独房 Ⅲ

 独房には二人。扉の外に人の気配はない。

 雇われの余所者に見張りを置かないということは、それだけこのシダーズをイシュベルタスが信頼しているからなのか、あるいは俺と同じだからなのだろう。

 もしそうであれば、意欲が湧かぬまま活路を見出せてしまうことになるのだが、果たして。

「あの男、鍵を掛けずに行ったな。私まで生かしておくとは酔狂極まる。余程お前が気に入ったようだ」

 拷問官はグレーのロングコートに両手を忍ばせて、宙吊りの俺に近寄る。

 老けてか地毛か不明な銀髪を一本結びにした、中年ながらも皺の浅い眼鏡面。イシュベルタスに似た低くて貫禄のある声音だが、決定的な差異がある。

 この男は、いくら洗い落としてもこびり付いて消えない血の香りを漂わせている。

 壁際に放置されたアタッシュケースから特にその臭いが感じられる。俺の得物が剣であるのに対し、こいつの商売道具はその中の何かということだ。

 それを駆使して冒涜者を分からせるのがこの男の負った仕事だろうに、まるで捨てたように構わず放置しているのは一体どういう了見か。

 拷問は既に始まっていて、その言動こそが俺を一先ず安心させるためのアメであるとも考えにくい。

「見事に鍛え上げたものだ。噂はかねがねだが、まだ二十歳なのだろう?それにしては相当のタフガイだ。一番良いのは瞳だがな。本気の際は肉食獣の容貌に化けるものなのかね?」

 拷問官が捕えた獲物の肢体を撫で回す。格好は白装束まがいのままで、上半身が露わな状態のため、直に傷をベタベタ触られると腹が立つ。しまいには手を伸ばして目蓋を無理やり開かせてくるため瞬きも難しく、無事だった眼球さえ赤く染まり始めた。

 苛立ちが増すも声には出さず、舌打ちすべきタイミングでそれを我慢すると、拷問官は深く頷き手を離した。

 流石に溜め息くらい漏れる。とっくにこいつのペースなのだろう。抵抗はおろか、得物も届かない場所に置かれた以上、こいつみたく一味違う人間に限らず、最早誰が相手であっても今の俺に勝ち目はない。敵勢力が集結した広間では最強と自負していたのに、今や自分より弱い存在がこの国にいない。

 わざわざ揉め事を起こす必要もないくらい平和が完成した国にいても尚そのように考える自分が惨めでならないが、眼鏡越しの尖った目付きで観察してくるこの男に心まで見透かされているような気がして、急ぎ踊り子たちの腰振りで脳内を染め上げようと試みる。

 しかし、本当に心が読めているのか、脳内の映像を切り替える寸前で拷問官がニヤけたので、赤髪のセンターと手を繋ぐ寸前でそれも断たれてしまった。

「精神まで逞しいとは恐れ入る。まあ、心と体は密接しているからな。どちらかが頑丈であればもう一方もそうなるのが通常だ」

 まどろっこしい。本題へ強行する。

「で?」

「私はシダーズ。拷問官ではなく拷問師だ。イシュベルタスに雇われた余所者だよ。奴が不要と判断した者をここで処理する役目を請け負っている。右隣りは棺の溜まりだが、左へ行くと同じ部屋がいくつも並んでいるというのは聞いての通りだ。ここにはあの巨漢がお前を殴って吐かせた血溜まりしかないが、他の部屋はどれも血の池地獄となっている。私がやった」

 何が理由で拷問を始めないのかを答えさせるつもりだったが、返ってきたのは簡潔な自己紹介と、知っている地下の構造だけ。

 異常者同士故に噛み合わないのか、それともこいつも主人に似て結論を先延ばしにするのが好きなのか、欲しい答えは貰えず、あろうことかボディタッチを再開しやがった。

 手が汚れるのも構わず傷口に指を突っ込んだり、遠慮なく急所を握ってくるなどで、もしここから脱出するような展開になればイシュベルタスやカラス共より先にこいつを叩き斬ると誓った。

「良い殺気だ。それがお前の本性だな?私も人のことは言えないが、お前にこの国の空気は合わないはずだ。時を見計らいさっさと出立するつもりがしくじった、そんなところだろう?」

 図星だが答えないでおく。こいつ自体は嫌いではないが、それ以上に気を惹かれる代物がコートから取り出されたからだ。

 食欲など湧く状況でもなく、朝食など床にばら撒かれているほどで、そんなものより遥かに重要な品が視界に入ってきてしまったのだ。与えられないと分かっていながらも涎を飲み込み、睨みを利かす様は正しく囚われの肉食動物か。酷い味わいだった。

「お前の爪や毛根、眼球、耳……痛み十分かつ潰し甲斐のある部位はまだどれも綺麗に残っている。それに、カラスと呼ばれる連中のようにやる前から取り乱すことのない大人な若者というのが魅力的だ。加えて違う大陸を歩いてきた異邦の殺人鬼ともなれば未だかつてないサンプルに違いない。心から惜しく思う」

