王と神のデルタ Ⅱ
世話になった右側のピラミッドと外観が同じでも内観は違い、シシーラから聞いた通り王宮らしい絢爛さと豪勢さを玄関の段階から見せつけられる。
まず明るさが違う。一本道の洞窟みたいな右側と違い、入口が大きいため陽の光がより強く差し込む。衛兵たちも黒衣のしけた男たちではなく、神聖な空間を守る誉れと覚悟を揃えた充実の眼差しで白のローブを纏い、銀の装飾を身に付けた裕福そうな者ばかり。
比較は嫌いだが、流石に両隣で同じ三角形ともなれば免れない。スカベロとは歓迎のされ様にあまりにも差がある。シシーラの玉体を確認するだけで衛兵たちの顔が綻び、シシーラもまた聖母の微笑みで小さく彼らに手を振っていた。
極太の柱が並び形成される入口のホールは蝋燭の火が無用なほど視界が良い。
それでもここで食事を摂るわけではないから、奥に進めば結局は暗がりに落ち着くことになるだろう。闇に慣れた俺としては一向に構わないが、シシーラがそんな寂れた空間でご馳走にありつく姿は印象と違う。
それもまた杞憂だった。
右側との比較に、シシーラの背面。退屈などなく幾つもの回廊や階段を揚々と進むと、あらかじめ開門されている広い空間に出た。足を踏み入れる前から眩しい陽の光があった。
「へぇ」
「フフ、流石に感動してくれたみたいですね?」
両脚に蓄積された疲労も一瞬で吹き飛び、ただここにいるだけで贅沢を味わえる。
辿り着いたのは、真下の広場を始め、北側を除き国全体を一望できるカフェテラスだった。
遠目で、しかも下から見渡した限りではピラミッドの虫食いがこれほどのラグジュアリーになっているとは思いもよらなかったが、シシーラや貴族が食事を摂る環境としては深く頷ける。
「ここが私たちの食堂です。昨夜も祝祭を楽しむ皆の顔を見ながらワインをいただきました。貴方にも堪能してほしかったのに」
「罪の重さを自覚したよ。砂の国を見渡せる絶景に、あんたの酌。これほどのもてなしはこの世にないだろう」
得意気な顔になるシシーラの案内で手すり前のテーブルに移る。
吸い尽くし、手を熱する葉巻を捨てるのが憚れることもない。テーブルには灰皿が置かれていた。しばらく使われていない。臭みを抜くほど洗っても葉巻を擦った跡が薄く残っているガラス細工。
「それは父上の形見の品です。父上も愛煙家で、行き交う皆を眺めては物思いに耽っていました」
「不義理な浮気者に使われてもいいのか?」
「異邦よりこの国を訪れた者を歓迎する、というのは父上の影響を受けてのものです。きっと喜ぶはずですよ」
遥か高みの蒼天に遠い眼差しを向ける現在の王を見つめ、名残惜しくも最後の一口を吐き出して灰皿に葉巻を擦った。これで貰った五本の葉巻は全てなくなった。
予定がまた一つ、一つと増えていく。その気になればいつでも出立できるが、サンズアラの温もりに浸かれば浸かるほどそうはいかなくなってくる。
「過剰とも取れるほどの丁重さとは常々感じていた。それだけ施せる余裕がこの国にはあるということも。何せ異邦の賢者にもう一方のピラミッドを賜すほどの豪快さだ。まあ、こっちはともかく向こうからは独特の臭いがしたがね」
「イシュベルタス殿は正しく救世主。サンズアラ国における神のような存在です。このままでは人が住む土地としても社会としてもサンズアラは破滅すると予期した父上は、慌てて彼をこの国に招集し打開策を所望しました。イシュベルタス殿はどこにも帰属していなかった無所属の探検家で、昔この国を訪れた際に父上と親睦を深めたと聞きます。やはりピラミッドには誰しもが惹かれるもので、有能な彼から絶賛を受ければ一国の王も愉快になるというもの。私が直接お会いしたのはその後ですけど……。
彼は見事信頼に応えて今日の平和と未来の保証を獲得してみせました。父上が病に倒れてもなお留まり、参謀役に徹してくれています。時に冷酷に思うこともありますが、それでもこの国に必要不可欠な御方であり、もう一つのピラミッドを預かるに足る貢献者なのです」
