王と神のデルタ Ⅲ
医務室のベッドに寝かされたまま問診を受け、一向に体調が急変しない俺を凝視しては医師たちと付き添いの姫君が段々と誤解に気付き始める。
毒に侵されたような気分も発熱も全くない。念のため少し血を抜かせてほしいと頼まれたところで少し怒ると、威圧的とも取れたシシーラも流石に大人しくなり、改めて朝食を医務室に運んできてくれた。
その誠意や、俺だけでなく目下の医師たちにさえ迷惑をかけたと頭を下げる姿勢から不満は抑え込まれてしまった。
「本当にごめんなさい……」
シシーラとしては妥当な判断をしたつもりなのだろう。スカベロと密接になった者は毒に侵され命を絶たれる。それが常識としてサンズアラ国に根付いているのであれば。
俺にはその反応がまるでない。スカベロ自身が毒にかかる速度には個人差があると言っていたが、無効になるケースもあるとは聞かなかった。
俺がおかしいだけで、首を傾げながら部屋を後にする医師たちや、未曾有の展開に落ち込むシシーラこそが正常なのだ。
「基本は全員死ぬんだろ?俺が何か変なだけで」
「はい。私が知る限り、助かった者も、無事で済んだ者も過去に例がありません」
医務室も陽が射す位置に設けらている。それに加え、国民から愛される姫君が不貞寝する俺の傍に寄り添っている極楽空間。
だというのに、まるで突然の降雨のように、こいつの気が沈んでいるだけで湿度が増す。
無理やりここへ連行されたことよりもシシーラの俯きに腹が立つ。親身な異性が浮かない様子でいるのは気に食わない。
今も、昔も。
「判断としては悪くないんじゃないのか?」
「でも、ルーシャスとしては嫌だったのでしょう?」
「そりゃあね。あまりにも下らなくて抵抗する意欲も湧かなかった。それこそ砂漠で倒れた時と同じ……ように……」
ここで一つの見解を思い付いたが、いくらシシーラが特別な存在とはいえ、それは特別の意味が突飛しているだろう……と、鼻で笑って忘れることにした。
「ルーシャス?」
「あんたの方はどうなんだ?俺に何か隠し事はないよな?」
「えっ」
「おい……」
「も、勿論です!」
「ならもういいよ。それ、食っていいんだろ?」
「あっ、はい。どうぞ、お腹いっぱいまで」
気になる間があったが、それより今は腹を満たしたい。
トレーから平焼きのパンを取って丸かじり。一見何の変哲もない固くて丸いだけのパンだが、つまらない見た目に反して味わい深く、つい「ちくしょう、美味いのかよ」と呟いてしまった。それでシシーラの暗い表情がいくらか晴れた。
サラダを無視して肉や果物にありつく俺をまじまじと見つめてくる。他人の食事する姿が珍しいわけもないだろうに、何故これで目を光らせられるのか不思議だ。
しばらく俺の咀嚼音と空洞から聞こえるわんぱくな子供たちの声だけが医務室を盛り上げていると、扉がノックされ、シシーラが「はい」と返事すると、外側にいる医師か衛兵が「イシュベルタス殿です」と発した。
シシーラはすぐに立ち上がって扉を開いた。俺は無関心を装い水を含む。
「失礼、
「イシュベルタス殿!どうぞお入りください」
シシーラは誰にでも平等な態度で接する。
それは噂の男が相手でも同じようだが、椅子から離れる一瞬の隙に見せた表情の揺らぎは気になった。
会わない方がいいと直感した男。この国の人間ではないが、先代の王に気に入られ、二年前にはサンズアラ救済のためご自慢の知恵を絞り、沈む未来を回避した賢者。神の扱いの者。
ここは俺の知らない大陸の中にある知らない国だ。疑問など無限にあるが、それを一々問うたところで更なる疑問が生じるばかりでキリがない、と関心を抑えてきた。
なのでこれは勝手な解釈だが、王たるシシーラは、人の域を越えた神たるこの男を無意識で畏怖しているのかもしれない。
