何とか言え!このクソ馬鹿女!」
「私、は……」
それは御託ではない。
ミレイヤ自身はこの終わりを認めているが、大人になれなかった俺がこんなだから仕方なく口を開いたのだ。
また新たな呪いを俺に遺して退場するつもりでいる。きっとミレイヤを憎く思うのは筋違いなのだろうが、このザーレってガキの人生にはお前が不可欠だったのだからしょうがないだろう。
「ミレイヤ!」
「ザーレ……」
これが本当に最後だから、余計な意地をかなぐり捨てて心から叫んだ。
こんな奇跡は一度きりだと弁えている。だから躊躇うことはなかったし、迷う時間もなかった。刻限だ。
「ザーレ、ミレイヤはね――」
――ずっと幸せだったよ。
銃声が響く。
命を奪うのに何故それほどやかましい音を立てるのかと、無粋に腹が立つのが常だったが、今回は不思議と騒々しく思わなかった。
そんなものより、額を撃ち抜かれて真っ赤な噴水を散らした女の、震えながらも確かに芯を感じる声が忌々しかった。
最期の台詞まで現実と全く一緒だったからだ。
しばらくの間、ただ呆然と血に塗れた床を眺めていた。どれだけの時間が経ったかは最初から知る由もないが、煙草が吸えないのは夢の中でも同じなのかと、実際の自分が今どうなっているのかについて考え始めると、ようやく長く眩しい砂漠を越えてオアシスに辿り着いた。
そこにはもう女神はおらず、むさ苦しいのは夢も
それでもぬるま湯よりはずっとマシだと痛感したから、あの頃に時間を戻す必要はもうないだろう。
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