順に運ばれてくる手間暇かけた郷土料理に目を向けながら『表』の歴史をざっくり教わる。
シシーラもイシュベルタスに一目置いている。聞いた限りでは砂漠の中の小国を救った偉大な男に違いなく、実際その通りなのだろうが……ひねくれた性分と経験則からして、賢く慕われている輩には必ず『裏』があると思えてならない。
手厚く歓迎されるうちに、その誘惑をキリの良いところで振り切って楽園から脱出しなければならない。
俺はどこまで行ってもこの平和を脅かすリスクを負う異分子だ。タイミングを見誤れば厄介事に巻き込まれ、イシュベルタスや、奴を慕う無辜の属性の者たちをも敵に回すこととなるはず。
勘がそう警告していて、さっきから料理に関心が向いていない。
「……病というのは?親父さんの死因は?」
「それは……」
イシュベルタスについて言及するのは今ではない。よって、ここにいないシシーラの父について問う。
この国の温もり、あるいは独特の速度に呑まれてしまったのだ。間髪入れず真実を引き出すのが常だったはずなのに、自ら遠回りを選ぶ。
幽霊は色を持たない。故にこそ染まりやすい。
朝食寸前に残酷な質問を投げたのは承知している。だから気休め程度の間を取ったのだ。
しかし、シシーラが俯いている理由は、悲しみや偲びではなく……呆れ?
「毒です。聞いていますか?スカベロ殿の体質について」
「聞いた。口付けだけでも死ぬらしいな」
「そうです。あの、この話はあまり広めないでほしいのですが、父上は彼女に誘惑されて……」
「そうか。まあ男子だからなぁ」
「はい。…………おや?」
気付いたシシーラ。目を逸らす男。あの毒蛇に『誘惑』されたという共通項が致命的だった。
「食事にしよう。あんたもこれからだろ?朝食より優先して客人を迎えに行くなんて流石は偉大なるスケベおや……平和の王の娘にして正当後継者。寛大さが違う」
「……ルーシャス?」
シミひとつない透明なグラスに注がれた水を手に取ろうとするところ、トドメを刺しにかかる蛇のような素早さで褐色の腕が伸びてきた。先程も中々だったが、今回はより怪力で、そのままへし折られるかと思うほどだった。
「ルーシャス、私に何か隠し事がありますね?」
「俺には裏表も、後ろめたい過ちもない。仮にあったとして、その妙な模様で引き立てられたコバルトブルーの瞳で何でもお見通しじゃないのか?」
「どうしてそれを!あっ、いえ……コホン」
言い逃れはもうできそうにない。ここから飛び降りることも策としてあるが、蛇に睨まれたカエルのように体が痺れて動けない。捕まった右腕だけでなく、影の濃いシシーラの頬笑みにより逃走の選択肢を切れないようにされている。
「そういえば貴方、さっきおかしなことを言っていましたね?確かぁ、何でしたかぁ?父上も似たような目に遭ったようなぁ?……はて?」
「清純でいろ、シシーラ。あんたは今のままで十分美しい」
「あ、ありがとうございます。……それで?」
「それでも何も、痛って!」
褒めても誤魔化してもまるで効果がない。少し照れるもすぐ元通り。同じ笑顔のはずが段々と迫力を増していき、握られた腕が砕かれるのを予感するほど。
隠すつもりはなかった。ただ、シシーラがそれを知る必要もないと思っただけ。清純な女性を貫いてほしい、などと馴れ馴れしい妄想があるわけでもなく、王宮の招きを断り、あの蕩ける夜に至ったのだと教えれば傷付く気がしたのだ。
他者の心を配慮するつもりなど俺にはない。ただ、ここまで健やかに同じ時間を共有した間柄であれば、それを余計な一言で台無しにするのは空気が読めていないと思っただけ。
要するに、恥も反省もないが、後ろめたさそのものを利用して逃げ切るつもりということ……!