客人でいられるうちは口を挟むべきでないが、他所からやってきた人間を絶対的存在として敬う伝統が俺には理解できない。
現れた壮年の男は、首元が開けた構造の黒いマントで身を包む老けた相貌だった。
スカベロが三十手前であればこの男はそれより年上ということだが、実年齢より老けて見えるという印象がすぐに偏見として成るほどの貫禄がある。低くも響く声音も含め、参謀という立ち位置も、神の扱いにも説得力がある。
「医務室におられたとは少し驚いた。やはり厄介事になっていたか。……そちらが例の?」
「はい。彼はルーシャスと言います」
皺の深い口元が波立つ。シシーラのせいでより濁って見える黒い眼だが……何故か友好的とも取れた。
だが、その笑みが隣人の無事を想うものとは限らないと、直感や推測とも違う、俺も上手く把握できていないものにより判断できた。
その『何か』を、こいつも共に感じ取っていることさえも。
「愚妹から事情を聞きました。合意の上なら庇う気も失せ、むしろ馬鹿が一匹この国から減って助かるというのが本音だ。しかし、何も知らぬ旅の者であれば、それは救われるべき被害者に他ならない。見たところ大事ないようで何よりだよ、ルーシャス殿」
「その割には内心愉快そうじゃないか。今、俺とあんたの想いは共通しているはずだ。さっさと化けの皮を剥がせ、この迷惑野郎ってな」
イシュベルタスは突拍子もない罵倒を受けて……より口角を深くした。
「……そうか、これほど円滑になるものか」
その『何か』について、こいつもまだ明確化できていない。互いに「何だこいつは」と腹の探り合いをしている最中のため、俺たちの顔を交互に窺うシシーラを落ち着かせる暇もない。
懐かしいものだ。この、一つ考えを誤れば置いていかれ、次の瞬間には首を狩り取られてしまうような危機に追いやられている緊迫感。
シシーラの手前、暴力の脅しは我慢するが、この男は間違いなくこっちの退屈を紛らわせてくれる存在だ。『神のピラミッド』から感じた視線の主はこいつなのか?
まだ断定できない。外してはまずいため、今は問い質さないでおく。
それに、スカベロから聞いた話ではこいつ自体は別に強くないらしい。こいつの『本気』を引き出すには威圧だけでは不十分なのだ。
俺と同じことを察し、探るようにこっちを見つめるイシュベルタスを睨み返す。とてもじゃないがシシーラとでは到底味わえない至高の香りが医務室に蔓延している。
「ルーシャス殿、毒に倒れていたわけではないのだな?」
思いのほか話が早い。さっき呟いた『円滑』とは、そのままの意味なのだろう。
「姫君を独占していたのを台無しにされて、頭に血が昇っているくらいかな」
「貴殿も聞いているはずだが、スカベロとまぐわった相手は必ず毒を受けて発熱を起こす。熱を冷ます術は未だなく、どれも例外なく死に至っている。シシーラ様の父君、先代の王もな」
「男なら納得できる死に方の一つだろう。俺も別にそれで良かった」
「だが、貴殿はまだ生きている。旅人などいずれは現れるものと分かっていたが、毒を免れた者に関しては過去に例がない。自分が無事でいられる理由について、心当たりはあるかね?」
「ないね。……いや、まさかと思い当たる節はあるが、仮にそうであれば奇跡にも程がある。悪いが黙秘させてもらうよ」
「それは残念だ。やはり貴殿は一筋縄ではいかないようだ。しかし、毒性の女や、これほど完璧な姫君も存在する世の中だ。奇跡などよくある事と私は思うがね」
「下らん。奇跡など存在しない。あるのは筋書きと間の良し悪しだけだ」
「なるほど。道理、か……」
陰気な男と探り合いながら、用意された食事を平らげていく。
無理やり脱がされた俺の黒衣がちゃんと洗濯してもらえるのか不安で、神官長や衛兵たちとは似て非なる白装束のような着物にもまだ慣れない。シシーラはともかく、こいつに見下ろされながらでは優雅な食事の時間にはなり得ない。
