ピラミッド Ⅰ

 小鳥の囀りなんてものはない。そも、サンズアラ国どころかこの大陸に渡って以降、鳥類といえばカラスくらいしか目撃していない。

 優雅な目覚めなど求めていないが、風が入るとはいえ日当たりはいまいちで、酒と煙草のくどい味気が残留して頭が重い。

 快眠だったとも言い難い。実際、入眠は希望よりかなり遅くなった。天蓋のシングルベッド。隣ではスカベロがまだ眠っている。

 俺より後に眠ったのは知っている。あの恍惚とした朱色の相貌が嘘みたく、三十手前という印象ながら両親の間で安らかに眠る童女のように穏やかな寝顔だった。

 眠っている今のうちだ。多少恨まれるかもしれないが、この女とはもう関わるつもりもない。理由は俺が拒んでも追いかけ回してくる質の女だと確信していて、俺から出向く必要がないからだ。

 俺の体は綺麗だった。故にこそ効率は最悪。汗や煙の臭いがこびり付き、尚も洗濯していない汚れた羽織とズボンとブーツをわざわざ着直すのだから。この服装も旅の途中で何度か洗うか、一部を取り替えたりした結果の姿で、いくら着心地が良くても異臭を纏う衣で新しい一日を始めるのは鬱屈に他ならなかった。

 スカベロ抜きのまま俺一人でピラミッドを歩いてもいいのかという問題は正直忘れていた。反感を買い、例の巨漢たちが襲ってくるのなら良い眠気覚ましだからと、不遜を自覚しながら葉巻に火を点けて部屋を出た。

 階段を下りて元来た一本道の回廊を戻る。おそらく王の間とでも呼ぶであろう領域に繋がる石の門には昨夜と同じ顔触れの門番がいて、昨夜以上に殺意を増した目で睨み付けてくるため手を振っておいた。残念ながら感情に任せて挑戦してくる者はいなかった。

 朝であっても蝋燭の火は必要だった。遠い出口から一つの白光が見えても回廊はやはり暗い。

 ピラミッド内部は四六時中ずっと夜の中。地下へ繋がる階段など外に陽が昇っていても闇一色だった。

 吐き出す煙の大きさが増していく。溜め息だ。行きで一度通った道であっても慣れない長さ。スカベロの首筋や尻という愉悦が今はなく、苛立ちは止め処なく積もるばかり。

 煙を靡かす風速がミリメートル単位で強まり、自分の体が光の方へ吸い込まれていく。洞窟、あるいは墓場の中とも思えた暗がりから解放されるというのに、あまりにも罪を重ね過ぎたこの身が正統な審判によって裁かれるように感じるところ……。

「おはようございます、ルーシャス」

 闇も淫蕩も縁遠い。こいつの国だというのにまるで場違いな、若く瑞々しい清廉な女性の訝しむ顔が待ち受けていた。直射日光より眩しくてまだ覚め切っていない俺の両眼を毒々しく焼いた。


「これは、シシーラ姫」

「そちらのピラミッドから出てこられるなんて驚きました。しかもこのような晴れの日の朝に」

「おかげ様で。平和の国と聞いたがとんでもない戦国乱世でしたよ」

「馬鹿じゃないですか?」

 俺の全てを信じていない顔から一変、全てを許す(許していない)顔に切り替わる一国の王と、後ろに控える壮年の衛兵二人にお迎えされた。勿論カラスの一味に違いない男たちもおり、黙って俺たちを監視している。

 今日の予定といえば研屋に剣を預け、引き続きタダ飯・タダ酒・タダ葉巻を貰うだけ。国を出る気分になるまでの暇を潰すことしか考えていないため、向こうから用事を持ってきてくれるのは有り難い。

「朝帰りに理解があるとは恐れ入った。見たところ俺と近い年齢のはずだが、さては尽くす女だな?」

「馬鹿じゃ、ないです、か?なぜ私がここにいるのか分からないのですか?」

「迎えに来てくれたんじゃないのか?王宮で優雅に朝食を、あと今着てる服を洗濯してもらいたいんだが、甘える権利はまだ?」

「甘える時期は満了しました。大人になりましょう、ザ……いえ、ルーシャス。良くて半日お説教、非を認めないようであれば女王の厚意を無下にした罪で処刑しますので、どうぞ観念していらしてください」

「いや、すまないが俺にも用事が――」

 町の方へ逃げる素振りを少し見せると、日焼けした細腕が伸びて手首を掴まれた。

 罪悪感は無いが事が事のため冤罪で連行される瞬間のようだ。拗ねているのか、頬を微かに赤らめているこいつと、生温かく見守る衛兵たちのおかげで処刑される光景は浮かばなかった。

 それに、お叱りを受ける覚悟はあった上、事実として俺は恩人の誘いを断り別の女とまぐわったのだから、それを詮索されるくらいなら大人しく従った方が穏便に済むはずだ。

「分かった、分かったから!見た目に反して握力凄まじいのやめろ!」

「本当に反省してますか?より手厚い『もてなし』でもしない限り貴方は変わらないのではないですか?」

「随分と信用されていないようだ。確かに俺は誘惑に負けた。寂れた日々により蓄積されたストレスをまとめて吐き出す場所を求めていた。その結果としてここから朝日を拝む事になった。それだけだ!」

「開き直って!それに信用の話ではなく……いえ、いいです」

 冗談が上手くないのは知っているが、それでもあっさり引き下がるとは思わず沈黙の中に吸い殻の落ちる音だけが鳴った。

 時折見えるシシーラの憂いに似た表情の意味は何なのか?左眼を盛り立てるR字模様のせいでシシーラの眼差しはより深く印象に残る。掘ったか塗ったかは知らないが、為政者として言葉や態度の価値を高めるためには確かに効果的だが……。