「昨夜、貴方は、『神のピラミッド』にて、何を、されていたんでしょうねぇ?」
「神の?」
「はい。こちらが『王のピラミッド』で、向こうが神の側とされています。この国に生まれた王家の血を引く者が住まうピラミッドを王とし、他所より来て泰平に貢献した者を神として扱う。イシュベルタス殿に限った話ではなく、昔からそういう待遇を賜すのが伝統なのです。……で、その神聖な空間で貴方はスカベロ殿と一体何を?教えてくださるかしら?」
「平和の裏の顔が出ているぞ、シシーラ。分かった。別に説明してもいいが、改めて深堀りするのは野暮だと思わないのか?」
「野暮?それほどのことでしょうか?」
「それほどのことだろうがよ。あんたからすれば」
シシーラは怪力を抑えぬまま長い揉み上げをふわりと揺らした。
おそらく……いや、持ってきた料理をテーブルに並べるのを躊躇う宮廷料理人たちから察するに、やはり俺とスカベロがまぐわった可能性がこいつの頭にはない。
「お二人はイシュベルタス殿も交えて朝方まで飲んでいたのですよね?」
「いや、そいつにはまだ会っていない。会えば不穏になる気もするしな。昨日はスカベロに誘われて二人きりで夜通し仲良くお茶会をしただけだよ」
「聞き忘れていました。スカベロ殿とはどこでお知り合いに?」
「カラスの巣で」
「東区ですか?どうしてわざわざあの場所に?」
「いや、つい」
「ついって……」
平和の国のお姫様にとって、その裁量が完全でないことを明かすカラスたちの存在は快くないか。表情と感情が直で繋がっているようで分かりやすい。
連中はやはり国にとっての目障りな汚点に他ならず、シシーラも手を焼いている様子。連中を野放しにしている現状こそがシシーラの『後ろめたさ』なのだろう。
「そこでスカベロの誘惑を受けたということさ。そして今、高みから庶民を見下しモーニングをいただくに至った」
「そのような言い方はやめてください。私たちは皆さんと比べれば多めに料理をいただけますが、内容は同じなのです。確かに国一番の料理人による加点はありますけど……」
やはり平等を愛する質の王か。自らが高みから皆を見下す立場であれ、皆が貶されるのは許せない。
そも、シシーラは特別な待遇に居心地の良さを感じていないのだろう。
なるべきして王になったわけではない、か。ただ一日が平穏に過ぎていくことを願う一人の若い女性。凄まじく腕が立つにしても、その力さえ国を守るために仕方なく身に付けたか、与えられたものに過ぎない。
やはり真逆の境遇だった。俺には理解のしようもない話だ。
溜め息を吐くと、それが降参のサインだと理解し手を離してくれた。
「誘惑という言い方が悪かったのですからね」
「全面的に俺が悪かったよ。全面的に許してくれ」
「大事ないようで何よりです。スカベロ殿は綺麗な方ですから、悪気が無くても男性をその気にさせてしまうのでしょうね。貴方まで彼女と接吻をしたのではないかと肝を冷やしました。もしそうであれば今頃ここにはいませんし、いたとしても今みたく平気ではいられませんものね!」
適当に相槌を打てば済んだことだろうに、慈愛や安堵、それから溌剌へ移り行くシシーラのサイコロ表情に目を奪われて無言となり、惜しくも朝食を前にそれを阻まれる結果となる。
「……まさか、したのですか?」
急激に喉が渇いて水を求める。今度は止められなかったが、オアシス以来久々の純粋な水を美味いと感じることはできなかった。
一気に飲み干してグラスを置いた後、シシーラの固まった顔を見つめ、また視線を逸らし、静かに真実を明かした。
「…………うん。したね」
正面に座すシシーラは慌てて立ち上がり、出入口の暗闇に向けて大声で「医師の皆さーーん!」と叫んだ。
最初からそこに待機していたかのような速さで白衣の中年・壮年が駆けつけ、有無を言わさず担架に乗せられて医務室へ送られた。毒や二日酔いにより、空腹のまま激しく揺られることで死を予感した。
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