「今それをほざくということはやる気がないのか?」

「少し迷っているところでな。この身もすぐに不要の扱いとなり、自分より下手な人間に始末されるというのは実に味気ない。それならばいっそ、とな。お前の噂と器量が本物なら賭けても良いかもしれない。故にこうして気を紛らわせている」

 小さい紙箱から取り出した棒状の包みを口に咥え、ジェットライターで先端に火を点けてから吸引した。火口からは葉の香りを猛烈に纏う煙が噴出し、拷問官の口から俺の顔面目掛けて勢い良く煙が吐き出される。削られた分だけ寒気を感じる頬には刺激が強過ぎる毒物だが、これこそが最も欲していたオアシスそのものであるため、俺はあっさりと陥落した。

「おい、助けてやるから助けろ。あとそれ一本くれ。箱ごとでもいいぞ」

「一発で回復したな。喫煙者はやはり異常者ばかりか。本来吸うべきでないこいつをまざまざと見せつけられただけでやる気を取り戻すとはな」

「ああ、俺の完敗だ。望むならお前の好む悲鳴も上げてやるよ」

「そんなつまらないことを言うな。希望を信じる対象を私の手で絶望させる過程が面白いのではないか」

 分かってはいたが、こいつにも独特のこだわりがあるよう。拷問官などやっているような輩であれば……いや、もう誰がどんな心を持っていようとも意外じゃない。

 わざと俺の顔面に直撃するよう煙を吹き出す中年男は、イシュベルタスと違い、今のところ真剣な表情の時が多い。懐かしい煙草の香りに当てられるだけで、主流煙を味わうことのできない俺の苛立ちに口元が緩むのは一秒にも満たない瞬間だった。

「拷問の腕は確からしい」

「ありがとう。お礼に一本だけくれてやる。これは私にとっても貴重だからな」

 そう言って紙箱を振り、器用に一本だけ蓋から伸ばして俺の口へ運んだ。

 こっちはそれを咥えてジェットライターで火を点けてもらうだけ。久しぶりの煙草の味だった。

「この国には葉巻しかない。私も事前に知らされていなければまずかった。味はどうだ?」

「煙草だ……」

「フッ、その様では何を舌に乗せても血の味しかしないだろうさ」

 嫌がらせの一つでもされて然るところだろうが、こいつは紳士だった。職業と纏う香りは最悪だが、余計なことはしない質らしい。狙って煙をぶつけてきたことさえも交渉の材料だったように思える。

「私はロゼロなるオカマとは面識がない。雇われたのも古い話ではない。奴は外側からイシュベルタスの役に立ち、私は内側に隠れて独房に運ばれてきた使えない人間を散々いたぶってから抹殺するよう命じられている。私の存在は王宮の人間や民衆には知られていない。勿論、知っている者も中にはいるがね。私は普段、左最奥の部屋で過ごさせてもらっている。通気口もあるため息苦しくはない。豪勢な食事や、清潔な湯も用意してもらえる上にベッドも上質。書物や話し相手も揃っている。拷問に没頭できる環境として最高だった」

「その使えない人間ってのは?」

 煙草を咥えて喋るには吸い殻が顔に零れない程度で上を向く工夫が必要。エサを貰う池の魚みたいだと思わていたら癪だ。

「何度も仕事をしくじったり、羽目を外し過ぎて今現在の平穏なサンズアラを脅かす可能性が高まったカラスたちのことだよ。多少は目を瞑るのが基本のようだが、やり過ぎは決して許さない。イシュベルタスは役者不足が粋がることを嫌う。

 昨日も二人いただいたよ。お前相手にしくじった奴らはかなり焦っていたようだ。祝祭のステージで舞い踊るエリーネに襲い掛かるもこれまた失敗。連行後、薬をやっていた二人を私が処刑した。残った一人はお前に仲間を殺されたと説明を受け、今も鳴き声を上げているはずだ」

 残る一人には心当たりがある。ここでこんな醜態を晒すより前のカラスが集る闘技場で、正しくデマを鵜呑みにして同族を煽っていた『先頭』の男がいたのを覚えている。

「で、だ。私も使えない扱いになるのではないかと内心焦っていてな。協力者は他にもいるが、逆転の切り札といえばお前に限る。しかし、健康とはほど遠い情けない姿だ。これなら単独で夜逃げした方がまだマシだろうなぁ」

「そうすればいいだろ」

「難しい。イシュベルタスが私の逃亡を許すとは思えない。奴がこの国でふんぞり返っていられる裏事情をいくつも知っている身の上だからな。というか、私がそれだもん。元より用が済むか、こうしてキリが良くなったタイミングで処分する前提で私を雇ったはずだ。仕事を引き受けた時点で命運は尽きた。もう間に合わん。どこへ逃げても徹底的に追いかけてくるに違いない」