「いいなら離してくれ。黙ってついて行くよ」

「そうしてください。全く、貴方のためにご馳走だけでなく色々なお酒や音楽隊の一員まで呼んだのに、どれも無駄になってしまいました」

「それなら祭りで十分に楽しませてもらったよ」

「え?だって満足しなかったからイシュベルタス殿やスカベロ殿の招宴にあずかり、陽が昇るまで語り明かしたのではないですか?」

「うん?」

「……えっ?ルーシャス?」

 シシーラには贅肉のない見事な体をこれだけ見せびらかし、自ら国の外側に赴き民を守る度胸がある。

 民から愛されているのはよく知っているし、男衆からは邪なまなこで見られているというのに、まさかそんな事はないだろうと連れの衛兵を窺うも、一方は眼を逸らし、一方は畏れ多いように首をゆっくり縦に振った。ついでに背後のカラスたちの反応も調べたが、俺に対して敵意を増すばかりだった。

「……なるほどね」

「何がなるほどなのです?……ちょっと、皆さん?」

 玉体が外界へ飛び出ても心はまだ箱の中で厳重に管理されているようだ。これまでの情報から想定するに、シシーラの両親はもうこの世にいないのだろうが、初心以前の箱入り娘を囲う環境は真の意味で温室そのものだったらしい。

「道理で平和な国が出来上がるわけだ」

 自分がどう思われているのかを把握し切れていない困り眉のシシーラを横目に衛兵たちを見て言う。二人とも気まずい様子で、若い女子ながらも逞しく、それでもまだ少女のままでいる王の背中を温かく見守っていた。

 スカベロという毒蛇の後のオアシスはあまりにも甘ったるく感じた。

「さっきからどういう了見なのですか?意味がよく分かりません。ねぇ?ねぇ!?」

 昨夜、右側のピラミッドへ案内された時とは正反対の状況だ。

 向かうべき場所が明確なため、腑に落ちていないシシーラを置いて勝手に隣のピラミッドを目指して歩き出した。後ろからピラミッド責任者がサンダルを鳴らして追いかけてきても止まらず。

「ルーシャス!待ってくださいよ!」

「スカベロについては知ってるだろ?どんな女だと思ってやがる?」

「彼女は……正直上手く言えません。兄君とは語らう機会がよくありますけど、スカベロ殿とはあまり……。避けられているのかもしれませんが、私はもっと仲を深めたいと思っていますよ!」

「……あんたにも教育係みたいな大人がいるはずだ。そいつから女が自分の家に誘う意味について学んだことは?」

「えっと……ですから、スカベロ殿からお酒を注がれたのでしょう?貴方は珍しい境遇のようですから、元は同じ旅人であれ見てきたものは大分違うはず。貴方の旅路の思い出をじっくり聞きたくて誘ったのですよね?」

「俺より先に教育係を処刑しろ」

 吐き出した煙はこの地に来て最も巨大。好んで吹かしているはずなのに顔中を覆う毒に不快感を覚えるほどで、まだ眠い両眼に酷く沁みた。

「ルーシャス……怒っているのですか?か、過保護だったでしょうか?」

「いや、お姫さんが直々に迎えに来てくれて嬉しい。サンズアラが良い国というのは昨日からこの朝にかけてよく分かったよ」

 過剰ではなく率直な感想でもこれほどの絶賛となる。シシーラにとって俺の悪い癖とも言える遠回しな喋りは理解が困難なようだが、自国を真っ直ぐ褒められたのは余程嬉しかったようで、今度はあどけない少女ではなく、誰かと寄り添うことを知らなかった女神が初めて満面の笑みを浮かべたような代わりの無い輝きを放っていた。

 スカベロは放っておいてもやってくる。気になっているのは踊り子のセンターにしてこいつの妹。そのはずだが、屈託のないシシーラの笑顔にはしてやられた。

 同じ余所者であっても俺と兄妹の人生は違う。俺とシシーラの見てきたもの、許せるもの、魂の濁りなど尚の事。

 噛み合うはずがない。誰に対しても同じように美貌を綻ばせ、異性を勘違いさせてきたに違いないシシーラの光は俺には苦しい。

 二日酔いなんてもう忘れていた。明るい女が苦手なのは、どこで息をしていても変わらないようだ。

「妹についても聞いた。そういえばあんたは踊らないのか?」

「私、踊り下手です。エリーネは何でも器用にこなせる子ですが、私は不器用で……」

「さっき俺がした質問。夜の誘惑についてエリーネさまに聞いたら、あんたと同じように返すと思うか?」

「それはどうでしょう。あの子は貴方と同じでお喋りが上手なので、もしかしたら違うことを言うかも。けど、先生は私と同じ人でしたよ」

「そうか。それは……ちょっとアリだな」

「……邪な男の人」

 目指すピラミッドは隣にあるが、どちらも巨大なためしばらく歩く。

 高い地点から視線を感じて振り返った。右側のピラミッド、例の虫食いだ。

 スカベロの部屋からではない。より高み、頂点の下にある窓から俺を見ている誰かがいる。

 自慢の視力なら顔を視認することも可能なはずだが、そいつは既にいなくなり、こっちからはもう洞穴にしか見えなかった。

「ルーシャス?」

「……いや、気のせいだろう」

 シシーラの声を受け、再び左側のピラミッドを目指して歩き出す。

 視線は確かにあった。だが、その先には誰もいなかった。

 ごく僅かな時間であれ、俺の背後を取れる何者かがこの平和過ぎる国に紛れている。俺はそいつの潜む暗がりで呑気に眠りこき、隙だらけの格好を晒していたということになる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る