あの夏の日

追憶

「じゃあ、そろそろおいとまします」

「何にもお構い出来なくてごめんなさいね」

 叔母に見送られて玄関のドアを開けると、そこには海から柔らかに吹いてくる風にセーラー服の三角タイとスカートをはためかせた千尋ちゃんが真っ直ぐにこちらを向いて佇んでいた。

「……千尋?」

 振り返ると叔母は俺を透かして千尋ちゃんの顔を正面に捉えているように見えた。

 まさか叔母にも千尋ちゃんが見えているというのだろうか。

「おばさん?」

「あ……ごめんなさい。今、娘がそこに立っていたような気がして……」

「千尋ちゃん、どんな表情かおしてた?」

「……昨夜、夢に出てきてくれた時と同じ……笑って……」

 叔母の目から大粒の涙が溢れ出す。

「きっと、そういうことなんだよ」

「……そうね。万里ちゃんの言う通りね」



「お母さん、私のことが見えたみたい」

 エレベーターの階表示を見ながら口を開いた彼女の頬には、母親と同じように涙が流れたあとがはっきりと残っていた。

「今夜か、それか明日の夜にさ。おじさんが居る時にもう一度来てみようか?」

「え? でも、万里くん今日のお昼に帰るんじゃ……」

 不思議そうな顔をし視線をこちらに向けた彼女と交代するように、オレンジ色が流れるデジタルの数字に目を向ける。

「別に帰ってやることがあるわけでもないし。それにおばあちゃんも俺が帰ったら寂しいかな、って」

「……」

 彼女は何も言わなかったが、下ろしていた手にふいに小さな圧力を感じた。

 俺は黙ったままそれを握り返す。


 数十分振りに戻ってきた地上の景色は先程までより随分と色を濃くしているように感じ、すぐ目の前に茂る新緑の木々や夏の色をした空が本来の色を取り戻していた。

「ねえ、千尋ちゃん」

「はい?」

「昔の――小さい頃の話なんだけどさ。おじいちゃんの一周忌の時、大人達に内緒でどこかに遊びに行ったと思うんだけど、覚えてない?」

「うんと……ごめんなさい、覚えてないです」

「そっか。俺もどこかに出掛けたことだけは覚えてるんだけど、それがどこだったのかは思い出せなくて」

「じゃあ」

「うん?」

「じゃあ、それを探しに行きましょう! どうせお互いに暇なんだし、ね?」

「うん、そうだね。そうしよっか」

 握った手はそのままに見つめ合い互いに大きくうなずいたあと、マンションのエントランスから同時に一歩を踏み出した。


「さて。最初はどこから攻めようか」

「あの頃の私達だったら、きっと近くのどこかだと思うんです」

 それはなかなかの名推理だと思った。

 当時は彼女も親の再婚でこちらに来たばかりだったはずで土地勘はなかっただろうし、それはどちらかといえばインドア派だった俺とて同じだった。

「じゃあ。えーっと確か……あっちかな? 駄菓子屋さんがあったと思うんだよね」

「そこって多分、ハシモトさんですね。でも二年くらい前に閉店しちゃったはずです」

「そうなん? まあでも、とりあえずそこでいい?」

「はい!」

 彼女は夏の日差しにも負けないようなとても良い返事をすると、俺の手を引っ張るようにして元気いっぱいに歩き出した。


 彼女の家から県道を歩くこと十分。

「ここです。でも、やっぱりやってないみたいですね」

 昭和時代の映画のセットのような木造平屋の小さな店舗にはシャッターが下ろされており、その前に置かれた自動販売機も電源が落とされているだけではなく、サンプルまで全て抜き取られ気の毒な程にうらぶれていた。

「思い出した。ここ、確かに来たよ」

「え?」

「一周忌がお昼過ぎに終わって、それからすぐに大人達が宴会を始めたんだ。それで俺と君はやることがなくて、居間の隅っこでしりとりをしてたんだよ」

 話しているうちに俺が”る”を連発して彼女を半泣きにさせた記憶も蘇ってきたが、それは黙っておくことにする。

「そうしたらおばあちゃんが俺達に百円ずつくれて『お菓子でも買っておいで』って」

「私も――思い出しました。私、ここに来る途中でそのお金をどこかに落としちゃって」

「うん。俺の貰った百円で五十円ずつお菓子を買って、そこのベンチで食べたんじゃなかったっけ?」

「……ええ」


 自販機の脇で人知れずに色褪せていたベンチに二人並んで腰を下ろす。

 頭上に青く茂るコナラの葉と葉の間から漏れる光が心地いい。

「あの日も今日みたいにすごく暑くて。ここに来るまでに三回くらい木陰で休憩した記憶があります」

「そうだっけ? そこまでは思い出せないなぁ……」

「はい。万里くん、なぜか虫取り網を持ってました」

「ああ。当時ハマってたからね、蝉取り」

「それで確か――」

 そう言って彼女がベンチから立ち上がったのと同時に、店の出入り口のガラス戸がガラガラと音を立てて開いた。


 中から出てきたのは品のようさそうなおばあさんだった。

 おばあさんはこちらに気づくとニッコリと微笑んですぐ隣まで歩いてきる。

 千尋ちゃんは何故だか慌てて俺の後ろに隠れると、もともと小さな身体を更に縮こませた。

「あ、すいません。ちょっと休ませてもらってます」

 俺は立ち上がりおばあさんの方に向き直って一礼した。

「あら。あなた一昨日の夜に勾坂さんのとこの……」

「あ、はい。あの、僕はあの家の孫です」

「あら! じゃあ百合子ゆりこちゃんの息子さん?」

 百合子とは母の名前だ。

「曳馬万里です」

「あらやだ! 全然わからなかった! また随分と大きくなって!」

「はあ……」

 通夜の席でもこれと同じやり取りは何度か経験していたのだが、その全てで俺は相手がどこの誰なのかをわかっていなかった。

 なのでリアクションの模範解答というものも未だに持ち合わせていないのだ。

「千尋ちゃん、お気の毒だったわね……」

「……本当に」

「あなた達、仲良かったものねぇ……」

「え? そうなんですか?」

 覚えていないとはいえ自分のことだろうに。

 我ながら何とも間抜けな返答だと思った。

「あらやだ、万里ちゃんは覚えてないの? あなた達、村中の人に『僕たち大きくなったらケッコンします!』って触れて回ってたじゃない」

 絶句。

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