俺からは行かない。イシュベルタスから来てもらわねばならない。シシーラに離席してもらうのが一番手っ取り早いが、また子供みたく拗ねる様が目に見えており、少し優位な今の関係性が崩れるのも惜しいと感じて憚られた。
「謝罪をしたい。何か欲しいものはないかね?私に用意できるものなら尽力させてもらうよ」
イシュベルタスの言葉に偽りはないように思える。そうであれば、こいつは俺の器量を試しているということになる。
こいつは俺をやる気にさせるために、わざと反省の色を示していないのだ。
平和の国を築いた賢者。それは表だ。
裏を返せば、こいつはただ先代の王の期待に応えただけの、文字通りの参謀でしかない。イシュベルタス個人の目的も意思もそこには全く介在していない。
そも、先代の王の死に方だって怪しいものだ。一国の王が救世者の妹に絆される。それについてはもう知らんが、何故そうなったのかは知っておくべきかもしれない。スカベロの特性が周知の事実なら、王かこいつのいずれかが妹を近寄らせないようにするのが賢明なのだから。
神のような存在だろうと所詮は人。それに、救済の二年前より先に旅人の立場で兄妹はこの国を訪れていたと聞く。
救済までの経緯と現在に至るまでに『裏』で何かがあった。
その真実を、シシーラは知っているのだろうか?
「欲するものか。それなら王家の姉妹をまとめて連れ去りたいな」
「ちょっ、ルーシャス!?」
憤りと困惑が混在したリアクションのシシーラを無視して男を睨み続ける。
ポーカーフェイスだった。こいつの方はまるで反応を示さず、未だニヤケ顔のままでいる。
「欲望に正直な男のようだ」
「それだけじゃないさ。貴様の陰気な面を見て考えが変わってきた。やはりこの国は胡散臭い。あまりにも陽が眩し過ぎる。影が濃い証拠だ。平和でない方が安定だというのに色々とおかしいんだよ、ここは。疑惑の楽園を裏で操る貴様の管理下に二人を置いておくわけにはいかない」
「ルーシャス、無礼でしょう!彼はこの国の救世主であり、神にも等し――」
「黙ってろ。もう遊びじゃねぇんだ」
「な、何ですって!」
世間を知っているようで、サンズアラしか知らない娘を相手にしている場合ではない。
駆け引きはとうに始まっているのだ。隙を見せればこの男のペースに呑まれる。
キリの良いところでこの国を脱出するなんて発想もこいつの面を見た時から失せていた。タダで退散するつもりはもうない。
「双方、冷静に。ルーシャス殿、悪いがお二人はこの国にとって決して欠かせない至宝そのものだ。いくら私が努力したところで動かせられるものではないよ」
「参謀としてはそうだろうな。だが、神としては?イシュベルタス、貴様として二人は価値のある存在か?貴様は平和という不可能を実現させてしまった男だ。それなら替えが利かない人間の替えを用意できても何らおかしくはない。それこそ、何故かこの国の神たるお前を囲っているカラスたちを使い潰してでもな」
イシュベルタスは言い返さない。図星であり、俺が具体的な追求をしてこないからだ。
しかし、その顔はやはり充実しており、興奮にも似た愉快な心境を如実に物語っていた。
「確かに彼らは昔から嫌われ者だったようだが、他所者の私にはすぐ懐いてくれた。貧富の差を解消し、衣食住が行き届くようにしたのが効いた」
「つまりは使い捨ての駒だろう?それに今言ったことも全てではない。何か狂気的な采配が隠されているはずだ」
「はて、それは一体何のことかな?」
こいつとは気が合う。この場ですぐに本性を明かす展開もあり得たのだろうが、シシーラがいる以上は埒が明かない。話は滞り、葉巻を貰いに行くのが遅れるだけだ。
あるいは、こいつの方こそ待っているのか?