「あの物好きな男が徹底などするのか?奴は俺と同類だぞ?」

「時折垣間見るが、あのようにわざと頭の足りていない部分を作りたがるのは誰彼構わずというわけではない。それはお前がサンズアラに……いや、この大陸に現れてはっきりした。奴にとってお前は特別な存在だ。イシュベルタスにとってこの国は盤上であり、生きる民衆全てが駒なのだ。お前と命懸けのゲームをするためのな」

 自然に落ちる吸い殻を目で追いかけて、それは足元の水溜まりへ音を立て沈んでいった。

 奴の酔狂についてはおそらくシダーズより俺の方が深く理解している。こいつもまた独特な存在で、纏う香りが俺と同じでありながらも思考は普通寄りだからだ。

 だからこそ、生存競争が始まれば自分の身も危ういと察して助けを求めてきたのだろう。

「ゲーム、ねぇ」

「分からんか?」

「いや、合点がいったよ。何もかもな」

 まだ半分しか吸っていない煙草を水溜まりに吐き捨てた。それで俺が交渉の姿勢に入ったと分かり、シダーズも俺を真似て同じ水溜まりに煙草を落とす。

 長さの違う二本の煙草が、並んで血の海を彷徨していた。

「平和が完成した国ね。奴自身も言っていたが、全てが欺瞞だった。おまけとも言える。実際は例外の出現に備え、万全の状態で迎撃するために駒を維持してきただけに過ぎん。俺かイシュベルタス、いずれかが死ぬまで終わらない殺し合いが始まろうとしている。奴にはもう俺しか見えていない。使える戦力は全て使ってくるはず。

 つまり、不要な人間などいなくなるということだ。王家、無辜の民、衛兵にカラス、司る神。この国にはそれだけあればいい。シダーズ、余分を削除する役割のお前も俺が来たからには余分となる。なるほど、確かに抜け道のない独房の扉を塞がれたら俺たちはここで餓死するしかなかった。イシュベルタスのやりたいことが有無を言わさぬ虐殺でなくゲームだからこそ俺たちにはまだ活路が残されているわけだ」

「そうだ。しかし、次はない。明日に備えておくと言っていたほどだからな。お前がここから脱出して、ある程度体力を回復した頃合いでカラスや神派の衛兵たちがお前を殺すために国中を探し回るだろう。ミイラ化したサンザーク王の玉体を無情にも破壊、シシーラ姫や神たるこの身を欺いた不敬者を決して許すな、という一声でな。最悪の場合、この国の人間全員が敵に回るやもしれんぞ」

「敵意で向かってくるのなら誰であれ斬るだけだ。明日までにどこまで回復できるかにもよるがね」

「あまり時間はない。彼女の手を借りねば厳しいだろう。もう夜だからな」

「……そうかよ」

 イシュベルタスの嘘に早速騙されたが、風向きは悪くない。

 懐から鍵を取り出したシダーズが俺の背後に回って錠を解いた。佇む力もない俺は着地も儘ならず、崩れるように床へ倒れた。充血した白装束を更に汚して。

「こっちの鍵は預かっていた。イシュベルタスは私がお前を救出するところまで計算していたのかもしれんな」

 自力で起き上がろうとすると意識が途切れそうになる。せっかくこの辛気臭い洞窟の底から抜け出せるというのにこれ以上の無茶はリスキーで、不服ながらシダーズの介助に甘んじることとなった。

「悪夢を思い出すね。砂漠で寝ている間もあのお姫さんにこうしてオアシスへ運ばれたんだな」

「未練かね?」

「奪われたままだからな、俺の得物。……それに、確かめるべきことがある」

 シダーズと肩を組み、力のない足で共に脱出する。

 死の予感を察することのできるこの男に限ってそれはないだろうと思いながらも、酔狂には酔狂で返すのが礼儀だと思い素朴な疑問を投げた。

「拷問のお供は置いていくのか?」

「カバンは安物、中身はこの国で借りたものだ。もう世話になることもない。向こうのピラミッドから盗んだ宝石も含め、必要最低限の備えは携帯してある」

「へえ、流石はもう一人の異分子。大悪党じゃないか」

「貰っていないギャラを受け取っただけだ。ボーナス込みでな。それに、悪党といえばカラスたち、それらを凌ぐはイシュベルタスとお前だろう?皆殺しではないとはいえ、千人斬りは流石にふざけ過ぎだ」

 拷問官の男と共に独房を出る。この場で出会い、立場上は敵対しながらも互いの置かれた身の上や、今為すべきことにより目的が合致し、一先ずの協力関係となった。

 自分一人では歩けない状態とはいえ、回復すればこいつを囮にしてゲームから逃れることも可能だろうが、シダーズの言ったことが本当ならこの国から脱出したところで以前と変わらない生活に戻るだけ。

 それなら、俺がこれからやるべきことは自ずと定まるというもの。

 かつて、この身がまだ逃亡犯だった頃に出会ったあのの時と同じように、いくつか疑惑がありながらも何でか無下にもし難い腐れ縁を感じさせられる。体力の回復とゲームの邪魔をしてこない限りは斬るのを免除してやってもいいほどに。

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