GHOST HEART
壬生諦
プロローグ
港 Ⅰ
世界には果てがあった。もうこれ以上遠くへは行けないらしい。
生まれ故郷で、長く腰を据えていた母国を離れて半年くらいか。鬱屈で意欲のない日々の繰り返しだと月日を数えるのも億劫になり、今日が何月何日で、情勢やら流行やらがどうなっているかも関心が薄れていく。長旅の疲労と積もるストレスによりウイスキーの味が濃く感じられることだけが救いだった。
母国・オルドネリアにいた頃から外の世界を駆け巡り、多様な文化に触れる機会は多々あったが、これほど遠くまで来たのは初めてだった。
外国を、森を、山を、未踏ではないかというほど人のいた痕跡がない大地を……あと、よく分からん超常現象などもいくつか越えて、最果ての港町に辿り着いた。
世界地図の左端。この先にはもう何もない。
陽を反射して煌めく大海を背に、オープンテラスのカウンター席に座りウイスキーを胃に流し込んでいる。
見ない顔のため怪しまれているのか、あるいは臭うのか、俺が座ると近くに座っていた男女二人組がテーブル席に移った。
それに機嫌を損ねることも、懐を温めるのに丁度良い獲物として狙いを定めることもない。ここに足を踏み入れた時点で、この先の展開は容易に想像ができるからだ。
困り事も特にない。幸いこの町に着いてからすれ違った人々も、酒や魚料理にありつく他の客たちも、全てを見てきたかのように不敵な微笑みを浮かべグラスを磨くオールバックのマスターも、誰も面倒な絡み方をしてくることもなく快適だ。一部を除いては。
久々のアルコールに脳も体も歓喜の痺れを起こす。
それにこの潮風。煙草の味が恋しくて満足とは言えないが、それでも贅沢により心が潤うこの充足感は懐かしい。
追っ手にはもう四日も衝突していない。加えて無一文だが、打開策はある。
無敵だ……。完璧過ぎて目的がなくなり、これ以上生きて欲するものなど何もないと思えるほどに。
だから、もうここまでなのだろう。
今生でやるべきことは終えた。やりたいことはもうできなくなった。
俺の人生で物語性のある出来事といえば、それは全て過去にあり、未来にはこのように見応えゼロの退屈な描写しか待っていなかった。
――あとは、妥当な死に場所を見つけるだけ。
カウンター席より左後ろを振り返ると、桟橋に漁船が並んでいるのが見える。どれもこれも同じタイミングで波に揺られている。
それらと並ぶ一際大きな黒い船は微動だにしていない。
明らかにそれだけがこの辺境のものではない迫力を醸し出している。漁に出てすぐに戻ってくる小物たちとは違い、あれは一度出航したら遥か遠くへ行ってしまうものなのだろう。
ここが世界の果てに違いないという観念が抜けず、そのような期待も持てず眺めていただけの俺に、マスターが「あれが向こうへ渡る唯一の手段よ」なんて囁く。
しかし悪いが、それが事実だとしても乗る気が湧かなければ豪華客船などハリボテも同然だ。
俺はただ、最早どの国の刺客かもはっきりしない輩に誅されるのが嫌で逃亡生活を続けてきただけで、未知の体験に胸躍らせる冒険や、自分と人生の答え探しなどが目的でここまで来たわけではない。
見ない顔であるなら旅人に違いないと判断したのだろうが、バーテン服を装う女口調の壮年男に付き合う気などなく、何も言い返さず空になったボトルを人差し指で鳴らした。マスターは小さく鼻で笑って二本目を持ってきた。
慧眼ではある。半ばヤケ酒にも等しい見ない顔の暇人を旅人として認識しているのであれば、事情を知らない以上は全くもって正解に他ならない。
何より、下らない反社などのパシリが下らない情報を求めて場末のバーに現れた、などと思われていたら、怒るより先に俺はそこまで落ちぶれて見えるようになったのかと落胆するところだ。
故に主張したいこともない。馴れ馴れしく話を続けてこないのは好感が持てる上、右後ろのテーブル席でやかましく囀っているゴロツキ共と同類に思われていないのなら許せる。頼まれればまとめて斬り伏せてやってもいいくらいに気分は良い。今のうちだ。
そう。闘争に必要なエネルギーはいつだって持ち合わせており、それは対峙の瞬間を心待ちにしてこの身を駆け巡っている。同格との決闘を始めとした自分好みのシチュエーションに臨めないというのが難点なだけで。
望みが叶う日はもう来ない。