問答や真意の確認など最早どうでもよくて、俺がどれだけやれる男で、敵になるにしても味方になるにしても……能う男で在るのかどうかを。
それなら要望を伝えるのではなく、俺の方こそ試す必要がある。貴様こそ、俺の欲しているものを分かっているのか、と。
「この国は既に完成している。未来が保証されているとも聞いた。つまりは未来に何の刺激も期待できないということだ。貴様、俺のような敵が現れるのを待っていたな?」
「……それはどういう意味かね?」
分かっているだろうに、イシュベルタスはあえて俺に言わせようと計る。
気が合うにしても仲良くとはいかないだろう。そも、分かり合うにはこいつは腹黒いし、俺も性格がひん曲がっている。
平和が終わる。そんな悲観が芽生えたか、シシーラが不安気な顔で見つめてくる。
砂漠で野垂れ死ぬはずだった俺を救ってみせたオアシスの女神が。
疑惑の神と手を組んだ、疑惑の平和の飾り物が。
「平和を作るには、誰よりも生殺与奪と取捨選択について理解が必要だ。特に俺と同じく元は部外者で、先代の王の招集に何故か応える隙間があった貴様ほどの男であればな。さっきから考えていることは一緒だろ?こいつは危険な障害で、同時に平和なだけの退屈な日々を終わらせてくれる娯楽かもしれないと」
「つまり、何が言いたいのかね?」
「ルーシャス……」
泣き出すかもしれないシシーラ。俺がおかしくなったとでも思っているのだろうか。
先に裏切ったのは俺だが、それでも相手の機嫌を損ねたのが新しいのは彼女だ。加えて苦手意識のようなものを持つ男が静かな密室にやってきた。あらゆるネガティブに追い詰められて、俺が酷く機嫌を損ねているか、動揺しているように見えるのかもしれない。
しかし、気分で言えば、昨夜の害鳥駆除や毒女との性交以上に、今は「あるいは」という期待と興奮を堪えるのに必死な状態だった。
「この国にとって俺は余計な異分子だ。完成した国に観光客など入れるべきでないからな。報告はとっくに届いてるんだろ?俺はあんたらの大事な民を何匹か殺した。知らないか、あるいは知らないフリをしろと教育を受けた箱入り娘はともかく、貴様は本来この俺を真っ先に排除しなければならなかった。平和な国の神さまなのだからな。
しかしそうはせず、毒の具合を確かめるだけでなく、あろうことか俺に詫びまで寄越そうとする始末だ。いくつもの本心が見え隠れしているぞ、イシュベルタス」
追い詰められるほどに神の機嫌は良くなっていく。このマゾヒスティック、そんなに楽しいか?
俺は楽しいぞ。
「……貴殿の要望は、実は既に分かっている。私も自分の目で貴殿を確かめたくてカラスたちを大人しくさせているのだからな」
「さっさとそう言え」
ベッドを下りてイシュベルタスと正面から向き合う。
平和の国の闇の側面。真にこの国を支配する男との駆け引きはここからが本番だ。
「俺を殺せる可能性がある輩を用意しろ。こっちこそ神さまの器を試してやる。俺が散るか、貴様の作った仮初の理想郷がヒビ割れるか、見物じゃないか」
「すぐに準備する。こちらのピラミッド、その玉座まで来たまえ。愚妹の面倒を見てくれた礼と私の兵を惨殺した報いだ。貴殿が私の退屈を満たすに足る男なのか、しかと見定めようではないか」
こいつは敵だ。そこははっきりした。
だが、今すぐにこいつを斬り伏せるわけにはいかない。それはこの国の腐臭の原因を外界に晒してからでいい。
東大陸を飛び出してこの国に来た甲斐があったと心から思える。ずっと陰鬱だった俺と、これまで溌剌としていたシシーラの心境がそのまま入れ替わったようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます