冥界 Ⅰ
思いのほか大事になった。
イシュベルタスが医務室を出た後、トレーに乗る朝食の残りを片付け、憂うシシーラと碌に言葉を交わさぬまま王宮の外を目指した。
回廊の途中で精悍な顔の神官長・デルタに捕まり、シシーラが神のピラミッドへ同伴するのを拒まれた。叱るまではいかないものの、デルタの発言には確固たる正義があり、揉める気もない俺は二人のやり取りを黙って見届けていた。
たとえ神の招待であれ、姫君が浮浪者と共に危険な場所へ向かわれては困ると。仰る通りのため、当のシシーラも反論のしようがない。
同時に自国の救世主たるイシュベルタスに感謝はしていても、心からは信用していないという意思も伝わった。
俺としても一人が楽なのだが、シシーラがやけに強情なため不毛な言い合いは長引き、「それなら私も同行させていただく」と、こいつまでついてくる羽目になった。
女王とその臣下。二人を後ろに従える浮浪者が王のピラミッドから神のピラミッドへ移動する。どう見ても国の一大事と取れる光景がそこにあった。
意外と早く神のピラミッドに戻ってきた。入口には誰も待機していなかった。
いわくつきに違いない地下へと続く闇の階段。一夜を共にした女の部屋へ繋がる誘惑の階段。
それらを通過して石造りの門の前に立つ。門番は誰もいなかった。
現在の格好は、医務室で着替えさせられたままの、白装束のような涼しい衣服にサンダルで、剣を腰布で留めている。身軽とはいえまだ動きにくい。不安があるとすればこの格好くらいだ。
もし、この先に待つイシュベルタスの用意した対戦相手が未だかつて見たこともないような破格の存在で、そいつ相手に惨敗する結果になったとしても、それは別に不安とは言えない。
これから始まるのは決闘だ。ギャラリーが多そうなのは余計だが、求めていた道楽が門の向こうに待ち受けているのなら快く臨むに限る。
左の口角を釣り上げて石造りの門を開く。その先には……。
「何ですか、これ……」
背後のシシーラは事態が呑み込めず、侮蔑にも等しい困惑の様相を浮かべているのが見なくても分かる。
本来ここは王の間という扱いの静かな空間のはずだ。入口から真っ直ぐ奥の椅子にイシュベルタスが座しており、一歩後ろに黒いジャケットを重ねる禿げ頭の巨漢と、全身に包帯を巻いた剣を握る男が佇んでいることで証拠にもなる。裏の王としての証拠に。
だが、そんなものよりもこの場の空気だ。
王の間とは神妙で、認められた必要最低限の人間だけが罷り入るのを許される聖域だろうに……。
「あいつだ!あいつが俺たちの同志を何人も殺した死神野郎だ!」「殺せ!」「殺す!」「死ね!」「死にやがれ!」「さっさとその首吹き飛ばされろ!」
このように、カラスの群れが中央を広く開けて壁に並び、下品な罵声・怒声をここぞとばかりに飛ばしてくる。俺はともかく、シシーラと神官長もいるというのにだ。
俺は慣れているが、二人はこの場の空気に圧されて広間の中央へ慎重な足取りで進んだ。
唯一の脱出路に繋がる門が閉められ、そこにもカラスが集り逃げ場を押さえられる。二人が同時に振り向き仰天する中、俺はこの場を支配する神さまの尊顔を拝謁した。
「手厚い歓迎そのものだな。それほど待たせたつもりもないが、思考を凝らす質だったのか。何もかも全てが貴様の予定通りか?」
「勿論、何もかも全てが私の予定通りだよ。もてなすべき客人として扱うべきか?それともヒールの剣闘士として扱うべきか?あるいは――」
イシュベルタスが玉座にふんぞり返ったまま右手を掲げた。それを合図に広間は静まり、冗談の認められない冷たい空気へと一変した。
こういう状況下でのみ感じられる風の意味をよく知っている。
隣に立つ巨漢のハゲも大人しいものだが、苛立ちを露わにしながら神の後頭部と俺を交互に睨んでいるため、望んでそこに立っているわけではないのだろう。
雰囲気を演出しているのは、やかましいだけのギャラリーではない。イシュベルタスとハゲ、あとは……。
「いいのか?こっちにはこの国の姫君とその保護者がいるんだぞ?サプライズにしては畏敬が微塵も感じられない。それとも、これも戯れの一環として愛するのがサンズアラ流なのか?」
「お二人が来られるのも想定していたことだ。無論、身の安全は約束するとも」
「安全は、ねぇ。しかし、そこまで庇う価値のある存在なのか?あわよくばまとめて屠ることも考えてそうな面してるぞ」
「先程は見逃してやったが、やはり頭に異常があるやもしれんな。心配だ。我々こそサンズアラ国の温情に救われている身の上なのだよ。シシーラ姫と神官長殿に歯向かうなど断じてあり得ない。迷惑な妄言だ。ここで死ぬのは貴殿だけでよい」
神が、今度は左手を掲げる。
すると、ずっと停止していた包帯男が自ら口元の包帯を破いて絶叫した。威勢の良いカラスたちもその迫力に強張った顔で硬直する。
それから床に刺した剣を抜いて数歩前に出る。俺のとは比べられないほど太い大剣だ。
推定カラスたちのボスが「俺にやらせろ!」とイシュベルタスに提言したが、「彼が先だ」と無情に制されていた。
「離れていろ」
「ルーシャス、しかし!」
「俺は死なん。絶対にな」
「間違っています。貴方も、イシュベルタス殿も……」
急展開に加え、本来この国の最高指揮権を持つ身分でありながら、まるで大人同士の問題に口を挟むことすら許してもらえない子供のよう。オアシスで垣間見た女神みたいな側面も、民に愛される姫君としての貫禄も、最早遠い過去の思い出となった。
納得がいかないのは当然だ。この状況も、これから始まる純粋な殺し合いを中止させる算段も持たない自らをも惨めに感じているのだろう。
決闘が始まる。その前に、俺をここまで生かしたシシーラに対して……。
何も言うことはない。あんたは俺を信じていたかもしれないが、俺はあんたを信じていない。慰めの言葉が必要な弱る女の顔をされたって、今でもこいつらと裏で結託しているのではないかと疑っているほどなのだから。
状況を受け入れられずに俯く様は本当に拗ねた子供だ。動かない主君をデルタが宥め、その小さい肩に触れることで納得しないまま後ろに下がった。
デルタとは視線が合った。信頼など皆無。こいつの目は確かに「無様に死んでしまえ」と言っていた。
「よいかね?この者の紹介をしても」
「いらんよ。すぐに息絶える儚い命だろう?」
「命、か。そうだな。やはり説明してあげなければなるまい」
心底馬鹿にする言と音を選び、イシュベルタスは立ち上がった。静かに呻き声を上げている包帯の男を指差して、より高らかに囀る。
「この者はもう生きていない。死者だ!いや、厳密には貴殿との決闘のため、つい先程冥界よりこの世へ凱旋を遂げたというのが正しいか」
「馬鹿な。冥界などどこにもない。死者がこっちに回帰することもな」
「それは貴殿が今まで見てきた狭い世界の常識かね?これはすまない。より懇切丁寧に一から説明すべきか。見上げ、仰ぐべき相手と邂逅した際の礼儀・作法から」
「マナーで守れるのは俗物のお心だけだ。そいつはここで殺す。うっかり貴様の方にも剣先が伸びるかもしれんから下がれや」
「そうか。分かった。では二人が戦っている間に掻い摘んで説明させてもらおう。そう慌てることもない。彼は貴殿の驕りをすぐに後悔させてくれる真の剣使いだよ。生きているのか、死んでいるのか、何も鮮明でない亡霊のような雄のケダモノ。剣の道を突き進んだ世捨て人。平穏の中に居心地を得られなかった戦場の住人だ」
イシュベルタスが邪悪な笑みを浮かべ、包帯の剣士は突撃してくる。どれだけ理性が残っているかは不明だが、最初に片付けるべき対象が俺であることは理解しているらしい。
狂犬を調教してみせる裏の王は、俺とこの亡者の剣が唾ぜり合うその直前、確かに俺に向けてこう言った。
「同類だな。似た者同士、一方の命尽きるまで存分に削り合うがいい。……人斬り・ザーレ」
捨てたはずのものを呼び起こされたことで不覚を取る。
殺伐とした舞台演出を台無しにしてやろうと居合の構えを見せたのだが、ついほくそ笑む神さまとこの亡者に関心を持ってしまい、振りかぶられた豪剣を素直に受け止めてしまった。
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