それなら、あるいはまだ何かあるかもしれないと信じてこの町の用心棒などを引き受けるのも一興だろうか?一見すればのどかな町だが、裏事情があるのは明らかなのだし、同心は腕利きであればあるほど支持されるはず。
……全く自分らしくもない考えがよぎる。
それほど、ありのままで在れる世界から遠い場所へ来てしまったのだ。
長く凝視していると、四人のゴロツキのうち一人が舌打ちをして近づいてきた。
次いで他の三人もやってくる。全員同じく焼けた上半身を露出する目付き最悪の野郎共で、腰に短剣を差していた。
「兄ちゃん、見ない顔だな。どこから来た?」
舌打ちが嘘のように先頭の男は気さくで快活な印象の声音だった。人は見かけによらないと自ら物語ってしまうように。
その質問は自分たちの存在をこの港町に浸透させるためのものだとよく分かる。
何故ならこの町に着いて以降、黒系の衣類を纏っているのはこいつらと自分だけ。他は意図して黒色を避けているような明るい装いばかりだし、何より肌が黄色寄り。マスターもベストはブラウンとライトブラウンのチェック柄だ。
おそらくこいつらも俺と同じ客人であり余所者だろう。
ただし、向こうは下半身だけ。こっちは羽織りもインナーもズボンもブーツも、果てはカウンターに立て掛けた剣の柄と鞘さえも、全て黒基調の、闇夜に紛れるのに適したカラーリング。
身に付けているもので明るい品といえば、両耳にはめたダイアモンドのピアスと首にかけたゴーグル。あとは……。
ここは海に近い分だけ涼を感じられて心地良いが、周りからすれば俺の格好は目立つだけでなく暑苦しく映るのかもしれない。追っ手の気配もなく、死を待つだけの心構えであるため失念していた。
質問を無視して二本目を胃に届ける。予想通りとはいえ、展開が早いから急ぐ必要があった。
「おいおいおいおいおい!」
先頭のゴロツキが右隣の席に腰を下ろす。それなりに酔っ払っているようで羨ましい。
「兄ちゃん、俺たちとは違うが、俺たちと同じ色だな?勘違いしないでほしいが、別に絡みに来たわけじゃないんだ。これは忠告だよ、忠告。青年、海の方からではなく陸の方から来たんだろ?分かるさ。それなら知らないことを教えてやるのが人情だろ?……おい!酒持ってこいよオカマ野郎!」
物珍しい俺には一先ず親切にしてくれるようだが、マスター相手にはお構いなく怒鳴り散らす。
マスターは怯える素振りなど一切見せずこいつの前に新しいボトルを用意した。こいつはこいつで置かれたボトルを盗むような速さで掴み、喉を鳴らす。
本調子ならこの時点で首を刎ねているだろうに、どうにも気が乗らず、大人しく次の台詞を待ってしまった。
「ここはまあ、白と黒が混沌とするグレーの避暑地だが、向こうへ行ったらそうはいかない。黒は『カラス』だからな。正義の制裁を受ける羽目になるんだ。おっかない女神様に折檻されちまうよ。そうだ!美貌だけで、誰のおかげで経済が回っているかも分かっていない馬鹿メスのせいで俺たちは自由に人生を謳歌することすら許されない!」
「可哀想に」
うるさくてつい反応してしまった。ゴロツキ共は時が止まったように固まった後、一斉に大笑した。
「そうだな!可哀想だよなぁ!?平和の国と謳いながらも俺たちカラスは往来を闊歩するだけで敬遠される!散歩さえ気晴らしの意味を為さない!だから女を拉致るのも、いけ好かない衛兵や店のクソったれをブチ殺す機会も限られている!俺たちは日陰での暮らしを余儀なくされているんだよ!」
賊の武勇伝を肴にウイスキーを。
存外に悪くない。一刻も早く昂りたい自分にとって、下賤な輩の下賤な話は相性抜群。
マスターは尚も俺の方を見つめて微笑んでいるが、他の客は足早に店を出ていった。別に巻き込むつもりもなかったが、ゴロツキ共みたく酒の引き立てにもならない連中なら消え失せてもらった方が厄介が減り助かる。条件が揃ってきた。
「クールだねぇ、兄ちゃん。けどよ、そろそろ腹を割って話さないか?俺たちが何で兄ちゃんをここまで見逃してやってるか分かるか?スカウトだよ、スカウト。今の兄ちゃんにあるのはその羽織と得物だけだろ?加えて引き返すことのできない事情があると見た。それならもう俺たちにつくしか道はねぇ。違うかい?」
右肩に強く手を乗せる『先頭』を睨むも、聖母の眼差しで返された。
この場所で、こんなやり口で仲間を増やしている時点で、こいつらの地力と組織の質には察しが付くが、洞察力だけは確からしい。感嘆しかけるほどの鋭さだ。
これはもしや、俺の勘違いだったか?
