深夜

「……あぇ」

 いつの間にか閉じていた瞼を開くと、隣りにいたはずの彼女は机の前に置かれた椅子の上に移動して、こちらをじっと眺めていた。

「……もしかして俺、寝てた?」

「はい、四時間くらいですけど。丁度さっき日付が変わったところです」

 彼女を胸にいだいて物思いにふけっていたところまでは記憶にあったのだが、そんな状況下で熟睡してしまった俺は男としてどうなんだろう……。

「万里くん寝言で”六波羅探題”って言ってました。どんな夢見てたんですか?」

「え! うそ!」

「はい。うそです。私もちょっと前まで寝てましたから」

「……」


 とてつもなく無意味なやり取りを終えてるとベッドから上半身を起こして軽く背伸びをする。

 壁の時計に目を向けると確かに彼女が言ったように、ほんのさっき昨日から今日に変わったばかりという中途半端な時間だった。

「腹、減ったな。千尋ちゃん俺、ちょっとご飯食べてくる」

「ついて行ってもいいですか?」

「うん」


 冷蔵庫からカレーとご飯を取り出し電子レンジに放り込んでからリビングのテレビをつける。

 深夜時間帯故に通販番組ばかりだったが、それ以外の内容の放送をしているチャンネルを探してテーブルの上にリモコンを置く。

 それはローカル局の地域紹介の番組で、ちょうど先程彼女と話したばかりの遊園地が特集されていた。

「千尋ちゃんこれ、さっき話してたとこだよ」

「あ! ほんとだ! あの観覧車です!」

 彼女は元々大きな瞳を更に見開くと、ソファーに浅く腰掛けてテレビにかぶり付いた。


 温めが終わったカレーをスプーンで口に運びながら画面に目を向ける。

 支配人と思しき男性と女性アナウンサーが、園内を闊歩しながらアトラクションを紹介するだけのこの番組は、深夜の時間帯らしい緩さで心地よくすらあった。

 テレビ越しに見た限りだと子供の頃に両親に連れられて行った時と殆ど変わっていないように見えるが、記憶の中のそれとは違って園内に人影があまり見られない。

 それは当時よりも娯楽が多様化した所為か、或いは平日の撮影だったのか。

「随分と過疎ってるな」

「え? そうなんですか?」

「うん。盆休みになればもう少し混んでくるかもしれないね。逆に今行けばノータイムで乗り放題かも」

「じゃあじゃあ! 早く行きたいです!」

「さっきネットで見たんだけど今週末からナイター営業が始まるらしいから、そのタイミングで行ってみようか」

「はい!」


 カレーが無くなるのとほぼ同時に番組も終了し、手早く洗い物を済ませると再び部屋へと戻ってきた。


「千尋ちゃん、どう? 寝れそう?」

「う~ん……。さすがにちょっと寝すぎちゃったみたいです」

 出来ることなら朝まで一緒に起きていてあげたかったのだが、今週は色々とありすぎて疲れが溜まっていたのは、他ならぬ自分が一番よくわかっていた。

「ごめん。俺は寝させてもらうから。眠たくなるまでテレビでもネットでも、好きなようにしてていいから」

「はい。じゃあ下でテレビを見させてもらっていますから」

「うん。それじゃ、おやすみ」

「おやすみなさい」

 彼女が部屋を出て行ったのと一緒にベッドに潜り込むと、次の瞬間には微睡まどろむ時間すらなく眠りに落ちた。




 翌朝――というか数時間後。


 目が覚めるとすぐに隣で寝ている少女の顔が目に入る。

 俺がベッドの真ん中で寝てしまっていたせいだろう。

 彼女は僅かな余地に身体をねじ込む形で細長くなって眠っていた。

 その姿はといえば、段ボール箱の中に捨てられた仔犬や仔猫のようにすら見える。

 長い睫毛まつげすだれのように閉じ、小さな口を少しだけ開けて気持ちよさそうに寝息を立てているこの姿をみて、この子が既にこの世に居ない人間だと知覚することの出来る人間などいないだろう。


 彼女を起こしてしまわないよう、そっとその白く柔らかそうな頬を触れてみると、まさに見た目通りの感触が指先に間違いなく感じられた。

 そのまま指を下の方にずらし、今度はしわ一つない薄桃色の唇をなぞる。

 少しだけ濡れたように見えたそこは、絹地のようにツルツルと滑らかな指ざわりをしていてやはりとても柔らかだった。

(……俺ってやっぱりロリコンなのか?)

 そっとベッドから抜け出しカーテンの隙間から外の様子を伺う。

 昨日までの雨が嘘のように晴れ渡った空の青色が、夏本番が間近だということを誰に遠慮することもなく大いに主張していた。


 下階に降り三食連続のカレーで朝食を済ませていると、ふいに壁のドアホンのチャイムが鳴り響いた。

 来客の予定などなかったのだが、かといって出ないというわけにもいかない。

 ティッシュで口元を拭いながら立ち上がり、ドアホンのモニターを覗き込む。

 そこに映っていたのは隣家の長女にして、俺の幼馴染でもある理亜その人だった。


 玄関の鍵を開けるとすぐにドアが外側に開かれ、把手とってを掴んだところだった俺は、思いっきり前のめりに倒れ込んでしまった。

「――えっ万里ちょっと……きゃっ!」

 ドアの前に立っていた理亜の胸に思い切り顔から突っ込んだ俺は、その最上級のクッション性のお陰で全く痛みなど感じることもなく、むしろ――一瞬ではあるが――予想だにしなかった快楽に身体が反応してしまいそうになる。

「……万里。幼馴染に対する”おはよう”の挨拶が、それ?」

ひはふんはってちがうんだって!」

 入れ歯の外れた老人のような口調で弁明をしながら急いで顔を上げる。

 意外なことに彼女は笑顔を湛えていたのだが、逆にそれが少しだけ恐い。

「私は確かにカノジョさんが高校生になるまではガマンしなよって言ったけど、だからってさ……」

「いやだから! 理亜が急にドアを開けたもんだから!」

「冗談だよ? ごめんね」

「……こっちこそ、すいませんでした」

 腰を四十五度曲げて謝罪した。


「それで朝からどうした?」

「あ、そうそう。これあげる」

「? なんだろう?」

 彼女に手渡されたのは小さな封筒で、その中身はというとまさに俺と千尋ちゃんが行くことが決定したばかりの遊園地の入場チケットだった。

「え? これって?」

「お父さんが仕事で貰ったんだって。万里がこっちに帰ってきたら一緒に行こうと思ってたんだけどね。カノジョさんと行ってきて」

「……ごめん」

「ホントだよ。楽しみにしてたのに! その分、カノジョさんと楽しんできて――っていうと、なんだか当てつけがましいよね。でも、そういうんじゃないから」

「うん。わかってる。ありがとう」

「うん! じゃあ私、今から部活だから」

「そっか。気をつけていってらっしゃい」

「はい! 行ってきます!」


 手を振りながら駆けて行く彼女の背を見送った後、手にしたチケットを見つめながら心の中でもう一度理亜に礼を言う。

 数年前に母が亡くなって塞ぎ込んでいた俺が今日こうして人並みの学生生活を送れていたのは、彼女という存在があったからだということには前々から気がついていた。

 いつかきっと、それがどんな形でもいいので俺は彼女に恩返しをしなければならない。

 ただ、この夏だけは俺の全てをもうひとりの幼馴染である千尋ちゃんの為に捧げたかった。

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