紺碧

「小さな頃の話とはいえ、なんかすいません……」

 過去にした悪事が今になって自分に返ってきたような、そんな残念な気分だった。

「あなた達とってもお似合いだったのに本当に残念ね。それに」

「はい?」

「千尋ちゃん、当時はまだ小学校に上がったばかりくらいだったかしら」

「ええ、多分」

 定かではないが確かそのくらいだった気がする。

「あなたは如何にも楽しげに言っているだけだったけど、あの子のあの目。あれ、きっと本気だったんじゃないかしら?」

「っ」

 背中から声にならない悲鳴が聞こえた気がした。

「とにかく、本当にご愁傷さまでした」

「あ、はい。ありがとうございます」

「それじゃ、私はこれで。おばあちゃんにも宜しく言っておいてね」

 ハシモトさんはそれだけ言うと、来た時と同じようにてくてくと歩いて店内へと消えていった。


「千尋ちゃんは覚えてる?」

「……何がですか?」

「俺と君って『ケッコン』の約束してたみたいだけど」

「……覚えてないです。あの、それより次のところに行きませんか?」

「ん? いいけど次ってどこ?」

「ここでお菓子を買って食べてたら、さっきのおばあちゃんがジュースをくれたんです」

「そうなんだ」

「はい。それで『どこか景色の良いところで飲もう』っていう話になって、海に行きました」

「……ああ。そうだったかも」

 たかだか二歳の違いとはいえ、彼女の方がを有している分、俺のそれよりも遥かに当てになる。

 地図アプリに頼れば最短ルートを得られるだろうが、今日の目的からすればそれは不適当に思えた。

 海に行くのであれば、とりあえず南に向かえばいいのだろう。


 ハシモトさんの軒先に丁度人一人が通れるような細い上り坂の道を見つけた。

 足元が良くなかったので彼女の手をしっかりと握り坂を上り切ると、途端に視界が一気に開ける。

 ビニールハウスが幾つかあるだけで他に視界を遮るもののないそこには、なだらかな起伏を伴いながら見渡す限りに農作物の緑色と大地の茶色が続いていた。

 この辺りは国内でも有数の農業地帯なのは知ってはいたが、県道を僅かに逸れただけでこれ程の規模の耕作地があるとは思わなかった。

「なんだか北海道みたいだね」

「あ、私もそう思ってました。北海道には行ったことないですけど」

「まあ、それは俺もなんだけど」

 顔を見合わせ笑い合いながら、ネギやブロッコリーが植えられた緑色の絨毯の間を海へと向かい真っ直ぐ南へ進むと、段々風の中に潮の香りが混ざってくる。

 日差しは相変わらず強力だったが、頭部に装備した祖父の麦わら帽子と海から吹いてくる風のお陰であまり暑さは感じない。


 お喋りをしながら五分程も歩いただろうか。

「あっ!」

 突然声を上げた彼女の視線の先を辿る。

 そこには果たして紺碧こんぺきを湛えた大海原が広がっていた。

「万里くん! 海です!」

 彼女はまるで子供のようにピョンピョンと飛び跳ねながら、海と俺の顔を交互に見て笑顔を咲かせた。

 跳ねる度にセーラー服とスカートの間から真冬の雪のように白い腹部と、その中心にある形の良いが見え隠れする。

「千尋ちゃん。お腹みえてる」

「えっ? ――きゃっ!」

「先に言っておくけど俺は悪くないからね」

「別にそんなこと言ってないのに」

 そう言いながらも彼女は頬を膨らませたのだが、その表情は相変わらず笑顔のままであった。


 耕作地の農道から砂浜への境には葛のような蔦植物が一面に生い茂っていたが、その一角に人一人分の踏み跡があるのを見つけることが出来た。

「千尋ちゃん、手」

 数分振りに彼女の小さな手を取ると、少し下り坂になったそこを慎重に降りていく。

 やがて靴底から伝わる土の感触が砂のそれに変わると同時に、眼前の下半分が砂浜の白、そして上半分が海と空の青で埋め尽くされた。


 砂の感触を楽しみながら波打ち際の少し手前まで歩くと、ちょうどいい感じのサイズの丸太の流木を見つけてその上に腰を下ろす。

 たった一メートルちょっと低い位置に視線が下がっただけだったが、それによって海の広さがより強調されたような気がする。

 千尋ちゃんはといえば、俺の横に立ったまま黙って海を眺めていた。

「海。もう一度だけ行きたいなって思ってたんですけど、全然簡単にこれちゃいました」

「もしかしてそれも”やりたかったこと”のひとつ?」

「はい」

 彼女の願いを叶えてあげられたのは嬉しかったが、昨日と今日だけで六つあったそれのうち、既に三つを達成してしまったことに妙な寂しさを感じた。

「千尋ちゃん、シーグラスって知ってる?」

「はい。毎年夏になるとお父さんとお母さんと三人で、ここの海に遊びに来てたんですけど、その時にいつも探してました」

「じゃあ、どっちが綺麗なシーグラスを見つけられるか勝負しよっか?」

「いいんですか? 私、プロですよ?」

 彼女は「ふふふっ」と笑いながら波打ち際へと駆け出した。

 俺も少し遅れてその背を追う。


 そこまではまるで青春映画の一コマのようだったが、波打ち際に到着するや否や俺も彼女も中腰の姿勢で目を皿のように丸くすると、超地味に地面を見つめながらゆっくりと海岸を移動していく。

(なんか落としたコンタクトレンズを探してるみたいだな……)

 彼女も同じようなことを思っているのではないかと、すぐに痛みが出始めた腰を伸ばすついでに振り返ってみる。

 二〇メートルも向こうで俺とは真逆の方向にシーグラスを求めた彼女は、両手を腰の後ろで組み小さなお尻を左右に振りながら波打ち際をゆっくりと遠ざかって行く。

 俺とは違って腰を屈めていないせいか。

 彼女は捜し物をしている風というよりは、ただ夏の海辺を散歩しているかのようだっ……え?

 一瞬、彼女の後ろ姿に幼い女の子が重なって見える。

 二度見をした時には既に消え去っていたその子は、あの夏に一緒に冒険をした従妹、幼き日の匂坂千尋に他ならなかった。

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