そう思い、優しい兄貴分に敬意を込めて丁重にお断りすることも考えた。どっちでも良いのなら、そっちを選ぶのが俺の本懐だというのを忘れている。
「コソコソ生きるだけなら今と変わらねぇな」
「そんな不安はすぐに吹き飛ぶ。酒、肉、女、葉巻に薬。新入りのアンタには五日だけサービスしてやってもいい。俺が話をつけよう。それに、実はうちのボスたちが国の秩序をひっくり返すような最高に狂った計画を練っているらしくてな。腕も立つんだろ?お互いにとって旨い話じゃないか。タダで楽園に行けるんだ。断る理由なんてないはずだ」
やはり頭は良い。交渉もまあ、下手ではない。
ただし、自分に酔っ払ってこっちの要求を確かめなかったのが痛手だった。
それが決裂の決定打となってしまったわけだが、それでも並の雑魚という印象はとうに無くなっている。
他の三人に後ろを取られる。これでもう逃げられなくなった。
イエスと言えば天国へ。ノーと断れば地獄送りか、良くて半殺し。嫌いではない。
こいつらはむしろ潔い。一般的に都合の良い言葉を驕り、世間からも聖人として扱われるように振る舞っておきながらもその実、真っ黒な本性をひた隠していたような輩を両眼が腐るまで見てきたからそう思う。
根本の問題さえ忘れ、自分が何をやっているのかも分からなくなった偽善者をこれまで何人も殺め、何度も騙されてきたからこそ、分かりやすい悪党への好意は嘘偽りなく抱くことができる。
つまり、そっちのやり方に合わせてやっても良いということ。
「ありがとう。良い話を聞いた。察しの通り、この町にも海の向こうとやらにも疎くてな。どうしたものかと困っていたところなんだ」
「気にするなよ。俺たちは今日から家族なんだ。なぁ!?」
あえて声を荒げて同意を求める。まるで打ち合わせしていたかのように背後の三人が愉快に笑い出した。
左後ろに立つ一人が俺の背を強く叩き、半分以下になったボトルの中身が荒波を起こす。つい苦笑してしまったが、好意的な態度として受け取られたようで愉快気なままだった。
最後にもう一口含んで顔を上げるとマスターと目が合った。……潮時だ。
目を見て分かるものなど何もないと断言できる過去があるが、それでも俺の目論見がこのオカマには見透かされているように思えた。
「根性無しの為政者を諸共ぶっ殺して自由を謳歌するのには賛成だ。俺の性分にも合っている」
「兄弟!」
隣に座る『先頭』にボトルを向けると、嬉々としてボトルを掲げ返してきた。
お互いの握るガラスを衝突させ、残りを一気に飲み干す。それにより兄弟の盃が成立する。こいつらが海の向こうの出身であったとしても作法は陸側と共通のよう。
勧誘自体は本気だったらしい。イエスと回答した俺に見せた満面の笑みはこれまでのように芝居掛かっていなかったから。
だからこそ、乾杯を躱されて残りを頭から垂れ流されたこいつは、笑顔を崩すどころかすぐキレ散らかすわけでもなく、体がアルコールに塗れようとも呆然とするのみだった。
「ただし、俺は一人でいい。仲間はいらない。あんたらなぞ足手まといにしかならんだろ。スカウトするには誠意が足りなかったな、兄弟」
「テメェ!」
左後ろから怒鳴り声が聞こえたが、もう意味がない。
――足元の剣を取り、回転する椅子を利用して座ったまま横一線に居合斬りを放った。
断末魔は三つ。
影の薄い間の二人は死に至らない程度に浅く胸を裂かれて吹き飛んだ。
真っ先に襲い掛かってきた左後ろは右手を断ち切られ、血飛沫を撒いて床を転げ回る。
残る一人はネックの消えたボトルを片手に尚も呆然としていた。真っ二つを勘弁してやるため、抜刀からすぐ刃を引く工夫が必要だった。
一部始終を見ていたマスターが「ワオ!」と感嘆の声を上げて拍手を送る。目を合わせた時、これほどやる事をあんたは見抜いていただろうか?
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